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「外側にいる自分」でもきっと大丈夫~ディア・エヴァン・ハンセン~

 「ラ・ラ・ランド」以降、ミュージカル映画が増えた。今年は「イン・ザ・ハイツ」がすごく好きだった。彩も音楽も華やかで、移民同士のコミュニティは、辛い時にもエネルギーに満ち溢れていた。こういった類の映画は、エネルギー少なめが日常の私にとっては元気をもらえる。

 今回の映画は、エネルギー溢れるような内容とはちょっと違った。普段、心の深い所にしまってある物を、わざわざ取り出して見ないといけないような苦しさがあった。

 きっと誰もが経験のある「私は外側の人間」の心理。どこかで知った疎外感。
 中学生や高校生の頃のモヤモヤ。
 SNSが日常に入り込むようになってからの承認欲求。

 観ていて思い出したのは、しばらく前にツイッターで書かれていた「誰とでも話せると思っていたらヒエラルキーの外だった」。
 私はその内容に一致してしまい、「えっ。そうだったんだ。私もヒエラルキーの外だったんだ」と愕然としつつしばらくそのツイートを追いかけた。意外とそう感じた人も多くいて、ネットを通じればいる仲間たちに何となく安堵したものだ。

 学生の頃に、ヒエラルキーって多少存在していた。
 中学からずっと女子校で、グループや派閥の確固たるものはなく。分かれてはいたけど、その中の誰かと別のグループの誰かもつながっていて流動的。あっちやこっちへ自由に行き来できて、互いが緩い関係だったように記憶している。私もグループで行動することは多かったけど、必ずその仲間じゃなかったし、今親しい二人もそれぞれのグループがあった。
 さかのぼれば、小学生の頃、いじめられていた時に分け隔てなく私に話しかけてくれていたのは、大人っぽいグループの子たち。でも私は大人っぽい雰囲気からは程遠いタイプなので一緒に行動するわけでもなく。彼女たちもいじめっ子を怖がらないでいたために平気で話してくれたし、同情もあったのかもしれない。ただ他にもいじめられている子たちはいたので、私はきっと彼女たちから何となく可愛がってもらえていたのだろう。
 その経験から、自分よりませた女子たちがいても臆することなく話しかけていた。違う世界だなとわかっていたけど、必要とあらばニックネームで呼び合って、お子様扱いされていたと思う。
 他に運動系の部活の子たちとは特に仲が良くて。クラスをまとめるタイプの子。人気者の子。笑いを取る子。あっちの部活、こっちの部活、と関係なく喋って笑って。傍から見たらもしかしたら「この子、こうもりみたい」とか思われていたんだろうか。私はただ無邪気にその時間を楽しんでいただけだった。
 私自身は文化部で、文化部全般の子たちと言葉を交わすのも好きだった。
 でもそれもよく思い返すと、自分の所属していた新聞部に活動があまりなく、新聞部同士で仲が良いわけでもなかったから、何となくあてがなかったような。ふらふらしていたのかもしれない。
 「ヒエラルキーの外だった」は、当人の心構えがおめでたいだけで、ヒエラルキーにすら入っていなかったと発見した見解。どこのグループとも特に親しくできていなかったのだ。

 ヒェッ。

 でもその時気づかなくて良かったと今となっては思う。バカを見ていたようでも、自分ではわからなかったのだから。
 当時、私は帰国子女の葛藤をおおいに引きずっていて、離人症のような症状に長年悩まされていた。目の前にずっと膜が貼っていて、聴こえもずっと水の中に入っているかのような感覚。
 多分、精一杯の私の防御反応だったのだ。
 離人症。ヒエラルキーの外と気づいていなかった私。
 それらは中学高校生活を楽しむための私の手段。
 そう思えば愛おしく思える私の過去じゃないか。


 中学も高校も「楽しかった」と、長年思い込んでいた。
 そうでもなかったと気づいた時にビックリして、そこから自分の気持ちの落としどころを見つけるまでああでもないこうでもないと考えてみたけど。でもあれはあれで良かったんだと最近思えるようになったところへ、今回の映画。

