見出し画像

神社と神主について 第2章 神主の本分

第2章 神主の本分

 すべての人が、それぞれの神につながることができるならば、そもそも神主は必要がない。神社での思い出作りとか文化の維持という二義的なニーズをわきに置き、本質的な意味での神主の必要性は、神や不可視の世界へのつながりを見出せない人がいる限り、社会の中にあると考えてよいだろう。
 現代社会の様々な問題は、物質や肉体が全て、科学が全てという前提に立っているから発生するのだが、この超重力に支配されてしまった状況の中で、一部の人間はそこから脱出し、本来の在り様を取り戻そうとするようになる。神主(あるいは、他の宗教家や神秘家もそうであるが)は、そのようなタイプの人間の一種であり、そのような超重力な環境の中で、本当のことを思い出すことを促すことが本分であり、そのためには、固定観念への囚われや伝統文化の維持への固執を捨て、あらゆる可能性を視野に入れなくてはならない。固定観念や伝統文化への固執は、そもそも物質主義・肉体主義から来る偏狭な態度なのであるから、そこから脱出することでこそ、本分に接近できるということになるからである。このように語ると、伝統文化を全て捨てよ、なとど極端に解釈する人も現れることも分かっている。しかし伝統文化の中にも、本質的なものは含まれているのだから、採用できるものは積極的に採用するべきだ。何しろ、伝統文化とは、過去の人々の知恵の結集したものという側面もあるのだから。大切なのは、伝統文化から不要なものを除去するフィルターを持つという態度であり、その中にある本質面を見極めようとする態度である。
 神社ではなくても、神や不可視の世界へのつながりを取り戻そうする人々はいるが、それを否定的に見てはいけない。むしろ、彼らは味方なのだ。彼らの活動の中で様々な方法論が研究され、過去のやり方も見直されることだろう。

 神や不可視の世界へのつながりを取り戻すということは、肉体主義・物質主義への偏りを是正し、霊魂魄肉のバランスを持つようにするということである。つながりをより強固にし、より上位の世界の情報を手に入れるためには、それだけ肉への肩入れを減らさなくてはならない。それは同時に、社会との接点をできる限り減らすということを意味する。社会は、肉体や物質をメインにした状況にあり、その有様は、時代とともに極端になっていっているからである。これまでの社会の歴史とは、人々が重力への抵抗をしなくなっていった歴史であり、見えざるものを忘却していく歴史であった。第1部でも述べたように、その歴史の流れに従って、神とのつながり方、祭祀の行い方も変容していったのである。
 現代のそのような状況において、より神や不可視の世界へのつながりを復活させるために見直すべきことを、いくらか挙げたいと思う。
 まずは、赤ん坊の役割についてだ。社会から見れば、赤ん坊とは役立たずであり、一人前の社会戦士に育てなくてはならない対象である。社会は、あらゆる制度を整備し、赤ん坊を未来の社会維持のために教育するだろう。しかし本当は、赤ん坊には赤ん坊のままで価値がある。彼らはまだ地上にやってきたばかりであり、肉体に組み込まれすぎてはおらず、不可視の世界の影響力を地上にもたらすという働きを無自覚に備えている。赤ん坊に対する親の虐待やネグレクトが増えているのは、赤ん坊そのものの価値観を捉えることができなくなっているからである。それは赤ん坊を育てようとしている親たちも、社会的な価値観というフィルター越しにしか、見てもらえなかったことが大きな原因だ。「赤ん坊は、神の子」であり、まだ人間社会の存在ではないのだ。そこに癒しがある。どんなに暴力的な人間でも、小さな子どもの笑顔の前では、その暴力性が無くなってしまう。
 次は、年寄りの役割だ。現代では、老人にも死ぬまで働きなさいというような圧力が、政治的にかかってきているようだ。肉体・物質主義を前提とした社会なので、社会に直接的に貢献できない存在は、無価値というわけである。しかし、ほとんどの年寄りは、社会で活躍するということよりも、死について向き合うことのほうが、重要案件ではないだろうか。死への恐れをごまかすために、地上的な活動に夢中になるように自分を仕向ける場合もあるだろう。そしてそれができなくなった時、自分に絶望感を覚えるようなことになるだろう。年寄りは、誰もが死に近づいているのであり、望もうが望まざろうが、地上的社会と不可視の世界をつなぐ存在である。赤ん坊が、あちらからやってきたばかりに対し、年寄りは、これからあちらに向かおうとしているわけである。死への準備を整え、あちらの世界とのつながりを持つような取り組みをすることこそ、本当に夢中になれることだろうし、それをすることで、間接的に社会に良い影響を与えることができる。「世界は、目に見えるものだけで成り立っているわけではない。人間は肉だけの存在ではない。」そのようなことを自ら体験し、身に着け、教えることができる。それが社会全体に安心感をもたらし、安心感を前提とした仕組みを作ることに寄与するだろう。
