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宗教と社会(1) 人間理解と社会形成

はじめに

 今回は宗教的な立場から見た社会論を語ることにしました。いささか極論的な部分もあり、おそらく一般受けはしないと思います。そんなこと、いきなり実践できるわけがないと。そう、その通り。いきなり実践はできないでしょう。時間をかけて作り直していくことを本書は主張しています。
 私としては、まずは社会活動をリタイアした人、もうすぐリタイアしそうな人に読んでいただきたい。あるいは十分に社会的に活動で満足され、次に行くべき方向が見えないでいる方々。そして宗教に関わる人、あるいはその他、目には見えない世界に携わっている人たちに読んでいただきたいと思っています。さらには芸術家や教育者、様々な研究者や学者の方々にも読んでいただければ幸いです。
 

概略

 人間への正しい理解だけが、結果的に社会を健全なものにする。現在、最も人間理解において欠けているのが、霊魂の存在の認識である。老人たちが死の準備を行い、生々しく霊魂を感じられる機会が増えるほどに、社会に足りなかったものが補われる。老人たちは唯物論から逃れ、金品や社会的ステイタスを手放すことができるようになり、子孫たちにその身を以て、霊魂の存在を示すだろう。結果として社会は信頼を前提として動いていくようになり、経済社会も健全に運行されるようになるだろう。
 宗教や宗教的活動をしている人たちは、霊魂や神仏、神秘などをもっと生々しく体験し、それを伝えていってほしい。そのことが老人たちをはじめ、人々に真実の人間観に近づく力を与え、信頼に基づいた社会を形成するための援助的な力を発揮することになる。宗教は社会のために存在するのではないが、宗教的実践的探究が、結果として、間接的に社会を健全にしていく力を与えるだろう。
 ここで宗教的実践的探究とは、単なる集団化、形式や伝統の維持のことを言っているのではない。ましてや詐欺的なお金儲けのことではない。人間や世界の本来の姿を認識し、全体性を取り戻す取り組み、あるいは全体性を取り戻した後の創造的活動のことである。
 

