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神社と神主について 第4章 具体的な仕事

 本質的なことと世俗的なことが、神主の役割にはあるが、私の流儀は、世俗的なことの中にも、本質的なことを潜ませるというやり方だ。そうでなくては、精神的にやってられないという個人的な理由もある。
 本質面から遠ざかるほどに、潜められる本質的なものの量が減少していくと考えれば良いだろう。しかしそれは、本流へと流れる小さな流れであり、軽んじる必要はない。どれも面白い仕事として、やりがいのある仕事として、向き合うことができる。
① ルーツとのつながりを思い出してもらう
② 神社を機能させること
③ 神社を守る
④ 氏子崇敬者のための祈り
⑤ 安心屋さん
⑥ 思い出屋さん
⑦ 雑務

 思いつくままに、重要な順にざっと列挙すれば、このような仕事がある。順番に説明しよう。

①  ルーツとのつながりを思い出してもらう
これは、すでに何度も本文によって語ってきたことだ。神や不可視の世界とのつながりを思い出してもらう活動だ。端的に言うと、本当の信者を増やすという言い方ができる。このような言い方をすると、布教ばかり考えているように見えるかもしれないが、決してそうではない。内発的に、本人自ら、それぞれ神とのつながりを持つようになってもらうことだ。
そのために重要なことは、神主自信が、つながりを維持し、そのための取り組みを日々行っていることが大前提だ。自分に身についていないものを、他者に伝えることはできない。場合によっては、神主自身の方法論や学んだことを、教師のように伝える活動もすることになるだろう。
目標は、神主を必要としない、神主のような生き方をしている人物を増やしていくことだ。それは、自分と同じ神を主祭神とすることもあるだろうし、時には別の神を主祭神とすることもあるだろう。神性を思い求めながら、特定の神を必要としない場合も、もちろんあるだろう。しかしそれは敵対勢力ではない。むしろ仲間だ。その中には、自分よりも優れた人物も現れるかもしれない。ここで言う「優れている」というのは、神性との共振が上質であることを指している。

② 神社を機能させること
神社は、物質世界と不可視の世界をつなぐパイプの場所である。別の言い方をするとエネルギーセンターだ。神社を通して、地上の物質主義的社会が、世界全体から孤立しないように、エネルギーの供給と循環が行われる。このエネルギーがなければ、社会は徐々に渇き、人々の心は干からびていくだろう。
これは、目に見えてはっきりと分かる効果ではないから、なかなか神社の機能を理解する者は少ない。しかし神主自身は、その働きを感じ取ることが必要になる。神社を通して、その里が全体的によくなっていくというふうなものだ。神主は、そのことを理解しており、神にただ感謝を捧げる。その祈りにパフォーマンスは必要としない。日々の隠された祈りと言っても良い。誰もその成果に気づかないかもしれないが、それでも平気だという姿勢を保つことになる一方で、やはり、次第に、その効果に気づく人が少しずつ現れてくるもので、それはとても喜ばしく感じられるだろう。
エネルギーセンターとしての役割は、見えざる大きな流れなので、個人的な願望を叶えるということには、ほとんどフォーカスされない。その個人的な望みが、全体への奉仕のためのものならば、実現する確率は高まる。
なぜ、これが2番目になるのかというと、もし仮に、大きな災害で神社がその姿を失った場合、神主は仕事がなくなるのか?という疑問を提示すれば、理由は分かるはずだ。神主にとって最も大切なのは、神であって、神社ではないということだ。痛恨なことに例え御神体を失ったとしても、我々は神とつながることはできる。もし依り代を必要とするなら、榊などの常緑樹を立て、神籬として神をお呼びし、祭祀を執り行うことができる。

③ 神社を守ること
上記のような理由で、エネルギーセンターとしての神社を守ることで、里全体を守ることにつながる。そのために重要なものを、重要な順に述べる。
・祈り
そのための最も大きな仕事は、神主を始めとして、多くの人が神社で祈ることである。それが最大の維持存続のための力となる。祈りが無くなると、次第に、パイプとしての役割は消えていってしまう。日々の祈り、大きな祭祀での祈り。この祈りは、願望実現ではなく、その眼には見えない恵みに対する感謝の祈りである。我々はすでに与えられているからだ。
・杜
木々は、天空と大地をつないでいるような存在に見えるように、不可視の世界と物質世界をつなぐ重要なものである。かつて木々に神を降ろして祭祀を執り行っていたというのも、人々はその働きを十分に理解していたからだ。エネルギーセンターとしての役割を力強くし、維持するためには、たくさんの木々が境内にあることが望ましい。
・伝統文化
伝統文化は、人の思いの蓄積である。祈りの蓄積と言っても良いだろう。それが物質化したことによって、目に見える建物や芸能、祭祀の式・作法として記録されているのだ。この伝統文化を守ることは、祈りや杜に比べれば価値は下がるが、しかし力強さは間違いなくある。神社を守るためのシールドとしての機能が期待できる。伝統文化には、過去の人間だけでなく、現代を生きている人たちの関心も集まり、思いの蓄積をさらに上書きしていくことが可能である。