 次は、引きこもりや不労者の役割だ。引きこもりや不労者は、現在の政治経済の悪循環・緊縮財政主義のせいで、活躍したくても活躍できない、社会に積極的に参加したくても参加できない、というケースのほうが多いと思われる。それはそれで重要な問題として、社会は改善に向けて取り組むべきである。その一方で、引きこもること、不労者でいることの価値もあることを見出すことができる。このような状況は、社会に深く関わっておらず、肉体・物質主義への関わりを軽減できる可能性がある。何かの役に立つということは、社会に深く関わり、その分、肉体・物質主義への肩入れが強くなるということだ。そこから外れれば外れるほど、目には見えないものとの共振を、自覚的にしろ無自覚的にしろ、行うことができる。祭祀を執り行う前に、参篭する習慣がかつてはあったし、伊勢の神宮などのように、今でも行っている場合もあるが、あれはいわば、神に接触する前の引きこもりであり、世俗との関係を断つことで、受信力を高めているわけである。引きこもりや不労者は、社会の中で参篭している人たちのようにも見える。物欲塗れの引きこもりは、参篭しているとは言えないが、物欲を少なくし、簡素な生活を密やかに行う環境というのは、それだけで魂中心の生活になっていくということになる。
 赤ん坊、年寄り、引きこもり(不労者)、これら3つの特徴は、社会の役に立たない、あるいは世俗に距離があるということであり、それがそのまま、神や不可視の世界とのつながりをもたらす力があるということを、私は言いたいのだ。世俗の情報が入らない分、上位の世界の情報の入る余地が多い人たちというわけである。
 男女という側面から考えるなら、神的なものへの共振力が高いのは、女性のほうである。それは肉体的な構造を見ても明らかで、女性は受信型であり、男性は発信型なのだ。女性が受信し、男性がそれを解釈して、社会のために役立てる、というパターンは、かつてたくさんあったようだし、現代も採用しているケースもあるようだ。卑弥呼もそのようなやり方をしていた。神的なものに接触した情報というのは、世俗に汚染されていないものを、何とかして世俗的に表現しようする試みなので、一見、何を言っているのか分からない。そのために純粋な受信者である女性と、それを解釈して使い物にする男性が必要になるということだ。この場合、参篭と同じ考え方で、この受信者である女性は、できるだけ世俗に関わらない環境に身を置くほうが、より純粋な情報をキャッチすることができる。夫婦のうち女性のほうを「奥さん」というのも、「奥に引っ込んでおれ」という意味ではなく、奥まったところで神とつながり、強い影響力を持っている、ということだろう。
 神主も、本当の仕事がしたいなら、きっちりと参篭し、あるいは世俗的な仕事は他の人に任せ、奥でヒッソリと祈る日々を過ごしているというのが、最も役目を果たすのに良い方法だろう。スメラミコトが、国民のために祈る「祭祀王」という立場だとするなら、私の考えでは、あまり世間に見られるようなことはなさらず、外交にも向かわれず、ほとんど誰もその尊顔を拝見したことがない、というようなスタンスが良いのではないか、と思える。世俗的なものに接触なさらない、高貴な存在という立ち位置が良いと思える。諸外国の王とは、全然、意味合いが違うのだ。
 現代のほとんどの神主は、参篭することはほとんど不可能であり、事務的なことや、日々の雑務に追われ、あるいは神主とは別の仕事を併せてしている場合は特に忙しすぎて、神主の本分のために時間を使うことができないというのが現状だろう。また、ある程度大きな神社に奉職した若者たちは、神を信じる気持ちが一般よりも高いかもしれないが、やはりその多くが、世俗的な楽しみを同じように求めているように見える。