①   人間への理解が社会に反映される

 現代では、人間をどのように捉えるかによって、社会のあり方が変わってくるということについて、ほとんど省みられていないように思える。そして既存の社会にいかに関わり、死ぬまでの人生をいかに平穏にすごすのかということだけが重要視されているように見える。日本では失われた20年とか30年とか言われて、次第に経済が衰退していっている(それは政策の失敗によるところが大きいと思う)が、その建て直しの際に語られることも、当然、経済的な視点でのみ社会と人生を捉えるという前提に立っているように見受けられる。
 もちろん、経済について語るときには、経済的な側面で社会と人生を見るのが当たり前なのだが、京都大学の教授が語っていたように、経済とは言うものの、最終的には心理学的な問題に行き着くのであるというのは正しい見方だと思う。つまり、経済の停滞とは、人間の活動意欲とか、消費や生産への意欲の欠落からもたらされるのであって、これから世の中が衰退していくという予測があるときには、身を守るためにお金を蓄え、消費を抑えることになる。逆にこれから世の中が発展していくという予測があるときには、それらの意欲が高まっていくのである。つまり投資したり、さらに生産したりしても、そこには必ず見返りがあるだろうという予測が、経済活動を促すことになるのだし、その逆の場合は、経済が停滞してくのである。よって、「もう日本はだめだ!」と叫ばれるほどに、本当に日本はだめになっていくということになるのである。
 経済といえども心理学的な問題であるというのは、重要な視点であって、無視するとおかしなことになる。「自己実現的予言」という言葉があるが、この言葉がさすような力学が、社会のあり方を左右していくことになる。「駄目だ駄目だ」と言うほどに、社会は駄目になり、「やっぱり思ったとおりだった」と、予言のとおりのことを国民が実践するのを見ることになるのである。たとえば「あの銀行はつぶれそうだ」という噂が立つことによって、預金者がどんどん減っていき、もともとは問題が無かったとしても、本当につぶれてしまうという結果が現れるというようなことだ。
 これは、経済学的なことだけではなく、他にもいろいろなシーンで観測できることである。たとえば、「どんどん治安が悪くなってきた」という風評が、「自分の身は自分で守らねばならない。人を信頼することはできない」という心理を人々に与えることになる。そしてその前提にたって法律が作られる。「人は信頼できないもの」という前提に立った法律だ。人々は、その法律に従って動き、生活するようになる。結果として、本当に「人は信頼できない」というスタンスが、人間にとって当たり前のことになってしまう。たとえば、これまで習慣とか、暗黙の信頼関係で行われていた活動などが、どんどん行われなくなっていく。そしてお金をもらわなくては(そこに経済的な公正なやり取りが無ければ)、行動することができなくなっていく。信頼できるのは人ではなく、お金になってしまうからである。
 日本におけるコミュニティーの崩壊は、この問題を顕著に表しているように見える。コミュニティーのあり方は、大まかに江戸以前、明治以降、敗戦
以降というふうに分けて考えたほうがより正確になると思うし、もっと過去に遡ってその変遷を述べたほうがよいと思うのだが、ここではそれをしている時間がない。ここでは明治以降の西洋文化の流入に注目する。簡単に説明すると、家族とかコミュニティーといった、明文化された制度やルールなしに維持してきた集団性の価値観が貶められ、どのようなものでも、制度的・明文化されたルールのもので集団が運営されるべきだという社会になっているのが現在である。それは言い換えれば、これまで感情面で行ってきたことを、実利面で肩代わりするようになったということだ。
 それは12サインを参考にしてみれば、蟹座を壊し、その分、山羊座で代用しようという状態になっているということである。現代では、家族ですらもお金とか社会的役割という側面で図られるようになっている。ずっと前までは、山羊座的性質、つまり家を守り、生活を守るために働くという行動は男性が担い、家族関係そのもの、感情的つながりを大切にするという状態は女性が担うという歴史が続いてきた。これら2つはどちらが上ということは無いのだが、現代ではこの後者が相当ディスカウントされており、「一緒に生きていて嬉しい」という感覚は、価値が無いかのように扱われているようにも見える。大切なのは、男も女も、社会の中で労働戦士として戦うことであり、そこで活躍することこそが、人生の輝きなのであると。そしてその価値観は、子どもたちにまで反映されることになり、いかにして優れた労働戦士に作り上げるかということだけが、目標になる。幼稚園やら小学生時代から、学校や塾で勝ち上がるための訓練にいそしむことになり、今ここで生きている喜びを共有することがないがしろにされるのだ。
 この歪な状態が、さまざまな問題を個人に引き起こし、あまりにそれらが多くなってくるので、「社会問題」とされる。皮肉なことに、「社会」を重視しすぎた結果がこうなのであって、社会(山羊座的なアソシエーション・ルールやお金に基づく集団)から降りる時間をもっと見直せばよいだけなのだが、あまりにも当たり前になりすぎて、そこに心魂から気づくということが難しくなっているのである。
 皮肉にも、これらの問題が良くないことだけがというと、そうでもないところがある。たとえば、個人主義が進むことによって、かつて暗黙の了解や家がもたらす縛りのようなものから開放される力学が働いたとか、女性でも社会に参加できるチャンスがふんだんにあがったとか、社会の中に多様性をもたらすという成果はあったように見受けられる。しかしこれも、行き着くところまで行き着いて「もっと個性的に!」みたいなことが叫ばれすぎた結果、個性的な能力がない場合には、社会には居場所が無いかのような錯覚とか迷い、悩みを持つようになってもいるようだ。
 
