地獄への道は『共感』で舗装されている。 #反共感論 の要約
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地獄への道は『共感』で舗装されている。 #反共感論 の要約

私たちの社会には、『善』のイメージに強烈に紐づいた言葉がある。

たとえば、『平和』や『民主主義』といった言葉がそうだ。

もし私がここで、「平和は善ではない」とか「私は反民主主義者である」と書けば、おそらく読んでいるあなたは拒否反応を示すだろう。

私の人間性が疑われることは、想像に難くない。

善とほぼ同義語の言葉に対して反論を示すことは、「悪」にみなされるリスクがある。

だから、正直に告白すると、私はこの記事で『反共感論』という本をオススメする書評を書くことに、少し躊躇してしまった。

『共感』は、「平和」や「民主主義」と同じように、好ましいイメージに強く結びついている。

一般的に他者への共感は、親切や思いやり、寄付といった善行の前駆であり、共感性の欠如は、殺人や強姦、残虐行為といった悪行の原因であると考えられている。

だから、『共感は善ではなく、むしろ残虐行為の前駆にもなり得る』という著者の主張には、私たちは反射的に反発してしまう。

もちろん、この反発は、善良な市民を自称している私も例外ではない。
『他者への思いやりや親切は共感によってもたらされる』と考えていた私も、初めは大いに反発した。

しかし、この反発は、共感に対する深い理解による理性的な反論であったというよりも、自分が信じている価値観を守るための感情的な反射であったようだ。

読み終わった今、私は「共感が必ずしも道徳的に良い結果をもたらすわけではない」という著者の意見に同意している。

民主主義を深く理解するためには、民主主義という政治制度への適切な疑いが必要であるように、
共感を深く理解するためには、共感という心理への適切な疑いが必要である。

著者ポール・ブルームの主張をあなたが受け入れるにせよ受け入れないにせよ、反共感論は、共感という心理を真に理解するための適切な「疑い」をあなたに提供してくれる良書になるはずだ。

正直、2019年に読んだ本の中でもっとも気に入った本である。

この記事では、あなたにこの本に興味をもっていただけるように、
そして、私が共感の価値を不当に貶めるサイコパスであるという印象をあなたに与えないために、この本の要約を紹介したいと思う。

共感は、SNSなどで個人の発信がエンパワーメントされた時代では、とてもホットなトピックだ。
「共感をもってファンを獲得せよ!」とは、よく聞く言説である。

また私が属するスタートアップ界隈においても、「ブランディング」という文脈で「共感を得ること」の重要性はよく語られる。

この記事では「共感の本性」を紹介するので、「共感を得たい」もろもろの人たちにもお役に立つだろうと思う。

『情動的共感』と『認知的共感』

「反共感論」というセンセーショナルなタイトルだが、1つ注意をしておく必要がある。

著者は、共感の価値になんでもかんでもケチをつけているわけではないということだ。

著者は共感を2つの種類に分ける。

『他者が感じていること(とりわけ苦痛)を自分でも感じる追体験』という意味の『情動的共感』と、

『自分では追体験せずに、他者が何を考えているかを理解する』という意味の『認知的共感』だ。

例をあげて説明しよう。

たとえば私は、他人が恥をかいている場面を目にすると、自分まで恥ずかしい気持ちになり、目を背け、耳を塞いでしまう癖がある。
このとき私は、その人の「恥ずかしい」という気持ちを自分でも追体験し、恥に身悶えているのだ。
これが『情動的共感』で、反共感論の中でポール・ブルームが批判しているものである。

もう1つの『認知的共感』は、ちょうど今、この文章を書いている中で私自身が活用している。
「この説明なら伝わるだろう」
「この文章を読んだとき、相手はこう感じるだろう」という追体験ではなく「知性によって相手の思考を理解しようとする態度」のことを、著者は『認知的共感』として、「情動的共感」と分けて論じている。

