かわうそ

シナリオライター、LQA。 自分の思考整理のためのnote 何か引っかかるところがあり…

かわうそ

シナリオライター、LQA。 自分の思考整理のためのnote 何か引っかかるところがありましたら幸いです。 ご連絡は onamomi.kuron@gmail.com まで

マガジン

  • キャラクター論

    キャラクターそのものをどのようにいじくるのか、設定をどうするのか、なにが最適なのか……そういったことをテーマにしたnoteが集まっています。

  • 物語再論

    物語の立ち上がり方、成り立ちの仕方を、順序立てて際者から説明する。

  • ステラの事件簿(更新停止中)

  • 短編小説

  • キャラクター論:キャラの分類

    キャラクターを2軸で考える

最近の記事

人は意味ではなく、表現でもって生きるしかない

 意味のない表現はない。  表現には全て意味があり、そして私たちは各々が行う「表現」によって、それぞれの持つ「意味」を共有しながら生きている。重要なのは、この場合における「意味」とは抽象的なものであり、「表現」とは具体的なものであるということだ。  つまり、この世において目に見えるのは表現であり、意味はそうではないのである。私たちはこの、目に見える表現をたよりにして、意味を理解しようと動く。意味は目に見えないから共有できない。代わりに、目に見える表現を用いて、伝えたいことを共

    • 自分らしさに呪われて、それを探して旅をして

       自分らしく生きるという呪文は呪縛である。  人はそうそう自分らしく生きられないし、自分らしく生きようと「思ってはいない」。  なぜなら、私たちにとっての自分らしさとはあまりに曖昧で、それは自分ですらわからないか、自分こそわからないものだからである。そして何より、そんな良くわからない自分らしさよりも大切なのは、私たちにとって、周りの評価とか、風潮とか、常識とか「~すべき」という同調圧力とか、そういった類のものだからである。  これらの影響が人生においては避けられない。そして

      • 「敵キャラ」はなぜ、テンプレ的に主人公の邪魔をする?

         フィクションであるからには敵は敵でなければならない。「敵キャラ」はそういうキャラクターとして成立するが、「味方キャラ」にはそういう決まったイメージはない。  要するに、ステレオタイプの悪役というのは存在するが、ステレオタイプの味方というのは存在しないのだ。主人公を中心としてただ役割が違うだけなのに、なぜ、敵には「敵キャラ」のテンプレート(おきまり)があるのだろうか?  これはひとえに、敵とは「目的」であるからだ。あるいは「障害」といってもいい。  たとえば主人公がいて、

        • 人は老いる。でも準備はしない

           誰でも老いる。老いない人はいない。でも、老いに対して準備ができている人は驚くほど少ない。  確定的に起きることなのに、どうして準備をしないのだろうか。生物にとって死はいつか訪れる。でもその予兆としての老いを、私たちはなかなかに想像しない。  1つ言えるのは、それが直視したくないことだからだ。老いとはマイナスであり、死の前日譚である。だから、そんなもの想像したくないのだ。できるだけ考えないようにすれば、まるでないもののように扱えるから。  老いは遠くにおいておきたいし、ある年

        人は意味ではなく、表現でもって生きるしかない

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        • オリジナリティへのごかい
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        記事

          慌ててしまうと、慌てていることに気づかない

           慌てることの何がたちが悪いかというと、慌てていることに無頓着になることである。私たちの中にある「慌てている人」は客観的だ。自分が慌てている時のことをしっかり思い出せる人は少ない。だって慌てているから。  それこそが慌てていることの最大にして最悪の効果で、本人は慌てている時にいかに判断力が鈍り、分の悪い賭けをし、効率悪く働いているかわからない。  そういう状態は危険であり、慌てていることを長引かせる原因にもなる。だからもし、自分が慌ててしまった時には強い意思を持って自分から自

          慌ててしまうと、慌てていることに気づかない

          「言われたことしかできない」?⇔「言われたことしかさせていない」?

           言われたことしかできないというのは、自分でも他人でも嫌なものだ。それは責められる対象になるし、プライドが傷つく。どうしてできないんだと自己嫌悪にだって陥る。人間は誰だって、自身の能力を限定的なものだと思いたくない。それで余計なことをして、反対に叱られたりする。  言われたことしかできないというのは、そうやって誰かの能力が劣っているのだと認定してしまうようなことである。  ただ、言われたことしかできないのは、言われたことしかさせないからなのだ。どうしてかこのことを、私たちは

          「言われたことしかできない」?⇔「言われたことしかさせていない」?

          若さって王道が似合うこと

           若いというのは王道である。若さには王道が似合うし、若いからこそまず王道をやるべきだというのもある。だから、これらは切っても切り離せない。  反対に、若い頃というのは王道を嫌う時期でもある。あるいは王道の良さをわからない。色々やりたくなる時期だし、可能性が広がり続け、挑戦が当たり前の時期だ。そんな状態で、王道なんて格好悪いと思うのは当然である。  ゆえに若さは、王道と相性が悪いと思われてもいる。  似合うのか、似合わないのか。若さとは王道なのか、そうでないのか。唯一の判断材

          若さって王道が似合うこと

          大勢に囲まれて、自分だけを見つめて

           自分勝手な人と付き合いたいとは、誰も思わない。だって自分勝手な人は、自分のことばかりを優先して周りへの配慮がないからだ。そんな人と一緒にいるのは疲れるし嫌だ。そのため、自分勝手な人は得てして孤独になるし、そう思われている。  でも残念ながら、自分勝手は独りで成り立つものではない。それは誰かと比べて、自分を優先することだ。だから自分勝手は、周りにたくさんの人がいて、それを蔑ろにするからこそ、そう言われる。けして孤独ではない。  もちろん、孤独でない人が自分勝手になり、結果と