 人間をどのように見たてるのかという視点にしたがって、社会の作り方が決まってくる。人間を唯物論的に肉の塊だと見立てるならば、唯物論に従った社会が形成され、人々はよりいっそう、唯物論的になっていくだろう。逆に、人間には霊魂があると見立てるならば、精神性や心理というものをも考慮した社会が形成され、人々は、唯物論的な生き方から開放されていくだろう。
 面白い現象として、1つのテーマを出してみよう。緊縮財政vs MMT(現在貨幣理論)に基づいた政策だ。私個人としては、デフレが20年も30年も続いてきた日本なのであるから、MMTを用いるまでも無く、国債発行してお金の流れを作るのが正解だと思っているが、緊縮財政派の人々は、財政破綻とかスーパーインフレとか言って、国債発行を抑止しようとしている。自国通貨で変動為替の場合、財政破綻することは理論上ありえないのだが、それでも「外国からの信頼を失って暴落する」みたいなことを言ったりする。諸外国はどんどん国債発行してきた経緯があるので、彼らの言っていることはよくわからない。
 それはさておき、緊縮財政派の人々が言うのは、「国債発行して、お金を増やした場合、国民は怠け者になる。簡単にお金が手に入るようになるので、働かなくなる。娯楽にふけり、お金がどんどん外国に流れていく。そして一度、増やしてしまったら、次にインフレになってお金の量を減らして調節しようとしても、制御できない。国民はわがままなので、一度、簡単に受け取ってしまったら、永遠に楽をしようとするのだ」ということだと思われる。
私がここに見て取るのは、緊縮財政派の人々は、基本的に性悪説であり、「われわれが完璧なルールを作り、そのルールに従わせることでしか経済はうまく立ち回らない」という心理である。そこには「人は信頼できない」という心理があるように見受けられる。
 私が危惧するのは、「人は信頼できない」という前提に立ってルールを決めれば、自己実現的予言にしたがって、人々は、本当に信頼しあえないような状態になっていくだろうということだ。このような不信は、ますます自分の身を守ることにのみ執心し、お金を溜め込み、これまで信頼に基づいて行ってきた行動も減らしていくことになる。どんどん規制は厳しくなり、ますます窮屈な社会になり、人々のストレスレベルがいっそう高まり、犯罪が増える。そして「やっぱり人は信頼できない」という証拠をそこに見つけ、負のスパイラルに陥っていくのではないだろうか。やがて「信頼できない」ということで頭がいっぱいになってしまい突き抜けてしまった人の場合には。「ばれなければ何をやってもよい。搾取したものが勝ち」というような、極端な行動をとるような者たちも現れ、やがて彼らはそれを勝利と言い、「勝ち方」を教えるようにまでなるだろう。
「人間は信頼できるか、それとも信頼できないのか」という前提は、社会を作り、維持していく上で、重要な基準になると思われる。もちろん、そのどちらかに振り切るという発想はよくないだろう。今は「信頼できない」というベクトルに、かなり傾いているように思える。どんどん日本が不穏になってきている。「日本はオワコン」などと嘯くものもいる。早く日本を脱出しなければ、と。(私から見ると、彼らこそがオワコン化させている)
「人間は信頼できる」ということに振り切るのも、今のところ、うまくいかないだろう。「信頼できる」という前提を利用して、自分だけが利益を得ようという人々が一定数いるだろうから。
 現実的には、「信頼できる」という見方をもっと増やして、人間へのまなざしを、もっとバランスよく見た上で、制度というものを考えるというのがよいと思う。もっとも簡単なのは、消費税を減らし、とりあえず国債発行して、お金の流れをよくすることだ。一定数、緊縮財政派の人々が危惧するような、怠けとか娯楽に走るという人々は存在するに違いない。私としては「それがどうした?」という感想だが。大半の人間は、安心し、活力を得て、生産活動・消費活動ともに楽しみを見出すだろう。
 他には、コミュニティーの価値を見直し、コミュニティーに任せるという視点を持つことだ。まずは「働かなくてはならない時間」を全体的に減らすことだ。(そのためには、一部の人への富の過剰な集中を禁止するのが合理的だと思う。分かりやすく極端に言えば、ひと月で手に入れられる「個人的な収入」は1億円を上限にするとか)さらには夫婦ともに働きたければ別だが、一人は外で働き、一人は家にいて、安心のスペースを確保しているということが普通になっていくようにしていくこと。一度、「共働きしなくてはならない状態は異常である」という家族観にしたがって、社会を見直してみてはどうだろう?家が安心できない場になっていることから、子どもたちの心が荒み、不登校とか引きこもりとか、精神疾患とかが発生し(世界の中で、日本の子どもは不幸を感じているパーセンテージが高いという統計結果がある)、かえって非効率な状態を作り出しているのではないか?そして家族同士の感情の交流は消えていき家族を守るとか、一緒に生きていくという価値観が無くなり、いったい何のために生きているのかとか、自分はどこに所属しているのかということが分からなくなってしまう。国が示すような「労働戦士」としてしか自分の価値観を図ることができず、家族に対しても同じまなざしなので、いったい一緒にいて何の価値があるのかと訝るようになってしまう。
 さらには教育制度で、今では文部科学省からのトップダウンのみだが、地域に半分ほど、教育内容を任せるというのはどうだろうか。その地元でなくては教えられないこともあるだろうし、地場産業を再生する可能性も生まれるだろう。あるいは、今、そこで生きている人々そのものを、教育資源にすることもできる。教育と生活と人々が、乖離しないものになる。人間を信頼できないタイプの人々は「それでは教育格差が開く。不公平だ」などと言うかもしれない。その視点もわからないわけではない。だから私としては、全員共通の部分を国が管理し、半分を草の根的な地元からの学びにするというブレンド型がよいのではないかと思う。
 社会全体を見渡せば、作らなくてもよい問題を作り、それを消すために火の車になり、ますます問題を増やしているように見えてしまう。以上の例に従って、「人間は信頼できる」という視点に立ったとき、社会をどのように作ればよいのかということを、それぞれが一度、考えてみるのがよいのではないかと思う。
 そもそも、社会を作るときの人間観が間違っていれば、必ず問題が発生する。人間というものを正しく認識し、よりトータルに捕らえていればいるほど、その制度は人間にあったものになるわけなのだから、「人間をどこまで理解しているか」ということが、社会を形成する上で、もっとも重要なことになるのである。だからこそ、社会の動きや経済について、お金の流れだけで理解するのではなく、哲学的、心理学的、歴史学的、人文学的、地政学的、生物学的そのほかいろいろな側面から人間を判断し、人間をできるだけトータルな視点に立った上で、組み立てていくべきなのである。それは立法や行政に携わる人々だけではなく国民の側にこそ、必要なことである。
 