 ※ネタバレあります。

 エヴァン・ハンセンは、カウンセリングで自分への手紙を書く課題を出される。
 自分宛なので当然「Dear」で始まる。

 でもそれをコナーに取られ、返してもらえない。
 返してもらえないことを気にしてネットにさらされていないか徹底的に調べるけど、今のところ大丈夫だなと思ったら。
 コナーは自殺していて、そのポケットにエヴァンの手紙が入りっぱなしだった。
 コナーの両親はその手紙を見て、息子の親友だったのかとエヴァンと交流を深めていく。
 最初は真実を話そうと何度も試みるけど、元々喋るのが苦手なエヴァンはコナーの家庭に居心地の良さを感じ、さらには学校のコナー追悼行事のスピーチ、その動画拡散。と、ことは大きくなっていく。

 この辺りまでは、映画の予告で描かれている。


 最初に強く感じたのは、やはり中高生時代の生き苦しさ。友達がたくさんいて、イケててクールで、明るくいなければならないと強迫的な気持ちを持ち続けるのは自分を追い詰める。
 薄っぺらい友達なんかいなくて良いのに。それを言ってやれる大人はほとんどいない。だって孤立感や疎外感は恥ずかしかったり惨めだったりするだろうから。って思い込んでいる。
 それでも友達がいなくたって、いたって、クールだって、そうじゃなくたって、明るくなくたって、明るくたって、現状が苦しくたって、楽しくたって。そのままのアナタが愛おしくて大切なんだよ、って言ってくれる存在がいたら。
 どんなに救われるだろう。

 それは大人になったってそうだ。
 SNSで誰かに認められなくたってそうだ。認められたって。

 どっちだって良いんだよ。

 そして「こんな壊れた僕でも嫌いにならない?」て、エヴァンがお母さんに聞いたシーンでもうマスクびしょびしょ。

 嫌いになるわけないじゃないか。

 何度でも伝えたくなった。
 嫌いになるわけないよ。
 友達いなくても、一人でも、壊れてても。自分の子供を嫌いになんかならないよ。死にたいくらいに苦しませてごめんねって思うよ。アナタが悪いわけがない。

 土壇場で自分を大切に思ってくれている誰かに声をかけられるかどうかが境目なのだろうか。
 助けを求めるのが家族か友達か通りすがりの人かネットか、何だって良い。実際に逃げるとか逃げないとかじゃなくても、逃げ道を「探そう」。それはネガティブな意味合いじゃなく、細くたって前に進むための希望の道。きっとどこかにあるよ。

 SNSに関しても、問題にしているようだった。支え合いつながり合い、思いやりを分け与える存在であり、簡単に傷つけ苦しませる存在にもなり得る。思っているよりネットはたくさんの人が目にしていて。薄っぺらい関係の人からは信用できない浅い言葉やひどい言葉を、きちんと関係を築いてきた人からは率直で温かく強い気持ちや言葉を、分け与えられる。

 私たちには選択肢が増えたのだから。支える人が誰もいない、仲間は誰もいない、なんて絶望することはないんだよ。と言われているようだった。
 学校の世界で、自分だけ外側にいるように思える人も全然大丈夫。

 本当は「もう少し早く気づけなかったか」と思える親たちだけど、それでも例えばこの人たちがネットでさらされたとして、私たちにはわざわざ声高に責める必要はあるだろうか。充分苦しい思いをしている人だって多くいるかもしれないのに。
 お母さんの言葉が心に響いてしみた。こんな風に言われたら、どれだけ多くの子が救われるだろう。

 「私はそばにいる。とても大きく感じることが ちっぽけに思えるまで」

 最後になってしまったけど、エヴァン・ハンセンを演じるベン・プラットがめちゃめちゃ歌上手!
 彼は舞台で何度もエヴァン・ハンセンを演じているそうだ。もう歌も自分のものにしているんだろうな。

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