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異世界探索記15

旧ser.15(2021年3月13日公開)より抜粋

はじめに


 今回は、現在進行の変成意識体験と、過去の体験のすり合わせのようなことに興味が向かっています。夢の中では、誰かに解説するようなシーンが増えて、快感体験ではなく、知的な情報が増えているように見えます。快感体験はかなり減ってきました。快感に対する印象が、「一体化」というより、「合図」という感じに見えてきています。

① 2021年3月7日朝 「ディアデム・デネボラのブレンド」


 変成意識に入ると、実家2Fの玄関側の部屋にいた。予定していたターゲットを思い出せないので、ふと思いついた「ディアデム」を呼んだと思う。しかし後述するように、このとき、「ディアデム」と言ったのか、「デネボラ」と言ったのか、正確には思い出せない。気持ちとしては「ディアデム」と言ったが、口では「デネボラ」と言っていたような気がする。
 すると自動運動が始まり、仰向けになり、両脚を前に突き出し、両膝を曲げる姿勢になった。椅子に座っているような体勢だ。さらに足首を膝の方向にくっつけるように力がかかり始め、両アキレス腱をストレッチし始めた。ストレッチが長く続くので、どうなっているのだろうと思い、右のアキレス腱を触ると熱くなっていた。
 私はこのとき、ディアデムを呼んだつもりになっており、かつて精神科のデイケアで働いていたときのことを思い出した。そして、「あの仕事は私には向いていない、現場で奉仕する福祉的な仕事を、私が地上で継続するのはしたくない」と思った。
 やがてその運動が終わり、窓から外に出ようとすると、前の家の2Fに明かりがついており、女性の歌声が聞こえてきた。日本語をベースとした歌で、知っている歌のように感じられた。私はそこに飛んでいこうとしたが、いつもなら楽々飛行できるが、今日は「もしかしたら今日は飛べないかも」と思え、庇にまで降りた。なおも歌は続いていた。
 私は「飛べそうだ」と思い、そちらに向かおうとすると、その家の方向から圧力がやってきて、近づくことを拒絶されているようだった。そこで私は、「これはデネボラの力だろうか」のように思え、自分が呼んだ恒星を、この時はデネボラだと思っていた。前の家の明かりが消えて、その左隣の家の2Fに、人がいる気配がした。移動したのだろか。
 ブラックアウトしながら、さっき聞こえていた歌は、中島美佳の「雪の華」のような気がする、と思っていた。目を覚ました後、「デネボラ」と言ったような気がする、と思ったが、時間が経過すると、いったいどちらを呼んだのか、分からなくなってしまった。
・コメント
 後半の「近づけない」という感じは、デネボラのように感じます。ディアデムの奉仕的福祉的なあり方について、通常の地上的なやり方にするべきではないということを伝えているような気がしました。つまりディアデムを呼んだけれども、デネボラが混ざってきた、ということではないかと思います。
『雪の華』に似ている」と思っただけで、「雪の華だ」と思ったわけではないです。先日の「Top of the world」の時は、似ているという感じがもっと強かったと思います。これはおそらく、振動の高い側の意識が、振動が低い側の世界の中に、似ているもの、対応するものを探しているということだと思いました。その時の「似ている」という感触が強い時ほど、その歌なり他の対応物の振動が似ているということであり、振動が高い可能性があるということではないかと思います。「決して同じ物では無い」ということが重要だと思います。「地上的な物で例えるとコレだ」ということでしょう。シンクロニシティーの力学というのは、このようなことで発生するのだろうと思います。振動の高い世界の意識が、振動の低い側の中に、自分の対応物を探します。1つでは消化しきれないので、たくさんの対象をターゲットにします。結果、地上から見れば、意味のある偶然の一致が、地上的存在間においても発生してくるということです。
 この文脈において「雪の華」を見て気になる歌詞は、「だれかのために何かしたいと思えるのが愛」という部分で、ディアデム的な発想に見えます。もう一点は、「キミを失ったら、星になってキミを照らすだろう」という点です。(引用:「雪の華」作詞Satomi)こちらは文字通り「星になる」ということですが、分かりやすく言うと、「遠い距離から奉仕している」ということになります。私は見えない圧力により、歌っている人に近づくことはできませんでした。歌を聴かせてくれるのに、実物には会わせてもらえない状態でした。
 このように考えると、奉仕的なディアデムと、距離をとり続けるというデネボラの混合の体験というふうに解釈できると思いました。つまり私は、言い間違えたのではなく、このブレンドを自分の体験として表現したときに、「どちらか分からない」という状態になったのだと思います。
 ディアデムは、恒星パランにおいて私の太陽とカルミネーションの関係があります。さらにヘリオセントリックでは冥王星と「合」です。割に関係が深いです。デネボラは、恒星パランにおいて月とセッティングの関係があります。
 私は20代半ばから30代半ばまで、不登校の子どもたちの居場所に関わる仕事をしていました。太陽は山羊座・11ハウスであり、9ハウスにある天王星と60度関係です。NPO的教育機関をそのまま表しているように見えます。ここでは子どもたちの権利を守るとか保護するという役目が多かったのですが、小さなネバーランドみたいな空間でした。子どもたちは思う存分、自分の好きなことをして過ごしていました。この太陽にはディアデムと同じカルミネーションでフォーマルハウトがあります。ネバーランドです。精神科のデイケアで働いていたときと同じで、ディアデムは現場主義だったのです。私は現場にこそ価値を見いだしていました。
 現在、私はまだ仕事をしておりカルミネーションの時期だと思いますが、社会的立場からすると、一歩離れた場所にいる感じで、40代の割にはセッティングの影響も入りやすくなっているのではと思います。そうしますと、この体験の中で私が感じたように、「もう現場には戻りたくない」というデネボラ的発想を持ちやすくなっており、その恒星の影響も受け取りやすくなっているのはと思います。これからの私にとってディアデムは、現場主義ではなく、世間から遠く離れた場所からの関与という方法になるということかと思いましたし、今の私にはとてもフィットしたものを感じます。