②   宗教から見た人間観

前章の最後で述べた「社会を形成するための人間理解」について、宗教という立場からも模索することが可能であるし、そこの視点こそが最も現在は不足しており、個人の人生にも社会にも大きな影を落としているのではないかと私には思われる。
 つまり人間を唯物論的に見立てることで説明し、社会を唯物論的な判断に立って構築するということが、最も大きな歪みの発生源になっていりのではないかと私には思える。だからそこに、目に見えないものが存在するということ、分かりやすく言えば氣のエネルギーのようなものはあるのだし、もっと根本的に言えば魂や霊などが存在するということを、人間理解と社会の構築のために考慮に入れていくということが、もっとも事態をよくすることに貢献することになるのではないかと思う。
 唯物論的な人がよく言うのは、カント的な言葉で、「それは証明することができない」ということだ。カントは「証明することはできない」と言っただけで、「それは無い」とは言っていないのだが、カントと違い「証明されていない=存在しない」という極端な論理に陥っている人はたくさんいると思う。私はこう聞きたい。「もし、あったとしたらどうするのですか?」と。あなたは、ひょっとしたら未熟すぎる判断をしているかもしれないのですよ?(自動車学校で「見えないことは存在しないことではない」と教えられていることを思い出す)京都大学の心理療法家だった河合隼雄はそれをもっと上手に言葉にしていた。「あるとかないかとかではない。あると考えると、いろいろなことがうまく説明がつく」と。最初のころは、このような発想から始めると良いのではないかと思う。無理やりに霊魂や神仏などについて学んだり教えたりしようとすると、危険なカルト集団のようなことになりがちでもあるから。
 唯物論の特徴は、再現性を重視する、偶然に価値を見出さない、見た目だけを重視する、個別的な事情を考慮に入れないなど、様々なものがあるが、大まかに言うと、人間が人間である所以の肉体的特徴の1つである新脳に、重きを置きすぎているということになるだろうと思われる。唯物論を推し進めれば推し進めるほど、社会に生きる人たちは、新脳に依存するかのように生きるようになるだろう。そして細かなことばかり気になり、全体的な局面がどんどん見られなくなっていくだろう。(シュタイナー的に言うと、これがアーリマンということだと思う)テレビやネットなどで見られる議論も、結局は揚げ足取りとか、極論ばかりになっていき、全体的に判断するということができなくなってきているように見受けられる。一部、総合的な立場から話す人はいるが、極論のほうが分かりやすく、インパクトがあるので、まるで総合的な立場の人のほうが間違っているかのように見えてしまう場合も多い。総合的な判断を下そうとすればするほど、極論は避けなくてはならないことをよく踏まえることになるので、たいへん不利な立場に立たされるのだ。
 宗教家全員が体験しているとは言えないが、一部の宗教家は、生々しく神秘を体験していると思う。神秘体験とまではいかなくても、不思議なこと、奇跡的なことを体験したり、神仏や不可視の存在を感じたりすることは少なからずあるはずである。宗教家がするべき仕事というのは、本来、このような体験を深め、増やし、人々に伝えていくということのはずである。
 危惧すべきなのは、宗教家もまた唯物論的になってしまったり、新脳に頼りすぎたりするようになってしまうことである。神秘と言うのは再現性がないゆえに神秘なのであるが、新脳主義に陥ってしまうと、他の地上的な仕事と同じようなスタンスでお勤めしてしまうことになる。例えば、聖典を事細かく分析し、理屈を作り上げ、論理的に学び、その論理でもって人々に布教するとか、文献の研究に夢中になるとか、過去からの伝統文化や文化財を守ることだけに執心し、その本質は忘れ去られているとか、行事や作法の精密さだけを鍛え上げ、そこに魂は宿っていないとか、そのようなスタンスのことである。それらは不必要というわけではないし、してはいけないわけでもないが、宗教の核心部ではない。
 少数派の宗教家あるいは宗教家でなくても、神秘を生々しく体験している人々は、氣のエネルギーのような比較的分かりやすいものだけではなく、不可視の存在、神仏や霊魂、さらには異世界や異次元の存在を確信しているだろうし、信じるというよりも「知っている」という状態になっていると思う。このようなタイプの人々は、現在、最も社会や人間観に欠落しているものを提供することができる可能性を持っていると言える。
 