『情動的共感』は、相手と自分を一体化して「感じる」のに対して、『認知的共感』は、あくまで相手と自分を分けて「考える」態度だといえよう。

前者の『情動的共感』に対しては、著者は手厳しい。

この種の共感は、美術や小説、エンターテイメントやスポーツを鑑賞する際には悦びの源泉になり得るが、道徳的指針としては害が多く、
非合理で不公正な政策を招き、無関心や残虐な行為を動機づけ、愚かな判断を導くことが多いという(p9)。
たとえ正しい目的において利用されるしても、情動的共感からはもたらされるメリットよりもデメリットのほうが多いため、政治家が人々の共感に訴えかけて説得する態度は、人種差別に訴えかけて説得する態度と等しいと言って退ける (p63)

一方で、後者の『認知的共感』に対しては、著者も一定の価値を認め、私たちが「善き道徳的主体」であるためには必要であると述べる(p48)。

ただし、この『認知的共感』にしても、道徳的観点からは世間に過大評価されていると著者は論じている。

なぜなら、いじめっ子やサディストは認知的共感でもって「どうすれば相手を苦しめられるか?」を理解しており、
首尾の良い詐欺師やサイコパスもまた、認知的共感でもって相手の欲望や動機といった「他人の思考」を的確に掴んで搾取しているからである。
(私も詐欺にあったことがあるので、このあたりは腑に落ちた)

認知的共感は、道徳的ツールではなく、没道徳的ツールであり、道徳的には中立に働く(p49)。

つまり、「情動的共感」にせよ「認知的共感」にせよ、『共感は善ではなく、道徳的でもない』というのが、反共感論における著者の主張なのである。

なかなかにして、センセーショナルではないか。

情動的共感がもたらす不都合

ポール・ブルーム著『反共感論』において、『共感』という用語は、『情動的共感』の意味で用いられている。

そしてブルームが『道徳的指針として不適切である』と批判しているのは、まさにこの情動的共感についてだ。

さて、では、情動的共感の何がそんなに問題だというのだろうか?

端的にいうと、共感は「偏向」しているのだ。
共感には、合理的な判断を誤らせる「バイアス」がある。

だから著者は、共感は、公正で公平な道徳的判断のツールとしてふさわしくない、と指摘する。

本書の中で、共感の問題点は数多く挙げられているが、今回は要約として、重要なものを4つに絞って紹介したい。

1,共感は、『特定性』を重視する。

2,共感は、『数的感覚が欠如』している。

3,共感は、『焦点』がおそろしく狭い。

4,共感は、『攻撃性の燃料』として作用することがある。


1,共感は、「特定性」を重視する。

共感は、抽象的な集団よりも、具体的な個人を「ひいき」する。

C・ダニエル・バトソンが行ったある実験では、ある慈善団体のサービスを受ける順番待ちにおいて、1人の少女を「順番待ちの上位に割り込ませる申請をするかどうか」が問われた。

被験者は、割り込ませるかどうかの判断の前に、その少女のインタビューを「共感しながら聞くグループ」と「共感せずに聞くグループ」に分けられた。

その結果、共感せずにインタビューを聞いたグループが少女を順番待ちの上位に割り込ませたのが1/3だったのに対して、共感して聞いたグループは3/4が順番の上位に割り込ませたのだ。

注意しておくと、被験者たちは、割り込みの申請をすれば、現時点で上位にいる子たちがその分長く待たされることになることを実験者から聞かされていた。

それでも共感しながらインタビューを聞いたグループのほとんどは、名前も知らない多数の子たちを犠牲にして、インタビューを聞いた1人の少女を「ひいき」したのだ。

この実験結果からわかる共感の2つの特性は、
共感は必ずしも万人に道徳的と見なされる結果を引き起こすわけではないこと、
そしてもう1つは、共感は、抽象的な多数よりも「身元のわかる個人」をひいきするということである。

心理学には、この共感の不合理な性質を表す『身元のわかる被害者効果』という用語がある。
特定の誰かがわかるような人が困難に陥っている場合のほうが、特定できない個人や集団が困難に陥っている場合よりも、手厚い援助をする傾向のことである。

