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求道くん 〜究めるを急がないことへ

 女房は『浪漫社』というバーのオーナーであり、いわゆる「ママ」だ。

 で、俺は昼はひるで別の仕事をしながらもそれが終わったら店に合流し、とりあえず「マスター」と呼ばれている。

 マスターと言ってもオーセンティックなバーのようにシェイカーを振ったりカクテルを作るでもなく、ただカウンター席の一つを陣取って、お客様がたのお話に合わせて会話をしたりその時々に合わせた音楽や映像を流したりといった、ママが花魁《おいらん》だとすれぱ俺は幇間《たいこもち》といったスタンスだ。
(落語聴きましょう、皆さん)

 まあ紆余曲折あったものの、それで5年半、まずまずうまくやってきたなと思う。ありがとうございます。
(※例のアレで、6月20日までは休業中)

 さてところで、昼の仕事がある俺と夜半から仕事の女房(ママ)とは、「生活時間」にズレがある。
 このことは何度か綴ってきた。

 がしかし俺が昼の仕事に出かける前に淹れる朝のドリップ・コーヒー——もちろん、ママが起きてくる頃にはすっかり冷めている——が彼女は好きらしく、ミルクを加えたりレンチンしたりして楽しんでいるらしいのだな。

 で、例によってここからが本題なのだが(笑)、先週末にママが前の家庭の娘さんがたと出かける機会があり誕生日プレゼントを兼ねて彼女が前々から気になっていた「フレンチプレス」のコーヒーメーカーを買ってもらったとの由。

 フレンチプレスには俺も兼ねてから興味があったので、大歓迎でこの数日使ってみた。

 でも、何かが違うのだな。

 そのディテールについては本論ではないので避けるが、肝心なのはその、
「何かが違うのは、いったい何か」
 ということ。

 どんな道具や機器にでもそれなりのクセがあり工夫とかは必要なわけで、この数日の違和感だけで、

「ママがお嬢さんからプレゼントされたフレンチプレス機を否定してはいけない」

 ということが肝心だ。

 機器の性能・機能云々より、ヒトはまず心に寄り添わなければいけない。

 この記事のタイトルに戻るが、同じ《きゅう》と読むにしても、「求」と「究」と「急」とでは意味合いがまったく異なる。

 もちろんママがお嬢さんからプレゼントされたフレンチプレスでどれだけ美味しいコーヒーを入れられるかは——この新婚夫婦(笑)を認めてくれたところの——お嬢さんたちのためにもトライ&エラーで究《きわ》めていかねばならない。
 だがしかし、それを急《いそ》ぐことはない。

 われら夫婦が求《もと》めるもの。そしていつか「キューことQ《クエスチョン》」の答えにたどり着ければいいなと、あらためて考えた次第だ。

 上手く伝わるか知らんが、やっぱりどうも2010年代のTwitter云々とかSNSは、やっぱり「きゅう」を急ぎすぎる。

 このご時世、かのバイラスも含め、今一度個々人の、

「本当に求めるものは何か」

 をあらためて考える時に、人類史上、突きつけられているかもしれんかと思いつつ駄文を綴った。


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