③   新脳主義は人生と社会からスキマを無くす

 新脳重視の在り方は、合理性を追求しつつ、部分をクローズアップして精密に調べ上げるというのが特徴であるから、それを推し進めれば推し進めるほどに、全体性とか、ゆとりとか、スキマといったものを人生や社会から除去してしまう。無駄を嫌うという特徴がある。そしてどんどんいろいろなことが高速化し、窮屈になっていく。しかし新脳から見て無駄であっても、全脳的には無駄ではない可能性がある。これは占星術的には乙女座vs魚座の対比ということになる。
 この合理化効率化については、いくらでも例を挙げられるし、あまりにも当たり前になっているので、普通に暮らしていると、もはやその事実を改めて認識することができなくなってしまうほどである。例えば時間通りに運航する交通機関はどうだろう。電車などは、1分も誤差なく到着し、出発する。かつて郵便で届けていたものは、今は電子メールで一瞬でやり取りできる。注文したものは翌日に届けられ、1日遅れただけでもクレームの対象になったりする。確かに便利で、もはや手放せないシステムなのではあるが、その利益をもらうと同時に、そのスピードや効率化に合わせた人間生活・社会の動きが形成されていくことになる。「私は注文したものを翌日受け取ることはできるが、誤差のない交通機関に合わせて移動しなくてはならないし、依頼された仕事も高速に仕上げなくてはならない」というような状態になっていく。
 社会が効率化・高速化すればするほどに、その利益と引き換えに、その社会の在り方に合わせた労働をしなくてはならなくなる。ここでさらに問題として発生してくるのは、貧富の差が拡大すればするほどに、貧しい者はそのシステムに合わせることに時間を奪われていき、益々、スキマやゆとりのない生活に陥ってしまうことだ。豊かな者は、このシステムの良い部分を享受しつつ、そこから離れられる時間を十分に確保できるので、そのシステムの負の側面を認めることがなかなか難しくなるだろう。(AIの進化によって、労働が無くなっていくという可能性もある。しかし人間がさらにロボットのように扱われることが加速していくのならば、AI以上の働きを期待できる部分はたくさんあるわけなので、貧富の差の拡大を防止する手立てをしておかなければ、益々悲惨な社会が形成されてしまうのではないかと私は危惧する。すべての人に公平にAIの効能を享受できる社会システムになるならば、誠にすばらしいのだが)
 スキマやゆとりのない人生が展開していくと、もはや人生のかじ取りをしているのが、自分なのかどうかがどんどん怪しくなってくる。このシステムの中にどうやって参加し、食い扶持を確保するのかということが、ずっと重要なテーマであり続けるからである。そしてどんどん合理化・効率化・高速化するということが加速して行き、スキマやゆとりを悪だと見なすようにさえなる。実はスキマやゆとりこそが、自分や人生、社会のことを見直す時間になったり、人生を味わい深いものにしてくれたりするのだし、緊急事態においては、そこに助けになるものをたくさん見つけることができるのだが。例えば社会という側面から1つ考えてみると、病院とか保健所や消防署、もっと大きな話をすると軍備などもそうだ。世の中に病気やケガ、疫病や災害、事故などがないのが良いのだが、だからと言って、それらが発生しないとは絶対に言えない。戦争もそうで、戦争は絶対に嫌だが、だからと言って、どの国も絶対に攻め込んでこないとは言えない。緊急事態のために、普段は使っていなかったとしても、ゆとりとして、いろいろな設備や制度を設けておくということが、豊かな生活を送るためには必要なのである。老子ですらも、軍備はあるが使わない状態であることが良いのだと語っていたはずだ。
そこまで大きな話をしなくても、ゆとりのある生活が、自分にとって重要な1冊の本に出合うチャンスをもたらすかもしれない。日々の労働に追われ、移動している時もクタクタで、娯楽のyoutube動画を視聴していては、自分をより大きな喜びに誘ってくれる何かとの出会いを見落としてしまうかもしれない。見落とすどころか、その感覚すらも失ってしまうかもしれない。
 少し思い出してみると、かつて失敗だったといわれた「ゆとり教育」だが、社会のほうに「ゆとり」ができていない状態なので、結局はその「ゆとりを使って、合理化・高速化の社会へのコミット方法を探すことが正義」という見方になってしまったのだと思われる。社会そのものにゆとりをもたらすほどに、ゆとり教育を推進すれば、真の意味での成功になったかもしれないが、おそらくそのようなことは、ほとんど不可能だったに違いない。新脳主義の社会は、もうガチガチにできあがってしまっているからである。
 