この共感の特定性に対するバイアスは、この世に不合理なひいきが存在する理由であると共に、Twitterで個人アカウントよりも企業アカウントの運用が難しい理由でもあるだろう。


2,共感は、数的感覚が欠如している。

先ほど紹介した「割り込み」の実験結果にみるように、共感は、数の多寡を考慮しない。

たとえば、どこか遠くの国で地震のために200人の死者が出たという記事を読んだらどう感じるだろうか?
やがて、その数が実際には2000人であったと判明するとしよう。そのとき、最初の問いに比べて、10倍痛ましく感じただろうか?

著者は、そうは感じないだろうと、読者に確かめる。
それどころか、200人の苦難から「身元のわかる一人」の苦難に変わったときの方が、私たちはさらに苦難を痛ましく思うようになる。

スターリンは、「一人の死は悲劇的だが、100万人の死は統計的だ」といった。

私たちの共感は、明らかに被害の大きい100万人の苦難よりも、1人の苦難を重要視するという数学的には倒錯した趣向をもっているのだ。

たとえば、心理学者ポール・スロビックは、休暇中に誘拐されて殺害されたと見なされていた18歳のアメリカ人学生の苦境に関するストーリーが、同時期にスーダンで起こっていた虐殺事件(ダルフール紛争)よりも頻繁にテレビで取り上げられていたことを紹介している。

人間の共感は、虐殺された多数の人々よりも、身元のわかる1人の苦難のストーリーに惹きつけられるのだ。

この共感の不合理な性質は、公正な道徳的指針としては不適切だと、著者は主張する。


3,共感の焦点は恐ろしく狭い。

共感は、スポットライトのようなもので、特定の個人や集団を際立たせる。
しかし、スポットライトがそうであるように、特定の人物に焦点を当てれば、他の人々は暗がりに隠れ、無視されてしまう。

実際に割り込みの実験では、1人の少女にスポットライトが当たったが、それ以外の順番待ちの人々の幸福は無視されてしまった。

さらに問題なのは、そのスポットライトが当たる対象というのが『狭い』ということだ。

共感に関与する脳領域は、敵か味方か、あるいは自集団か相手集団かの区別に敏感であり、また共感は人の外見が魅力的か醜悪かなどといったことにも敏感である。

たいがい、私たちが共感を覚える人物というのは、子供などか弱き人々、自分が大切に思っている人々や、自分がよく知っている人々や、振る舞い、言葉、外観において自分と類似する人々だ。

逆に言えば、「そうではない人々」、すなわち自分が脅威に思っている人々、自分がよく知らない人々、自分と類似していない人々に対しては、私たちの共感のスポットライトは当たらない。

先ほど、1人のアメリカ人学生の殺害事件と多数の虐殺事件で前者がより重視された例を挙げたが、もしこれを私たちが奇妙だと思うのだとしたら、それは私たちが日本人であり、アメリカもスーダンも外国であるからだろう。

アメリカ人学生を日本人学生に置き換えれば、同じ現象が日本でも起こるはずだ。

このように共感は、適応される対象にバイアスがかかるため、道徳的指針としては不適切であると著者は主張する。

共感から政策を決定すれば、共感を集める特定の集団をひいきした、人種差別的な政策を容認することにもなりかねないのだ。


4,共感は、『攻撃性の燃料』として作用する。

共感という言葉は、親切や優しさのイメージに結びつき、暴力や攻撃性とはもっとも遠いものであるように感じる。

実際、共感は、共感した相手に暴力を振るうことはない。
それは著者も認めるところである。

しかし、共感のスポットライトの外側、すなわち共感の対象とならない敵や相手集団に対しては、共感はむしろ残虐とも思えるレベルの暴力を引き起こすことがある。

一般的な人々は、共感という言葉からは「親切心」を連想するだろうが、著者ポール・ブルームは、共感という言葉から「戦争」を連想するという。

著者自身がイェール大学で行った実験では、被験者に対して、中東におけるジャーナリストの誘拐などおぞましい事件を描写するストーリーを語って聞かせた。
次に、「何もしない」「公的に批判する」から「地上軍を投入する」に到るまで、様々な政治的な選択肢を被験者に提示したところ、共感力の高い被験者のほうが、より厳格な処罰を与えようとすることがわかった。

