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自分らしさに呪われて、それを探して旅をして

 自分らしく生きるという呪文は呪縛である。
 人はそうそう自分らしく生きられないし、自分らしく生きようと「思ってはいない」。
 なぜなら、私たちにとっての自分らしさとはあまりに曖昧で、それは自分ですらわからないか、自分こそわからないものだからである。そして何より、そんな良くわからない自分らしさよりも大切なのは、私たちにとって、周りの評価とか、風潮とか、常識とか「~すべき」という同調圧力とか、そういった類のものだからである。

 これらの影響が人生においては避けられない。そして大きな部分を占める。考えてみてほしい。誰が、常識を強い力ではねのけることができる?そうすべきという風潮に抗える?結局私たちは、自分の意志など二の次で、それ以外の考え方を自らに取り入れて生きている。
 というよりも「自分」など、最初からは存在しない。生まれた時から自我を持つのではなく、周囲にいる人々によって、「私」は与えられるのだ。そう考えた時に、むしろ、「自分らしさ」などなんなのだろうかと悩む。求めれば求めるほど、それは単なる呪縛となってしまう。

 いっそ、わからないものなど考えても仕方がないと諦らめられれば、どれだけ楽だったか。けれど人は自分を捨てることはできない。誰かに委ねることもできない。それをしてしまっては、死んでいるのと同じだから。生きるということは自分探しとも言えるほど、自らを見つけることは生の重要な目的となる。
 仮にそれをはっきりとは見つけられなくとも、それをしないわけにはいかなかったと私たちは思うのだ。

 だが、とはいえ、自分らしく生きるという呪文は呪縛である。それは深く深く考えなければそうしているとは思えないほど、潜在的なものである。私達の日常はもっと気楽で、自分らしさなどにしっかり向き合っている暇も気づきもなくて、ただ、やはり、周りのことばかりである。
 人生には自分以外が本当に多く詰まっている。そのことを飲み下しながら、私たちは生きる。生きるしかない。
「自分らしさ」をふと、思い出すにしても。

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