④   宗教が社会にもたらせるもの

 宗教が、もっと本来的な意味での人間観を社会に提供できていたならば、間接的にゆとり教育への援助的な役割を果しただろうと私は思う。「間接的に」であり、「直接的に」ではない。直接的に影響を与えられるほどに、社会は成熟してはいない。宗教的なことを教育現場で教えることは、ほとんど禁忌であるし、確かに現状では、いろいろとややこしい問題を発生させてしまうことが想像に難くないからである。学校で「魂はあるのですよ」と語ったとしたら、教えたとしたら、どうなってしまうのだろう?私としては当たり前のことを教えているはずが、何かとんでもないことを吹き込んだかのように思われそうである。まあ、そもそも言葉だけでそれを伝えることには、それほど大きな意味はないのではあるが。
占星術のサインで説明すると、社会が山羊座、宗教が魚座という整理になる。もちろん蠍座(宗教団体)とか射手座(神学)にも宗教性という意味はあるが、宗教の本質的には、目には見えない世界を取り扱うのであるから、魚座が最も重要だと私には思えるし、本書もその文脈にある。
山羊座と魚座は60度(セクスタイル)の関係であり、工夫とか応援とか、そんな関係だ。直接的にではなく、間接的に応援するという関係である。もちろん邪魔はしないし、反対意見も言わない。だから現状社会に対する世直しとか改革というものは、魚座は行わないし、宗教がそこに直接手を下すのは、何かが違っているということになる。世直し的発想の宗教は、カルト的に見えることが多い。
世直しは水瓶座の範疇にあり、自由とか平等とか博愛、人類愛といったものがベースになる。アンチ山羊座であり、どこか反逆的に見える。風のエレメントが示しているように、知的であり、理想国家のようなものを目指したりもする。宗教家が世直しとか新しい社会制度とかNPOとか立ち上げるのは、悪いわけではないが、本質からははみ出した取り組みだと言えるし、うっかりすると本分を見失うこともあるかもしれない。
 霊魂や神仏をはじめとした目に見えない存在や社会が存在するということを、宗教が示し続けることによって、社会が安定し、人間の全体性に見合った健全なものになるということを私は伝えたい。「間接的に応援」というのが重要である。宗教は、社会のために存在するのではないからだ。人間が本当のことを思い出し、全体性のある存在になるように、部分に陥ることなく、偏った状態にならないようにするための取り組みが宗教の本質である。偏った人間理解、真実ではない見方が、人を迷わせ、不幸にし、結果として社会を不穏なものにしてしまうのであり、全体性を取り戻し、幸福な状態に至るための宗教的な活動が必要なのである。もちろん、特定の宗教・宗派でなくてもかまわない。独自の神秘的探究でも構わない。要は、自分たちは何か欠落しており、部分になってしまっており、それゆえ本当のことや全体性を思い出すための取り組みが進めば進むほど、満足感は増えていくのであるし、結果として社会もその分、住み心地の良いものへとベクトルを進めるということになるということである。

(2)に続く

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