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キャラクターにとって、性別は道具でしかない

 この世ならざるものである「キャラクター」という存在において、その全ては結局は幻にすぎない。というよりも、大前提としてキャラクターは現実の存在ではないのだから(たとえば、印刷されていればインクの集合体だし、映像ならば光の集合体、そうでなくともデータである)、どうあってもそれは、実際に生きいるように見えてそうではない。
 だから、キャラクターの身に宿るあらゆるものは単なる設定などと名付けられた情報である。しかもそれは作られたものであって、言ってみればそのキャラクターに宿っているものですらないと言える。

 だが、この現実に生きる私達はキャラクターの存在を幻などとは断じることができない。そう簡単には割り切れないのが人情だ。だから、キャラクターにはどうにも「ちゃんとしていてほしい」と無意識にせよ願ってしまっている。
 つまり、キャラクターは確かに突拍子もなく変なやつとか、逆にとても堅苦しいやつとか個性豊かであるが、それでもそこに「普通」とか「常識」とか「当たり前」のようなこの現実にいてもおかしくないところ、理解しやすいところが求められてしまうのだ。
 たとえば「性別」はその典型例である。外見が男ならば中身も男らしさを、女ならば女らしさを、そしてそのどちらでもないということは歓迎しない。伝統的な男女というものをキャラクターの性別に持ち込むということは、まったく当たり前のように行われている。

 これは、むしろキャラクターというものが単純化された記号であるからである。私達にとって確かにそれは現実的で、理解したくて、隣りにいてもおかしくない存在であるとしたい。だからこそ、それは単純であってほしいのだ。複雑な心の微妙さとか、ジェンダーとか、生きづらさとか、そういうのは知ったこっちゃないのである。そんなもの、押し付けられたテーマに過ぎない。キャラクターを愛でることとは何も関係がない
 だから、特に「性別」という私達の現実にとっての存在意義とすらなりえるものが複雑なことには我慢がならない。それは2つでいい。あるいはいくつでもいいが、面倒な問題は持ち込まないでほしい。そういうのが本音である。フィクションの存在であるキャラクターですら、というよりであるからこそ、私達はそれを常に「許容できるか否か」というシビアな目で見ざるをえない。

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