          大勢に囲まれて、自分だけを見つめて

          「伝える」は、まずは自分に伝えよう

           自分の言うことが、なかなか伝わらない。言葉にしても文字にしても資料にしても、あれこれ話して、書いて、わかってもらったはずなのに、あとになってみればやはり、伝えたいことの1割もわかってもらえていない。よくあることだ。  なぜ、伝わらないのだろうか。それは人類の永遠のテーマかも知れない。なぜ、人はわかり合えないのか。  古今東西あらゆる時代でそれは検討されて、実践されて、数々の失敗の上にノウハウが形作られてきた。それらはすべて、努力の結晶であり、試行錯誤の表われだ。どうあって

          「伝える」は、まずは自分に伝えよう

          どうして「連続」を信じることができるのか?

           この世に連続などないということを知ることが、生きる上で1つ、役立つ。この現実には目に見えるもの見えないもの様々あるが、それらはどれだけ繋がっているように思えても、しかし、そこに連続などはない。  連続がまやかしだというわけではなく、ただ、それは人の作り出した概念、ものの見方であって、本当に繋がっていることを信じてしまうほどには、それは強固ではないことを知るべきである。  なぜなら、人間とは今を生きる存在であり、未来に存在しているわけではないからである。そして連続とは未来の

          どうして「連続」を信じることができるのか?

          情報を、手軽に手に入れることと与えることと

           手軽に手に入る情報は価値が薄いのではなく、手軽に手に入れられた情報は価値が薄いのだ。重要なのは、その情報の「手軽さ」がどこにあるかである。  情報がほしい人々がその手軽さに魅了されるのは当然で、手軽であればあるほどより多くの情報が手に入るからである。そして情報の多さは、質に繋がる。比較検討することで真偽の判断や、より深い考察ができるようになる。  すなわち、情報が手軽に手に入れられることは価値あることである。しかし、その情報が手軽に提供されてしまうことは、価値の低下に繋が

          情報を、手軽に手に入れることと与えることと

          学んで人は明るくなれる

           人は学ぶとそれを実践したくなる。だから行動的になるためには学びがもっとも効果的だ。  同じように、ネガティブ思考は学ぶことによって薄れていく。学びは未来のための行動だから、視線を自然に前に向ける。だから後ろ向きなネガティブ思考は、その暇がなくなるのである。  このように「学ぶ」とは、人を静かな厭世家から、積極的な楽天家へと変えていく。  学ぶことは少なくとも精神に、そういう効果をもたらす。もちろん、学びはあくまでも学びたいものが目的だ。技術を身に着け、知識を蓄え、知らない

          学んで人は明るくなれる

          面白いストーリーは、絶望して、絶望する

           絶望から復活する主人公というのはストーリーとして面白い。どうやって?どこまで?なぜ?その先にはどんな景色があるのか?復活とは希望である。輝かしい未来と勝利を期待できるし、それまで散々痛めつけられていた主人公が逆転するところを見られるのは、単純にスカッとする。だから「絶望からの復活」は古今東西多くの物語に取り入れられている。  しかし絶望とは、ストーリーが面白くなる序章に過ぎない。確かに絶望からの復活は良いものだ。手に入れられないかと思いきや、仕合わせはは主人公にこそ贈られる

          面白いストーリーは、絶望して、絶望する

          「能力」以外も仕事の能力なのか

           仕事ができるというのは、まさに「仕事ができる」ということを指す言葉であると理解されている。私たちは誰も、仕事ができると聞いて、その人の能力が低いとは思わない。また、その人の能力が高いから、仕事ができると思うのだ。  しかし、その「仕事ができる」というのは、純粋に「仕事をこなす能力が高い」ということを意味するのだろうか。むしろそれ以外の部分も私たちは、その「仕事ができる」ことに含んで判断しているはずだ。  つまり仕事におけるある人の「能力」というのは、そのやるべき仕事を上手

          「能力」以外も仕事の能力なのか

          率先するためには追従できるようになろう

           よく思われているのは、率先して何かをやるというのはハードルが高く、誰かに追従するのはそうではないということだ。自らが最初に手を挙げることは、人によってはとても気が重く大変な行動になる。もちろんできる人もいるが、それは多くはない。一方で、では、そういう率先した人に後からついていくこと、同調したり、協力したりということは、難しくないことだと誰もが考えていることだろう。  しかし、そうではない。  誰かに追従することもまた、ハードルの高い行動なのだ。なぜならそれは、結局のところ率

          率先するためには追従できるようになろう

          近く近くへ面白く。誰も我慢などせず

           面白さは近くになければならないが、その距離は近年、ますます近くなっている。私達は面白いに手が届くことを求めていて、それを焦らされるのがたまらなく嫌なのだ。でもそれだけならば、かつては我慢できた。  問題なのはその距離が、辛抱しなければならないと思える時間が、とてつもなく短くなっていることである。  だから今、私達はエンタメを楽しめない。本当の意味で。適度な距離感で「面白さ」の遠影を眺め、期待に胸を膨らませ、ワクワクできない。そうできるはずの時間も距離も、もう私達はあまりにも

          近く近くへ面白く。誰も我慢などせず