③ 2021年3月7日③ 「シンクロニシティーによって上位世界との連結を確認する」


 上位世界の反映が、必ず下位の世界に見いだすことができるという前提があるときに、それはら分割されて表現されるはずです。もしそれを1つの対象においてキャッチしようとするならば、受け止めきれずに爆発していまうでしょう。分割が前提となるはずで、その場合下位の世界から見れば、それらの分割された対象との間に、類似性を見いだすことができることになります。しかし、それらを引きおこした現象の源を、理解することはできないでしょう。何故、それが起こったのを理解することはできず、推測することのみ可能となります。源のほうが振動が高く、広い世界を見渡しているような状態だからです。
 地上は振動の低すぎる状態ですから、シンクロニシティーが発生する場合に、例えば以下のような特徴となって現れるのでは無いかと推測できます。
1 シンクロニシティー的反映に時間がかかり、待たなくてはならない
2 上位世界の要因と、地上での反映の間の表現に落差がある。似てない部分が多い。つまり、要因が地上的に表現されるときに、分割されすぎていて、シンクロニシティーを見つけにくい
 地上との連結に落差をつけないために有効なことは、その落差を埋める部分を濃厚にしておくことだと、私は考えます。つまりエーテル成分を濃厚にしておくということです。エーテル成分にも、地上に近くて重い部分、地上に遠くて軽い部分がありますが、それらを余すところなく、自分のボディーに満たすほどに、上位世界を地上に反映させるときに、円滑になっていくということです。
 逆の説明の仕方もできます。地上が僻地であり、宇宙の法則の端のほうにあり、あたかも切り離されたような状況であるとした場合に、上位世界の反映が起こりにくいので、シンクロニシティーがほとんど発生しなくなります。ただの物理法則のみで動く、機械のような世界です。私が異世界探索記で眺めていた「私から最も遠い世界にある場所」、つまり無機的に淡々と破壊と再生が繰り返される世界と言ってもいいかもしれません。
 一方で、単にエーテル成分を高めることをしたとしても、上位世界とのルートを発見し、形成していないならば、単に濃いエネルギー状態となり、その表現・発散に苦労するのではないかと想像できます。何に使って良いか分からない状態です。もしそれを、上位世界に従わせることをしないならば、魂は相変わらず孤独であり、スピリチュアル業界でよく使われる「一なるもの」を感じることができず、横とか下との関係のみに留まります。自分を中心とした世界観ですが、空しさがあり、それを満たすために、すべてを支配したくなる心理になるのではないでしょうか。いくら支配に成功しても、地上においてシンクロニシティー的に見いだせる上位世界との関係性を見いだすことはできず、終わりなき戦いに向かってしまうのではないかと予想できます。
 上位世界と言ったものの、そもそもそれは自分のルーツなのであるから、自分自身のことです。よって、「自分というものを、どのような水準によって見いだしているのか」という違いがあるだけで、「奴隷のように、いつまでも従い続ける」というのとは、全く違います。
 上に挙げたような特徴を理解しつつ、シンクロニシティーに従って生きていくことによって、上位の世界との関係性を忘れず、つまり孤独(地上的な孤独ではなく、宇宙的孤独)に陥らず、創造的に活動し、地上で満たされた生活を送ることに近づけると思います。上位世界との繋がりが太く、エーテル成分に満たされているほどに、その頻度は高まり、反映の仕方も誤差の少ないものになっていくのでしょう。
 私が追求しているこの道で、恒星との接触を何度も繰り返しています。それらの影響力は、地上にシンクロニシティー的に反映していくと思います。時間をかけて、形を変えて。恒星になりきった私と、一時的に記憶喪失している私による共同作業です。今日のディアデムとデネボラの体験は、恒星から放射する光のほうを重視しているように思えました。

