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宗教と社会(3) 死期と四季

⑨ 鎮守の杜と祭祀

 神職である私の立場から見えることを、少しテーマを絞って語りたい。まずは鎮守の杜の必要性である。そもそも樹というのは、「氣」と発音が同じでもあり、エネルギーを循環させる役割をしているようだ。大地に根を張り、天に向かって伸びる姿は、まるで天と地をつないでいるかのように見える。神を祀る神聖な場所として、杜は必要不可欠ではないかと思える。
 街や里を離れれば、山々はまだたくさんあり、わざわざ街や里の中に杜を作らなくても良いのではないかという見方もできる。しかし杜というのは、過ごしていて清らかな気持ちになり、何かから解放されたような清々しさを感じられる。これはなぜなのだろうか?
 科学技術が発展し、都市化が進み、人工的なもので覆いつくされている生活と居住空間が広がるようになった。このような環境に過ごしていると、もちろん効率化・合理化の流れの中に埋もれることになるので、新脳ばかりがフル活動する時間が継続することになってしまう。朝起きる時間も、眠る時間も、労働のために事細かく規定されるようになっていき、しかも睡眠時間を削られるようにさえなってしまう。スピード化した社会の動きにクタクタになり、その反動として、娯楽や快楽を自分に注入することでバランスをとるようになる。苦痛と快楽を行ったり来たりするような状態であり、自分の真ん中の感覚、自然な状態を忘れてしまうことが多くなってしまう。人によっては、そんなものはないと言いそうでもある。
 思い返してみるに、土地にしても水や空気にしても、そもそもは自然のものであり、人間はそこで生活するために人工的なものを詰め込んでいるというのが実態である。ずっとそこに過ごしていると、その人工物にまみれた環境が自然なのだと錯覚してしまうようにもなる。科学技術に依存していることさえも忘れてしまい、例えば電池が切れてしまって使えなくなった道具に対してイラついたりしてしまう。使えて当たり前なのだ。
 山や海に行くと、その縛りを一時的に忘れられる可能性が高まる。しかし現代、山や海に行ったとしても、人工的なものがあふれている場合も多いし、人の手の入っていない場所はないかのように思える。
 柳田國男の「山の人生」という本を読むと、かつて平地で暮らす人たちと、山で暮らす人たちがいて、里で生きる人たちが何らかの理由でその場所にいられなくなった時、山の生活に向かうことができたということが書かれていた。里のルールに縛られない生き方をしていた人たちがいたのだ。今では山の人たちはもうおらず、国内の人々は、みな同じルールで生きており、そこから逃れることはできない。想像することすらできない。
 つまり秩序化された社会で、がんじがらめになっており、その分、新脳主義的な生活になり、脳全体を使うかのような生活がしにくくなっているのである。人間主義的価値観を重視したあまり、我々の中にある動物的側面とか虫のような側面が置き去りにされているように見える。生き物として、何かバランスが欠いているように見えるのである。
神社の鎮守の杜は、特効薬のような効き目はないにしても、秩序化された空間の中に自然があり、一時的に人間の全体性を思い出させてくれる役割を果たすのではないかと思える。ここに来ると、木々があり、小鳥がさえずり、清々しい風が流れている。四季それぞれの彩とその変化を、肌身で感じることができる。境内でこのようなものに触れる時、新脳活動は抑え気味になり、動物とか虫としての側面が回復し始めるように思える。
 アーシュラマ的発想で、人間が生まれ、育ち、社会で活躍し、社会そして地上を去っていくという流れを提示したが、スキマやゆとりが必要なのは、死に向かう老人だけということではない。効率化・合理化された社会で新脳をフル活動して働いている若者たちにとっても、時々、全体性を思い出すこと、社会から外れた時間を体験すること、(もっと可能ならば地上から離れた視点を持つこと)が必要だと思う。それは真の意味での休息になる。そしてこの休息が、また秩序立てられた社会の中で、生産消費する活動をするための力を与えてくれると思う。
 新脳主義に偏ってしまった思考からは、神社も杜も、全く必要ないという判断を下すだろう。樹から落ちる葉っぱが邪魔だとか、小鳥の糞が嫌だとか、効率化合理化された環境にとっては排斥するべきものだと訴えることになるだろう。
 しかしそのような合理化効率化のみを推し進めた果てにあるのは、人間への偏った理解からくる荒んだ人生と、ますます過ごしにくい社会だと私は思う。人間にも町にも里にも社会にも、スキマとゆとりを設けることが必要だと思う。スキマやゆとりの空間や時間が増えるほどに、社会の歯車ではいたくない、人生を創造的に生きたいという霊魂の囁きを聞き取れるようになっていくと思う。
 もう1つは御祈祷とか祭祀についてである。御祈祷や祭祀を執り行っているとき、空気感が変わり、何か不可視の存在に包まれている感覚がする。私の場合は、触覚で不可視の存在を捉えるタイプなので、包まれるような感じがするのであるが、神主によっては、見えたり聞こえたりすることもあるだろうし、参拝者の中にも、そのようなタイプの人はいる。体が踊りだしてしまう人もいた。
 御祈祷や祭祀を執り行うというのは、自分よりも、人間、人類よりも上位にある存在たちがいることを認めることであり、その存在からアイデアや偶然のチャンスなどを、不可思議な方法でもらうということである。そこには謙虚さがあり、新脳を暴走させた人間を自然な状態に戻す効果も期待できる。そしてそれらの神的存在は地上にはおらず、その存在たちと接触するということは、地上に穴をあけて異次元につながるとか、異世界を垣間見るということにもつながる。そのことを通して、人間とは単なる肉の塊なのではなく、霊や魂のほうが本体であるという真実に近づくことができる。
 鎮守の杜が、秩序化された社会からの離脱とそこで得られるリラックス感だとするならば、御祈祷や祭祀は、異世界との接点を思い出す時空間と言える。社会からの離脱ではなく、地上からの離脱に例えられる。杜が社会のスキマであり、御祈祷や祭祀は、「杜=自然」の中にあるさらなるスキマに触れる時間ということである。アーシュラマ的に考えるならば、杜で過ごす時間は林住期に対応するミニチュア時間であり、御祈祷や祭祀は遊行期に対応するミニチュア時間である。老後の人たちが、その身で社会を離脱、地上を離脱するような時間を過ごすことを、若者たちはその擬似体験を神社で経験することができると見立てるのである。