戦争や暴力的な政治主張は、こうした共感を誘うストーリーを燃料にして行われることが多い。
アメリカがイラクに侵攻しようとしていたとき、新聞やインターネットサイトには、サダム・フセインと彼の息子が行った残虐行為に関するおぞましい話が掲載されていた。
そしてトランプ大統領は、反移民の政治主張をするときに、サンフランシスコで不法移民の手で殺害された女性「ケイト」のストーリーを語ることを好んだのである。

死刑制度を容認している我が国も、この共感による暴力行為と無縁ではあり得ない。

EUや人権団体から『残虐』で『不当』あると批判されようとも、
地下鉄サリン事件の被害者のストーリーに共感する我々の多くは、死刑の執行を『正当』な刑罰であると考えているのである。

この『不当』と『正当』の非対称な評価に、我々は注意すべきである。

共感によって喚起された暴力行為は、たとえそれが外部から「残虐」や「不当」であると評価されようとも、主体的には『正義』であり『善』であり『道徳的』であると考えられている。

共感によって義憤を燃やし、道徳的であろうとする欲求に駆られて、我々は暴力に頼るのだ。
Twitterの炎上にも、少年漫画にも、この共感を利用した『道徳的正当化』の理論は見て取れる。

自分を悪だと認められるほど勇敢な人間は、この世にほとんどいないのだ。

ヨーロッパのことわざに、『地獄への道は善意に舗装されている』というものがある。
これは、悲惨な出来事の発端となる出来事が皮肉にも善意の行いであることを言うものだが、今や私たちは、その善意が『共感』にもとづいたものであることを知った。

『地獄への道は『共感』に舗装されている』のである。

私たちは桃太郎という昔話において、桃太郎に共感するがゆえに、桃太郎の暴力を正当であると考えている。
しかしその道徳心は、極めて共感を誘う以下の広告を見れば、容易に反転するだろう。

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私たちがこの1人の小鬼の悲劇に共感すれば、私たちは桃太郎の行為を不当であると感じ、善意から義憤を燃やし、桃太郎および共犯者たちに対する報復と社会的制裁を望むはずだ。

そのとき私たちは、この報復が『正義』であり『善』であり『道徳的』であると信じてやまない。

一方で、桃太郎側といえば、私たちの報復を『不当』であると感じるはずだ。
この認識の齟齬が埋められないがゆえに、『戦争』という悲劇は生まれる。

しかし、たった1人の悲劇への共感によって、戦争という数百人、数千人と死傷するより大規模な悲劇を許容するのは、まったくもって不合理である。

しかし、先ほど紹介したように、共感には『数的感覚』が欠けており、抽象的な大多数の悲劇より、具体的な個人の悲劇に重みをつける性質があるため、この戦争という不合理は正当化される。

かくして地獄への道は、共感による善意によって舗装されていく。

こうした共感による不合理な悲劇は、単なる思考実験ではなく、現実の世界で実際に起きてきたことでもある。
敵にもたらされた個人の悲劇のストーリーは、プロパガンダでよく喧伝されるもので、実際それは効果を挙げている(トランプは実際、今や大統領である)。

だからこそ著者は、『我々の社会は道徳的指針として『共感』に頼るべきではない』と、強く警鐘を鳴らしているのだ。

しかし、ここで1つ反論が思いつく。

悲劇に対する共感が、報復という形で敵に対する暴力を喚起することはわかった。
ならば、『敵に対しても共感すれば、報復は防がれ、平和が訪れるのではないか?』
桃太郎は鬼に、鬼は桃太郎に共感を示せば、戦争は防げるはずだ。
「汝の敵を愛せ」、という反論である。