⑧ 2021年3月8日⑤ 先日の夢「磔にされたキリストの言葉」(3月6日?)


 ふと、先日の夢を思い出し、意味は分からないけれども、興味深いので記録しておきます。
 私はイラストのような映像で、キリストと2人の男性が磔にされているのを見た。ゴルゴダの様子だが、デフォルメされており、モザイク調のイラストのようだ。茶色を基調とした色使いだ。キリストの顔は、何か嘆いているようにも見えた。キリストが、磔にされている男に質問した。
「どれくらいのことが分かるのか?」
 すると1人の男が、田舎の老人のような口調で答えた。
「ワシぁ、文字を読むことができるだけでスァ~」
 キリストがさらに言った。
「あなたはもう一つの文化、ヨモギの文化について知らなくてはならない。それは「いぬよいの里」を調べることだ。
 私は「いぬよいの里」を知らないが、なんとなくパレスチナの辺りの地図を思い浮かべた。
・コメント
 さっぱり意味が分かりませんが、印象に残る夢でした。夢にキリストが出てきたのは初めてです。イラストみたいなキリストでしたが。「いぬよい」の「いぬ」はおそらく「犬」です。「よい」は分かりませんが、なんとなく「宵」ではないかと感じました。「犬宵の里」です。もしかしたら「酔い」という可能性もありますが。
「ヨモギの文化」もよく分かりません。キリストの言った言葉からは「あなたが知っている文化の『裏面』の文化」のような印象を受けました。見てこなかった部分のことです。シリウスとかムルジムとか、犬に関係する恒星のことでしょうか。そういえば、ムルジムには接触したことがありませんでした。