⑩ AI社会に期待すること

 余談にはなるがAIの進化について。こAIの進化と社会の効率化・合理化が加速していくかもしれない。それが悪いのではなく、それをどう使うのかが問題であって、人を開放する方向に動いてほしいと私は思う。繰り返しになるが、たとえ効率化・合理化が進んだとしても、もし富が一極に集中するならば、益々社会は不穏になるだろう。そうなった場合には、貧しい者は、効率化合理化した社会に、なお一層適応させなくてはならなくなり、益々ゆとりを失ってしまうのではないだろうか。
 人口の減少とAIの進化は、結び付けて考えると良いと思う。世界的に人口が増えすぎている問題と、少子化の問題があり、日本は少子化が急速に進んでいる。日本としてはどんどん人口が減ってきている。これが経済的にマイナスだからという理由で、人口を増やしたほうが良いという意見があるが、私はそれには反対の立場だ。合理化・効率化が進めば進むほどに、1人あたりがやるべき労働の時間が減少するということになるのだから、人口の減少を上回る効率化と合理化が行われれば、何の問題もない。それどころか、人口が増えすぎたことによる問題、資源とかゴミとか公害などの問題が、一挙に解決していくことになる。
 効率化合理化が進み、なおかつ人々がゆとりのある時間を過ごせるようになったとき、人は何を始めるのだろう?それは、もっと楽しいこと、趣味とか、アート活動、表現活動、創造活動などに取り組むことになり、色とりどりの文化が醸成されるようになるのではないだろうか。食べるために働く時間が減ることで、体とか物質を超えたものに関心が向かう可能性がある。逆に、満たされてしまって、何もしなくなるというケースも一部あるのかもしれない。
 いずれにしても、人間がいかなる存在なのかという見立ての内容に従って、人生も社会も形作られていくことになるわけなので、このような効率化合理化が進んだ社会においても、宗教の役割というものは存続するに違いない。どんなに物質的に満たされていても、人間観に偏りがあれば、社会は荒まざるを得ない。前提と目標がズレズレになり、袋小路に入ってしまうし、見落としていた部分、影になっていた部分が、必ず反逆してくるからである。宗教者がその本分を遂行することによって得られる、間接的な社会的貢献には変わることはないと私は思う。

⑪ 宗教者への提案

 私は、宗教家の方々への語りかけとして、霊魂や神仏を認識・知覚したり、一体化する体験をしたりするための取り組みをしようということを掲げたい。それはオカルトだという人がいる。しかし私に言わせれば、オカルト(神秘学的探究)のない宗教は、ただの形式の集まりにすぎない。本来、体験のないものはそれを語る資格はないし、何も伝えることはできはしない。豪華に装飾したプレゼントの箱の中身が空っぽでは意味がない。むしろ中身があるならば、箱は最低限でもよいのだから。
 カルトにも良いカルトと悪いカルトがある。だまし、搾取するのは偽物であり、不安をあおるのも偽物だ。なぜから神秘を知っている者は、不滅の霊魂と共にあり、物質にしがみつかず、必要な分だけ受け取り、不安とは無縁の状態に生きているからである。それらの度合いには、もちろん個体差というのもがあるだろうが、少なくとも、その方向に意識がある限りは、騙しや搾取を行うこととが真実から遠ざかってしまうということにおいては、共通の理解を示すはずである。