④ 氏子崇敬者のための祈り
これは、神社に関わる人たちのための祈りである。言わば願望実現のための祈りで、豊作や産業の発展、あるいは災害ができるだけないようにと、具体的な恵みをお願いするものだ。このパート辺りから、現代社会における神社へのよくあるニーズ的側面が現れる。私のスタンスとしては、本質的な目標は、それぞれが神性や不可視の世界を感じ、それを現実として受け止め、真実な生き方になること(それを惟神道と言うのだと思う)なので、この氏子崇敬者の具体的な要望、現世利益でさえも、2次的な役割だと考えている。
一方で、やはり神々は、祈らないよりも、祈り続けるほうが、間違いなく生活を良いものへと導いてくれる。祝詞に「称辞(たたえごと)」と出てくるが、これは天秤を表しており、これだけの捧げものをしますので、これに見合った現世的な恵みを与えてください、という祈りである事を表している。
しかし、どんなに祈っても、災害は起こるし、不運の事故なども発生することがある。真摯に祈って、このような予想外の結果があると、正直、意気消沈してしまっても仕方がないとは思うのだが、冷静に考えてみると、そもそも地球は我々人間のためだけに存在するのではないし、人間以外に多種多様な生命体が存在していて、我々には計りようもない計画があるとしても、全く不思議ではない。
現世利益を最上にした信仰は、やはり限界があって、それより上質なものがあってこそ、本当の信仰は成立しうると私は思う。どんなに不運なことがあったとしても、それが最高の結果へとつながる好機となる可能性もある。ルーツとのつながりを多少なりとも実現できてきるならば、「災害」や「不運な出来事」に対する解釈や感じ取り方が、大きく変ってしまうと私は考えていて、それこそが、本当の恵みだと思うのだ。
できるだけ氏子崇敬者の願いが叶うように祈り、願望実現の可能性を高め、それと同時に、うまくいかなかったとしても、それを謙虚に受け入れ、神に逆恨みせず、良いときも悪いときも粛々と祈り続け、やがてそれが本物の信仰につながっていくという態度があるべき姿だと思う。
氏子崇敬者のための祈り・祭祀は、もちろん、願望実現のための祈りではあるが、同時に、その神社を取り巻く重要な人々の絆を作る作用もある。それはそれぞれの人とのつながりを味わる充足感をもたらすとともに、その力が増えれば増えるほど、神社を守るための力が増幅することになる。つまり③の神社を守るためのシールド強化にもなる。よって、より多くのパワーを集めるために、そこに現代的なニーズ、思い出作り的な側面、パフォーマンス的、エンターテインメント的要素が、ある程度含まれても構わないと私は思う。
話題は少しずれるが、現代の問題で、氏子がどんどん減り、神社を支える地元の基盤が弱くなっている神社は、大量にあるのではないかと思う。すでに祭祀が取り行われていないとか、事実上、お世話する人がいない神社もあるだろう。振興住宅が増えて、昔ながらの人が減ってきている場所も多いだろう。
神社を支える力を強化するために(それは結果として、里全体のためになり、氏子崇敬者のためにもなるわけだから)、パフォーマンス的エンターテインメント的側面を強化するのも良いと私は思う。結果として、地元よりも、遠方の人のほうが興味を示し、言わば外側から評価され、結果として内側の人々から再評価されるというやり方も良いと思う。真の祈りが無くならず、本質面を忘れない限り、末端のことについては、現在の技術を存分に取り入れ、流行を考慮に入れ、話題を呼ぶようにしても全く問題はないだろう。最も大きな問題は、エネルギーセンターが失われてしまうということだ。面白いことに、どうしても存続が必要な神社には、お役目を与えられた人物がやってくるということもあるようで、「神様の声がいきなり聴こえてきて、この神社の神主になることになりました」という人にも、私は出会ったことがある。