⑨ 2021年3月10日朝 夢「宮崎駿と語る」


 最初、三国志のような世界で、戦争をしている夢を見ていた。川辺か海辺にいて、作戦はなかなか順調のようだが、少し緊張感があった。具体的なことは思い出せない。
 気づくと、大きな部屋にいて、私はうつぶせになっていた。なかなか眠れないという感じだ。部屋にはおそらく私をいれて5名くらいの人物がいて、そのうちの一人が宮崎駿氏で、何かに苦しみ、床に寝ころんだままのたうち回っていた。(もちろん、宮崎駿氏の映像を借りた象徴的存在であり、本人ではない)隣で寝ていたT君(昔の職場にいた若者)がいて、宮崎氏は彼に怒っており、蹴飛ばしていた。T君は、自分の鼾のせいで宮崎氏が眠れないのだと思い、謝っていた。
 すると夜中なのに、玄関から誰かが帰ってくるのが分かった。宮崎氏の妻と子どもたちという設定だが、妻は若く、子どもは小学生くらいのようだった(見てないけど分かった)。
 場面が変わり、それぞれが何かの研究をしていた。私は廊下か窓辺あたりにうつ伏せでの転んでおり、何をしていいか分からないでいた。そこに宮崎氏がやってきて私に話しかけた。
「何も進まないのかい?」
 私は応えた。
「霊魂について考えていると、考えることが多すぎて創作の手がかりが得られないです」
「宗教かい?」
 宮崎氏は、宗教に対してさげすんでいるように見えた。私はそれに対して、丁寧に答えたいと思い、話し続けた。
「宗教は、昔の人たちの霊魂に対する研究成果の記録です。現代の私がそれを研究しているように、昔の人たちも、どうやったら霊魂をうまく説明できるのかをトライしていたのです。」
 宮崎氏は少し話を聞いてみようという気になったようなので、私はさらに続けた。
「宮崎さんは、魂を感じたことはありますか?」
「あります。大きな作品を作り上げたとき、私の中で喜んで子どものように転げまわってます」
「それでは、その魂は、死んだ後に無くなってしまいますか?」
 すると、宮崎氏は、「そういうことか!」というふうに納得したように見えた。それが無くならないことを体感的に分かっているようだった。私はさらに続けた。
「霊と魂は(ここで兄弟と言いそうになって、違うと思い)親子です。誰でも死んだ後に魂が残ります。そこに本当の救いがあります。」
 すると宮崎氏の顔が別人の男性になっており、私に口づけを求めてきた。私は「男同士でするの?」と思いつつ、まあいいかと思って、それに応えた。私の舌にキューンという快感が1回走った。
 何か始まるらしく、私たちは外に出た。学校の校庭だ。これから小中学生くらいの子どもたちによるダンス発表のリハーサルが始まるようだった。宮崎氏の子どもたちもいるはずだった。それぞれが、各国の民族衣装のようなものを着ていた。赤いケルト民族衣装風の服を着た女の子が私の前に並んだ。服が泥で汚れているのが見えた。音楽が鳴り始め、私はダンスを知らないけれども、適当に合わせて踊り、楽しかった。
 リハーサルが終わり、校舎に入った。それぞれが教室に戻っていった。私はここの生徒ではなくゲストのような立場だが、とりあえず教室に行こうと思った。上履きを履きなさいと指示があり、「陽」と書かれたものを履くように、というコメントもあった。箱に入った陽の字がある上履きを探したが、マジックペンで陰という字や他にいろいろな字が書かれたものしか見つけることができなかった。上履きがない人はこちら、という解説があり、巨大な食器洗浄機のような場所で強制的に強いシャワーでキレイにされなくてはならないようだった。
・コメント
 創作に興味が出てきたためのように思えますが、本日の夢ゲストは宮崎駿さんでした(笑)繰り返しになりますが、本人ではなく、その映像を借りた象徴的存在です。大作を作った宮崎氏が自分の内に感じる不死の魂、一方で、私は「だれでも魂は死後も残る」と言ったこと、これらの間にある矛盾のようなものをどう考えるのかについて、私は興味が湧きました。
 私は、地球を体験することの醍醐味として、どこまでも物質的な世界を味わうということを度外視することはできないと思えていました。つまり忘却してしまうことを体験するのが地球を味わうことであると。しかしパラドックスが発生します。忘却してしまうということは、「味わう主体」すら見失い、結果として、味わうことが不可能になってしまうということです。
 つまり、一度、忘却してしまうということは、もちろん地球を味わい尽くすという意味では大きな体験と言えますが、その体験を完了させるためには、主体を取り戻さなくてはなりません。つまり、本当のことを思い出すということです。
 とりあえずスタピだけの話という設定として、忘れたまま死んでしまったとしても、死後、全部思い出すことができるというのが、私のここでの主張に見えます。「そこに救いがある」と。一方で、宮崎氏は、創作活動の中で魂が楽しくて転げまわるのを感じています。これは忘却してないということで、地上において、自分自身を成立させることに成功したということに思います。ゲーム攻略したというわけです。私はここで、昔、よく愛読していた「神との対話」を思い出しました。「あなたがたが失敗するということはありえない」みたいなフレーズです。正確ではないかもしれませんが。ゲームを攻略するのが最も楽しい、しかし攻略できなくても地獄に落ちるということもない、といことでしょう。ただ「もう1回プレイする?」ということにはなるかもしれません。
 地上において自分を思い出すということは、私的な言い方ならば「無理ゲー攻略」になりますが、「地球において自分を成就する」という表現でいいのでは、と思います。夢での宮崎氏は、大作の創作においてそれを成就したということです。
 私が手に入れることができた上履きは「陰」という字でした。あの学校が芸術創作・発表のための学校だとすると、金星的学校であり、陰陽で言うと「陰」の側です。私はそこで「霊魂について考えている」という感じで、バランスのために「陽」の側・水星の側が必要であるということになると思います。知性の道です。
 口づけして快感が走ったのは、ここで、陰と陽の結合が発生したからだと思われます。美と知の結合だと思いますが、口において結合したというのが特徴的です。

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