⑫ 真実のない宗教もあることを知っておく

「宗教のススメ」みたいな内容になり、宗教アレルギーの人たちから見れば、嫌悪感を覚えたかもしれないし、逆に宗教に興味を向けられた方もいるかもしれない。その想定の上で、私は当たり前のことをさらに言っておかなくてはならないと思った。つまり宗教にも、良いものと悪いものがあるということだ。
 ぱっと思いつくだけ言ってみると、悪い宗教(本質的ではないもの、それは詐欺的なものになりがち)とは、自分だけが正しいと言っている宗教、脱退を許さない宗教、脅しや戦いをメインにしている教えの宗教、過剰な支払いを要求する宗教である。
 各宗教・宗派は、それぞれが誕生した地政学的背景・歴史的背景の中で生まれてきたそれぞれの「道」であり、それぞれの立ち位置によって違ってくるコースの違うにすぎないことを、本当の宗教者は理解している。分かりやすく例を1つ挙げるならば、別の宗教で別の名前で語られている神的存在でも、呼び方が違うだけで、同じ存在であるいうともあるということだ。(それに私の取り組みの視点から見れば、ルーツが違えばやり方が変わって当然である。)
 過剰な布教活動や脱会を許さない態度は、自分の信仰への自信のなさの表れである。例え自分が信じている、あるいは真実を見出している宗教を拒否されたとしても、実害は何もないはずだから。拒否した人には、その人に相応しい道があるのであって、それを信じることができないならば、それは自分の信仰の中にある道を見出していないからに他ならない。そして「道」とは、既存の宗教の中にあるとも限らない。それぞれが真実への道を見出すならば、どんな形でも構わないのだ。脅す必要も戦う必要もない。
 過剰な支払いを求める宗教はその誤りが露骨すぎる。それは自ら自分たちが唯物論的であるということを証明しているようなものだ。中身が空っぽなのだ。良からぬカルトでよく見かけるのは、下々の者たちが過剰に支払い、上層部の者たちが物質的に満たされた状態にこだわっている姿である。本当は、貧しさも過剰すぎる富も必要ない。お釈迦様が言った通り、中道が肝心なのだ。
 それにアーシュラマ的に考えるならば、必要な富も人生の季節の中で変遷していくものである。若いうちや働き盛りの時には、たくさんの生産と消費で地上での人生を謳歌するのが自然な姿であり、死が近づくにつれて、それらから徐々に距離を取っていくというのが美しい姿なのだと私は思う。
 社会が唯物論的になればなるほど、逆に、狂ったカルト宗教に洗脳されてしまう人が増えていくだろう。真実に飢える人たちが増え続けることになり、その一定数が、過激な思想に騙されてしまうということになるからである。狂ったカルトを減らしていく方法は、真摯に、本質的な宗教活動を行う宗教者が増えて、その影響力が影で社会を支えるようになっていくことだと私は思う。そして社会にもっとスキマとゆとりをもたらし、人々がそれぞれの「道」に取り組んだり、アートや創作活動にもっと時間を使えたりできるようになっていくことも、その効果を発揮してくれると思う。

⑬ 死期と四季

 最後に総括的なことを少し。
 社会のスキマに自然を垣間見ることができ、その自然のスキマに異世界を垣間見ることができると思う。逆の言い方を言えば、肉眼では見えない世界がまずあり、その上に自然があり、その上に人間の社会が作られたような捉えた方である。
 霊魂は不可視の世界からやってきて、不可視の世界に帰っていくわけだが、これが誕生と死という地上的現象として表れている。この世界にやってきた霊魂は、急速に以前の記憶を失い、あたかも地上だけが、そして社会だけが世界のすべてであるかのように錯覚するようになっていく。(しかしこれも、実は時代によってかなり忘却の仕方に多様性があったのだと思うし、これからも変わっていくだろう)
 現代は、唯物論的価値観がピークを過ぎて、徐々に目に見えないものが、通常の価値観の中に再生しつつあるのではないかと思える。というのは、深層心理学の探究の仕方や、量子力学の研究といったことをはじめとして、アカデミックな場面でさえも、精神性や人間の意志というものの実在性をほのめかすようになってきているからである。世界と我々は別個に存在しているのではなく、観測者である我々も世界の一部なのである。
 死をどのように捉えるのかということが、これからの時代に最も需要なテーマの1つとして掲げられることを私は望む。私からしてみれば、肉体が無くなったとしても残されるものがあり、そちらのほうが本質的なものなのであるが、このような価値観が、一般社会からはほとんど消えてしまっているように思える。
 死の準備をするということは、霊魂をより一層感じられるようになること、はっきりと思い出すことと同義だと私は思うが、この価値観とそれに伴った活動が社会にいきわたるならば、人生そのものをどう考えるのか、社会をどう組み立てるのかも当然変わってくるはずである。そして霊魂がやってきて、地上で学び、地上的に活動し、去っていくという流れがあることが見えてくることにもなり、人生にはあたかも四季があるかのように見えてくると思う。赤ん坊には赤ん坊のままで価値があり、子どもには子どものままで価値があり、大人には大人のままで価値があり、老人には老人のままで価値がある。それぞれのステージを、科学の還元論のように同一的に平等に見るのではなく、それぞれの時期の個性を認め、公平にその価値を見出すということができるようになると思う。
 つまり人々が死期の価値を知り、充実させることができるならば、人生の中に四季を見出すことができ、それぞれの時期を堪能することができるという社会を形成することができると思う。
効率化・合理化が進んだ社会の中で、季節感をゆったりと味わう生活が忘れられていく中で、神社には異次元とつながる穴があり、それを囲っている鎮守の杜は、四季色とりどりの姿を見せてくれている。