 だから極端な言い方をすれば、多くの神主にとって、神社は一般的な会社で働いているのと、それほど変わらないという状況のように、私には見える。思い出屋さんとして、伝統文化維持係として、あるいは安心屋さんとして、日々の仕事をこなしている。私は、それだけでも、神との接触を高めているとは思うが、本人の自覚としてはどうだろう。一般の人よりも、「信じる心が強い」、程度の違いではなかろうか。
 私は「信じる」ことよりも「知る」ことのほうが重要だと思う。神や不可視の世界とのつながりが大きくなるほどに、お守り一つの中に、確実に神聖なものが宿っていることが分かるようになっていく。そのことにより、お守り一つ授与することで達せられることの意味が、それが分からなかった時とは異なってくる。一回一回の御祈祷が、単なる形式的なものではなく、確実に神と参拝者をつなげるための重要な儀式となる。
 神主それぞれが、どうすれば、つながりをより強めることができるのかを、見つける必要がある。それぞれに見つける必要があるのは、都市化・個人主義化が進行した結果、回帰の方法でどれが「自分」にフィットするのかを見つける必要が発生したからだ。「誰でも、これさえすればよい」という安直なメソッドはない。しかしゼロから自分で生み出す必要もない。自分にフィットした系統というものが必ずあるので、それを見つけることだ。
 少し、助言めいたことを述べるなら、物質世界特有のものを理解することだ。それは時間と空間という概念を理解することだ。魂の世界では、時間と空間の概念が、地上世界とは全く異なる。つまり我々にとっては時間と空間に閉じ込められた中で、神や不可視の存在と接触しやすい特別の時間と空間があり、それを利用するということが、大きな助けとなるだろう。そもそも有名な神社がある場所は、地理的に驚くほど計算されており、複数の神社で幾何学模様を描いていたり、東西などに一直線に並んでいたりする。あるいはお彼岸と呼ばれる時期は、先祖とのつながりができる日とされているが、あれは春分秋分で陰陽が結合することで、異界との接点が発生することが由来である。このように、時間と空間の使い方のテクニックを覚えるは、よい方法だ。一方で、肉体・物質の側面を軽減するほどに、このような時間と空間の制約なしに、つながりを維持し、情報を得たり、恵みをもたらしたりすることができるようになる。
 もう一つは、スキマの価値を知ることだ。役立たずの価値を知ることだ。社会の慣例に従っている限り、社会の歯車になり、それ以上の世界からの情報をキャッチできなくなる。最も役に立たない立場や状況で、社会に足りない何かを手に入れることができる。さきほどの例では、赤ん坊や年寄りや引きこもりについて述べたが、自分の中に、そのような時間を作ることだ。例えば、夢に向き合うというのも優れた方法だ。それは社会的価値から見れば、何の役にも立たない。しかし夢を見ているというのは、肉体を置き去りにした状況であり、魂の世界の情報をキャッチするには、非常に都合の良い時間なのである。崇神天皇や聖徳太子も、夢占を行っていた。それは単なるファンタジーではなく、現実的にそのような方法が有効であることを知っていたからである。
 このように考えると、現代人の場合、若いころから神主(あるいは他の宗教家や神秘家)になるというのは、本来性に反することなのだろう。若者は、地上生活を満喫したいというのが、通常であろうし、逆に年寄りは地上生価値に飽き、疲れ、死に向かい始めるがゆえに、神や不可視の世界とのつながりを作るための条件が整っているからだ。さりとて、生まれながらの性質というものもあって、若いころから、神主をするのが良いという場合だってあるだろう。私がここで語っているのは、一般的な場合の「職業としての神主」についてだ。日々のお勤めを果たしつつ、実務作業も行い、世間のニーズにも応え、地上生活的なことを、他の一般的な仕事と同じように経験し学び、その中で、少しずつ神や不可視の世界とのつながりを強くしていく努力をしていく、という矛盾したことを、自分で工夫し、うまくこなしながら生活することが求められる。もしかしたら、地上的なものにどっぷりとはまり、飽き足りて、魂中心の生活に向かったほうが、スムーズに成長できるかもしれない。神主にならないほうが、本分を果たすためには良かったという、逆説的な状況もあるかもしれない。しかし、その矛盾を抱えつつ成長していくことでこそ、見えることもあると思う。なかなか、何が正しいとは言えないのが実情だが、少なくとも自分が置かれている状況を理解することは、大切なことだと私は思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?