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神社と神主について 第3章 霊魂について

 人間には肉体だけでなく、目には見えない構成要素もあり、これが霊魂魄肉である。ここでは話をシンプルにするために、霊魂魄の部分を、まとめて魂と呼ぶことにする。
 人間に魂があるなら、肉眼では見えない、魂が存続する世界があるということになる。この魂が存続する世界は、肉体に埋もれている間は、知覚することができないので、それがどのような場所であり、どれくらいの大きさがあるのかを知ることはできない。しかし様々なトレーニングを積むことで、肉体以上の世界に接触することは可能で、仏教修行などは、このような修行を行っているというわけである。
 地球を去ったあとに、魂となった我々には、どのような選択肢があるのだろうか。かつて日本では、魂は山から里にやってきて、死ぬときには山に帰り、先祖の神と一体化すると考えられていた。あるいは春分になると山から神様が降りてきて、秋分になると帰っていくとか、春分と秋分には、ご先祖様が里にやってくるとも。
 死んだ後の魂となった我々の選択肢として、大きく4つに分けるなら、以下のようなシナリオが考えられると思うし、実際、様々な神秘体験をしている人たちの話を聞いてみても、大雑把に、この考え方でよいのではないか、と思われる。私はこの考え方を採用している。
 第1の選択肢として、先祖神と一体化したあとに、神となり、里にいる子孫たちを見守り続ける。この時、先祖神と一体化したとは言っても、集合意識と個別意識が混ざったような状態だと考えられる。
 第2の選択肢として、先祖神と一体化し、神となったあとに、再び里に帰る。つまり輪廻転生するということだ。かつては、自分の血族の中に転生するのが通常であったが、現代では、地球上、あらゆる場所が候補地になる。自分のやりたいこと、やるべきことに応じて、生まれる場所を選択する。
 第3の選択肢として、人間以外の存在形態に生まれ変わる。なかなかこれはレアなケースだと思われるが、仏教などでは、普通にこのようなことが起きるという教えになっている。これは、動物ということもあるかもしれないが、目には見えない妖精的な存在になることもあると考えられる。
 第4の選択肢として、地球圏外に移動する。そもそも魂の世界に、時間とか距離という観念がなく、物質世界とはかなり違った様相なので、圏外に移動するというよりも、地球への関心を失うというほうが良いかもしれない。魂の世界では、関心を失うことによってのみ、距離が生まれるからだ。関心を抱いた瞬間、その対象物との距離が縮まり、引き寄せるという法則だ。地球だけが生命が存在しうる環境だと思い込んでいる間は、このような可能性を信じることはできないだろうが、ひとたび魂の存在に気づいたなら、地球という環境は、果てしなく広い世界の中の、小さな小さな辺境の地かもしれないという見方も受け入れられるようになる。
 誤解を生んではいけないのは、先祖神とはいっても、現代では、自分の血族上の先祖とは、おそらく関係がないだろうと言うことだ。かつては、血族上の先祖が重要であったし、同じ血族的関係によって里を作り、そこで輪廻転生していた。今は、そうではない。地球上のどこに生まれるか分からず、自分のルーツを探し求めなくてはならない状況だ。
 この時に、誰もが日本の神にルーツを見つけなくてはならないということでもないが、おそらく、日本の神の中にルーツを見つけることは、誰でも可能だということも言えると思う。つまり、神仏習合の時代の工夫というのは、割に真実を表していて、地球上に存在する数多の神々の中で、名前が違うだけで、同じ神様だという可能性は、十分にあるからだ。魂の世界では、時間と空間の法則が、地上とは全く違う。魂の世界の神が、地球上に様々な形で現れることは可能であるし、それはつまり、血はつながっておらず、別の文化圏で別の神を祀っていようとも、それが同じ神であるという可能性を否定することはできないということである。さらに飛躍した話になるが、そもそもその先祖神、あるいはルーツ的存在が、地球圏に来る以前、どこか他所の世界にいたという見方をすることもできる。ルーツのルーツだ。
 しかし、ことさら、どの神とどの神が同じだということを追い求める必要はないと思う。また、事を急いで、ルーツのルーツがどのような世界なのかを、いきなり考えるのもよろしくない。大切なのは、まずはルーツにつながるということであって、そこにつながれば、それまで見えなかった多くのことが、見えてくることになるのだから。そのためには、魂の存在を受け入れ、それを思考だけで納得するのではなく、体験的に知ることである。

 信仰というものを、通常の思考によって、正しさを証明されたものを受け入れることだというスタイルを取るなら、いつかそのやり方は破綻する。逆に感情面だけに訴えかけ、恐ろしく偏狭な考え方に固執するのも破綻する。さらに科学の前提は、すべて目に見えるものによって説明するというものであり、その前提にそぐわないものは、対象外にするとか、偶然とか、妄想だと言ったりする。魂について知り、体験するには、目には見えないものを、目に見えるもので証明することは、そもそも不可能だということを、前提的に知っておくことが大切である。そして体験を重視することだ。言葉で証明するのではなく、目には見えない法則があることを、心身を以てたくさん経験することだ。神主として神社で奉務するというのは、そのチャンスに恵まれる状況である。その経験が豊富なほどに、優れた神主と言えるのではないか、と私は思う。地位や勤続年数や年齢によって得られるものはあるが、それだけではない、それ以上のものを、それぞれに追い求めることができるのだ。


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