あとがき

 この作品は、「黄道十二宮三周説」と同じで、これまでの活動や考えてきたことをパッケージにしてまとめ、次に進むために書きました。宗教をどう考えるのか、社会をどう考えるのか、ということについて、自分の中でまとめることにより、もう振り返らないということをするためです。一度まとめると、次に進めるのです。「三周説」の時も、その効果を感じることができ、これにより、私は変成意識の世界の旅に没入することができるようになりました。
 この作品に書かれていることが、社会で実践されることがないにしても、私自身がこの地上的役割に対して、本質的に考え、その思いをもとに行動していくという喜びを私に与えてくれます。他の作品のいろいろな箇所で書いていますが、世直しよりも、創造性のほうが上位にあるのです。創造の光線の下降を、私を通して表現したいということです。私自身が近くにいる人たちにこのまとめた経験を通して身に着けたことを教えることができます。そこには充実感があります。
 このパッケージにして教える、伝えるというのは、サビアンシンボルの各10度に関係しています。私は冥王星が天秤座10度の「カヌー」ということなので、死後や異世界を含めた人生の全貌を伝えることに力を注ぎたくなるということです。
 余力があれば、もっと丁寧に書き上げたかったです。シュタイナーの文化期とかも入れて考えると、もっと事態は複雑になります。例えば「ギリシャ・ローマ文化期は肉体・人間の姿重視だったので、唯物論的になって当然だった」というようなことまでも考慮に入れるならば、私がここで語った「宗教」という言葉にもいろいろな解釈の仕方が出てきてしまい、相当書くのも難しく、読み手にもその労力を期待することになります。宗教のそれぞれの時代の役割が変わってくるであろうからです。
 追記として、⑧の女性に対しては、私はもっと伝えられることがあるとは思っています。しかしそれを急いで伝えることは、今は必要を感じないし、かえって事態を良からぬものにしてしまうと感じたのです。それは、おそらく彼女自身が死んでしまったならば、息子さんや、ずっと会いたいと思っていた両親への関心も、急速になくなっていくであろうということです。しばらくは関心があるかもしれないが、ずっとそこに留まり、いつまでもこのメンバーで幸せな家庭を体験したいとは思わなくなるはずです。だからこそ、このあっという間に終わっていく地上での生活の中で、この目の前の現実、材料を使って、何をするのか、何をクリエイト(何もアートでなくても構わない。日常の中に創造性を見出すことでもよい)したいのかということが重要だと見なすこともできるわけです。私がこれをここに書き止めるのは、これを読む読者の方々に、私の思いや考えを知ってもらうためです。
 理論・理屈を伝えることは大切なことで、それを学ぶことによって進化したり、上昇したりする機会を得ることができます。私もたくさんの理論・理屈を学んできました。ですが、それだけではうまくいかないといこともあります。
 感動をもたらし、どん詰まりから何か変化をもたらすためには、絶妙なタイミングというもの、つまりは繰り返しにはなりますが、「それがダイレクトに私のために起こった」と思える再現不可能な出来事が必要になるのではないかと思います。それは同時に、誰がやっても同じことをするというのではなく、他ならぬこの私と、他ならぬあなたの交流が必要なのであって、唯物論的・機械論的に人間を見ることをやめなければ、つまりは魂や霊がそこになければ、真実の感動は生まれないのだと思います。魂や霊は、物質的に外面的に観測することで認識するものではなく、自らのこととして感じ捉えることで見出すものだからです。

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