⑤ 安心屋さん
氏子崇敬者ではなくても、個人的に、願望実現を求めて御祈祷を受けに来たり、お守りを受けに来たりする人がいる。そのような人たちのニーズに応える仕事だ。どうにもならない事態にいる人、どうしても叶えたい夢がある人、厄除けを望む人、新しいお家を立てるのに事故がないようにしたい人など、様々なニーズがあるが、ここで私が述べているのは、困ったときだけ神社に来るというタイプの人たちのことだ。彼らは安心を求めて神社にやってくる。
私の手ごたえでは、どの御祈祷でも神性を感じられるので、感謝し、お願いすれば、それぞれに恵みを与えてくれているのだろうと思う。しかし、その結果は、うまくいく場合も、うまくいかない場合もある。当たり前のことなのだが、祈りさえすればすべて叶うなどということはない。日頃の努力や気配りが大切で、そこにさらなる後押しとして、恵みを与えてくれるというスタンスが妥当だろう。
しかし、時に驚くべき結果が報告されるときもある。私は、きっとそのようなタイプの人たちには、何か重要な使命があるに違いないと思っている。一人の願いのためでなく、それが叶うことで、全体的に良くなる方向に力が働く場合、ということだ。
この安心屋さんの活動の中にも、もちろん、本質面を潜ませることになる。どんな御祈祷であろうとも、真摯に神とその人とをつなぐ仕事をするわけであるが、例え一過性のものであったとしても、リンクしたことには変わりがない。願い事が叶ったり、よい結果を得られたりして、不可視の世界への関心が、より一層高まる可能性もある。

⑥ 思い出屋さん
現代、最もニーズが多い仕事だ。信仰には興味がなく、御利益もあまり信じているわけではないが(多少、信じているケースも多いが)、神社にやってきて、思い出作りや観光に来る人たちへのサービスだ。御朱印やおみくじやお守りを、記念品として購入する人たち。あるいは初宮詣や七五三で、家族みんなでお参りする人たち(中には、本物の信仰の方もいらっしゃるので、すべてが思い出という訳ではない)。
そもそも思い出作りがメインにやってきているので、ここの仕事では、パフォーマンス的エンターテインメント的要素が、最も重要になる。神社でこそ得られる感動や楽しさを提供できるように、創意工夫をするべきパートだ。ユニークな御朱印、オリジナルなお守りなど。しかしやりすぎると、神社である必要がなくなるので、神社だからこそできる、というポイントは押さえておくべきだろう。
この辺りの仕事は、大きな神社なら若い神主が担当すると、時代に合わせたものを提供できるのではないか、と私は思う。経験が浅い神主ほど、末端的活動の中に比重を置くようにし、経験が増え、本物に近づきたい思いが少しずつ高まっていくであろうから、徐々にそちらにスライドしてくと良いのでは、と思う。
しかし、私の流儀では、この思い出の中にも、本質面を潜ませるということになる。御朱印一枚の中に、お守り一体の中に、思い出のための御祈祷の中にも、真摯な祈りを込め、見えざるエネルギーが伝わるようにしておくのだ。小さなエネルギーの流れだとしても、つながっていることに変わりはなく、本流に合流できるチャンスはあるということだ。そして時に、お守りやお札が、劇的な奇跡を生むというようなことも報告される。単なる記念品ではないということが、少しずつ知れることになり、思い出以上のものを求める機会を増やすことになるだろう。

⑦ 雑務
神社での仕事は、雑務のほうが多いと言っても過言ではない。理想的な形は、神主はひたすら祈り、世俗には塗れず、雑務的なことは他の職員が行うというものだろう。しかし現実はそうはいかない。
現代の神主は、雑務を行い、また思い出作りに協力することで、「一般的な社会的な仕事」に従事し、それを体験し、知ることになる。「普通に働くって、どういうことだろう」ということを。
「祈る」という仕事が、もっと地位を回復できれば、「祈るだけの神主」が、登場しうる可能性が出てくるに違いない。都市化が進んだ結果、職業の専門化が進み、祈る専門家としての神主が登場したが、さらに個人主義が進むことによって、「里全体のために祈ることをお任せする」という考え方もなくなり、個人が生きていくための数ある職業の一つになってしまった。母体のために祈るのが神主の仕事であったのだが、その母体があやふやになり、弱くなってしまったとき、「お金を稼ぐための神主」をしなくてはならない、という状況になってしまったのだ。そんな中で、本質的なことも忘れられがちになり、エンターテインメント重視の仕事ばかりをせざるを得なくなり、そうなると、自動的に、事務的仕事が拡大し、神主も事務や雑務をするのが当たり前、ということになっていくわけだ。
世俗に塗れないほうが、神主としての役割は上質になるのだが、現代の神主は、世俗を知り、体験した上で、本質に迫っていくという長い旅路を強要されている。それは矛盾を孕んだ、とても難しいことのように思えるが、それが達成できた時には、これまでになかった新しい成果をもたらすことができると思う。個人として、下界にまで下りられる歩くパイプのような役割だ。祈りや祭祀のみに頼らず、日常生活の中に神性を潜ませる神主である。


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