しかし、この反論に対して著者は、『リンゴと同程度にイヌの糞に食欲を感じるよう求めるのと変わらない』と返す。
それは論理的には可能だが、人間の心の正常な機能を反映するものではない、というのだ。

この困難さについては、私も実体験として紹介したいエピソードがある。

加害者は被害者に『共感』しない〜共感と漫画村と古本〜

私が事業を起こしたきっかけの1つに、『漫画村事件』がある。

振り返れば、この漫画村事件から日本政府によるサイトブロッキングまでの流れは、『共感』を理解する上で有益な素材であったように思う。

漫画村は、ご存知のとおり、2018年に猛威を振るい、日本政府にサイトブロッキングを受けた大規模な漫画の海賊版サイトである。

私が漫画村を知ったのは、出版社や漫画家が対漫画村のキャンペーンを張っていたときだったが、当初の私は、(少し前まで漫画家を目指していたこともあってか)漫画家や出版社の訴えに共感し、義憤を燃やしていた。

しかし、しばらくして、私は何に対して怒っているのか、わからなくなってしまった。

作家に対価がなく、作品が無料公開されていることに対して怒っているのだろうか?
それによって作家および出版社の利益が毀損されることに怒っているのだろうか?
それによって漫画文化が衰退することに怒っているのだろうか?

私の目の前には、Amazonやメルカリで購入した古本がおかれていた。

『作家や出版社に利益が還元されないまま、作品を利用して第三者がお金を得る』という産業構造に注目すれば、海賊版と古本市場は同じだ。

海賊版は広告を通じてサイト運営者に、
古本販売は、顧客から直接、販売者にお金が入る。
しかし、そのお金が作家や出版社に還元されることはない。

しかし、私はAmazonやブックオフやメルカリの出品者に対して、義憤を燃やしたことはない。
そしてそれについて自己弁護をしようとすると、なにやら海賊版サイトの運営者の自己弁護と同じ詭弁をろうしているように感じるのだ。

この矛盾にどう対処すべきか?私は悩んだ。

海賊版と古本販売の決定的な違いは、前者は違法あるいは法的にグレーで、後者は合法であることだが、私は遵法意識から漫画村に義憤を燃やしていたのだろうか?
しかし私は、二次創作やコミケといった著作権法的に危ういものも好きなのである。

『共感』という心理への理解を深めた今なら、私はこの矛盾に説明をつけることができる。

私が漫画村に怒る出版業界に共感し、義憤を燃やすことができたのは、私が『漫画村を利用していなかったから』であり、
私が古本販売に対して義憤を燃やせなかったのは、私が『古本を購入していたから』だ。

すなわち、私は漫画村による搾取の『加害者ではなかった』が、私は古本による搾取の『加害者であった』ことが、この矛盾の原因であったのだ。

アダム・スミスは共感できない相手の条件として、『自分のせいで苦境に陥ったと見られる人』を挙げている。

加害者側は、道徳的正当化が働くので、自分の加害が「正しい」と思い込み、被害者の痛みに共感することができないのだ。

これこそ、我々が敵に共感することが難しい理由であり、戦争を止めることが難しい理由であるように思う。

私も、矛盾に気がつくまで、いや気が付いてもなお、古本購入の正当化を止めることはできなかった。

古本販売に反対する作家や出版社はいるが、私が彼らに共感することは、まさにポール・ブルームがいうように『リンゴと同程度にイヌの糞に食欲を感じる』ぐらいには難しかったのである。


そしてまた、この漫画村事件の終幕にあたる『日本政府による海賊版サイトのブロッキング』は、共感が社会を誤った方向に導きかねないことの証明になっているように思う。

このサイトブロッキングは、日本国憲法が禁止する『検閲』であり、『通信の秘密』を侵害するものではないかと、今なお議論が続いている。

しかし、この違憲の恐れがあるサイトブロッキングは、世論の後押しを受けて断行された。

世論とは何か、と問えば、まさしく『作家の悲劇に対する共感』に他ならないだろう。

私としても、漫画村に対する漫画家の嘆きを知ったあとでは、このサイトブロッキングに反対するのは難しかったと言わざるを得ない。

しかし、手続きに不安の残る政府の決定が、人々の共感によって安易に正当化されてしまうのは、おそらく想像している以上のリスクである。

もし、再び日本で治安維持法のような法律が制定されるとしたら、そのときは「身元のわかる個人」の「共感を誘うエピソード」が燃料として投下されるだろう。

我々は共感に頼らず、何に頼るべきなのか?

ここまで私は、共感の欠点や危険性について紹介し、『道徳的指針として共感に頼るべきではない』という著者の主張を紹介してきた。

では、共感の代わりに、私たちは何を指針に道徳的行為を考えるべきなのか?

それは『理性』である、と、著者はいう。
不合理な偏向をもつ共感を廃して、合理的な思考によって、もっとも効果的な利他主義を遂行すべきである、と著者は述べる。

共感のもたらす直感的で不合理な性質(すなわち特定性を重視し、統計を理解せず、身内びいきし、抽象的な多数よりも具体的な1人の悲劇を重視して報復する性質)は、『バイアス』と呼ばれている。

しかし、人間はこのバイアスの奴隷であるわけではなく、理性によってバイアスを修正して、合理的な判断を行う力も持っている。
(この無意識のバイアスを修正する合理的な理性は「システム2」と呼ばれている。この心理システムは、こちらで紹介しているのでぜひ読んでもらいたい。)

私たちが理性によって共感によるバイアスを修正することができれば、
私たちは道徳的な判断が必要な場面で、
1人の少女を順番待ちの上位に割り込ませることもなければ、
抽象的な大多数の人々の悲劇より、具体的な1人の悲劇を重視することはないし、
身内びいきに走らずに、より公正な判断ができるはずだ。
戦争や終わりなき報復だって、防げるはずだ。

道徳的行為や親切は、決して共感からのみ生まれるものではない。
私たちは相手の苦しみを追体験しなくても、相手に親切にすることができる。
赤ん坊でさえそれができることが、本書では証明されている。

私たちが善き人間であるために必要なことは、
衝動的で自己満足的な共感に流されずに、結果に責任をもった、効果的な利他主義を実践することである。

そこに不可欠なのは、真実を信じ、客観的なデータに注意を払う、合理的な知性なのである。

たとえ地獄への道が共感で舗装されていようとも、知性によって、人間はその道を歩まない選択ができるのだ。


まとめ

1,共感には『情動的共感』と『認知的共感』がある。
情動的共感は、相手の感情を追体験することで、認知的共感は、追体験せずに相手の思考を理解することである。本書で道徳的指針として相応しくない共感として語られるのは主に情動的共感であるが、認知的共感も首尾良い犯罪者にも用いられる没道徳的なツールである。

1,共感は、『特定性』を重視する。
すなわち、抽象的な集団よりも、より具体的に描写された個人を「ひいき」する(p110)。

2,共感は、『数的感覚が欠如』している。
特定の個人の苦難を、1000人の苦難より重要と見なされる状況をつくりだす(p112)。

3,共感は、『焦点』がおそろしく狭い。
共感に関与する脳領域は、敵か味方か、あるいは自集団か相手集団かの区別に敏感であり、また共感は人の見てくれが魅力的か醜悪かなどといったことに敏感である(p113,p119)。

4,共感は、『攻撃性の燃料』として作用することがある。
悲劇に共感することで、善意にもとづいた報復が行われる。
そして共感に基づく報復は、外部の目から見てひどく残虐なものに映る場合がある(p229)。

5,善き人間でありたいなら、道徳的指針として共感に頼らずに、合理的な理性でもって、結果に責任をもった『効果的利他主義』を実践すべきである。

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