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負けても、正しく

今日ほど、企業に『勝利』『倫理』の2つが同時に求められている時代はないだろう。

不幸なのは、その両立が決して簡単ではないことだ。

その原因の一つは、『公正世界信念』と呼ばれる人間の認知バイアスにある。

公正世界信念とは、簡単に言えば、「正義は勝つ」という思い込みだ。

この考え自体には、有益な点がある。
私たちは、「正義は勝つ」とか「努力は報われる」と考えられるからこそ、善良であろうと努力できるし、未来の成功のために努力できる。

苦々しい問題が起きるのは、この論理が逆向きに働いたときだ。
たとえば、「勝ったから善」「負けたから悪」「失敗した人間は怠惰」と判断されることにある。

公正世界信念によって、私たちは『勝者』を崇めて、『敗者』を軽蔑する傾向にあるのだ。

だから過剰な競争は、私たちに、勝利のための『戦争犯罪』を犯させることさえある。

競争において倫理的であることは、ときにとても難しいのだ。

それは、ときに倫理的制約が勝利の枷になる(ように思える)だけでなく、人々は公正世界信念によって、倫理的な敗者を評価せず、勝者をのみ崇めるからだ。

メディアも人々も、敗者に石を投げ、敗者を忘却に追いやり、そして敗者の名誉を奪い去る。

メディアも人々も、勝者を讃え、勝者を学ぶために記録に残し、そして勝者を崇めるための記念碑やビジネス書を世に広める。

人々は「正しく勝て」とは求めるが、「負けても正しく」とは求めない。

そもそも公正世界信念の中では、「負けたやつ」は「間違っている」から、「負けても正しく」はありえないとさえ思われている。

一方で、勝つために手段を選ばなかった勝者は、英雄として讃えられ、英雄の犯罪は「武勇伝」として語られる。

神話において、神の虐殺さえも正当化されてきたように、勝者のやることはいつだって「正しい」のだ。

私はいまだに、メディアが「彼らは負けてしまったが、間違ってはいなかった」と評論するのを聞いたことがない。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」が人々の認識のデファクトスタンダートになっている。

ひどい世界だ。
ひどい世界だとは思わないだろうか?

だから私は、あえて信念として『負けても正しく』を掲げたいと思う。

たとえ倫理的制約によって劣勢に立たされたとしても、私は、私が正しいと思える私のままで勝負をしたい。

たとえ倫理的制約によって敗北して、賊軍として石を投げられたとしても、それこそ知ったことではない。

間違っているのは、『勝てば官軍、負ければ賊軍』の世界のほうだ。

間違っているのは、勝者を無批判に賞賛し、敗者を無批判に嘲る社会のほうだ。


『勝てるから倫理的でいる』という論法の脆さ

ビジネスパーソンに倫理を守らせるために、倫理の競争上の優位性が語られることもある。

『社員の多様性は競争優位につながる』といった類の言説だ。

私はそれが無益な試みだとは思わないが、脆さがあるとは思う。

なぜなら、常に倫理が「金になる」とも「競争優位」に繋がるとも限らないからだ。

ときには倫理は、逸失利益や不効率のような形で、企業の経済合理性に反することさえある。
倫理によって、倫理にもとる競合との競争に負けることも、ないとは言い切れない。

確実に倫理が金になるなら、なぜ多くの企業が倫理にもとる問題を抱えているのだろうか?

それは、倫理はときに、経済合理性に反することがあるからに他ならない。

だから、経済合理性を理由に倫理を守らせる試みは、倫理が経済合理性に反する場面では、いとも容易く破られる。
「ダブル・アイリッシュ・ウィズ・ダッチサンドイッチ」のように。

「倫理的であると儲かるから、倫理的であるべき」という論法は、そうした行動の一貫性を欠く脆さがある。

だから、私たちが従うべき「倫理」については、「経済合理性」と分けて考えるべきだと私は思う。

倫理についていえば、経済合理性や競争優位性とは別の次元で考えるべきだと、私は思う。

だからこそ、自分が信じる倫理については、『負けても正しく』で貫く態度が重要だと思うのだ。

『負けても正しく』とは、経済合理性に反しても、自分の信じる「正しさ」を優先するという『不合理な信念』である。


合理的な病に抗う、不合理な薬。

多くの企業は、『非政治的』であろうとする。

それは、とても合理的な理由からだ。

2つの勢力が政治的に拮抗しているとき、どちらか一方への政治的な肩入れによって、どちらか一方の市場を失うようなマネはしたくない。

企業には「ゴーイング・コンサーン(継続)」が求められており、そこにおいて、政治的であることは逸失利益と不利益しかもたらさない「不合理」でしかない。

ある国で民族浄化のような不義が行われてたとしても、その国の市場規模が大きいなら、その問題を「政治的問題」として触れずにビジネスを行うのは、経済合理性でいえば『合理的』だ。

あるいは統計データを眺めて、統計の上では女性よりも離職率の低い男性を採用し、低学歴よりも業績の高い高学歴を採用しようとする『統計的差別』は、経済合理性でいえば『合理的』だ。

企業のこうした経済合理性は、正当化されやすい。

なぜなら合理的であるという時点で、間違ってはいないからだ。

多様性や公平性が重視される現代において、もしこうした現象を我々が「苦々しく」思うのであれば、これは『合理的な病』だと呼んでいい。

この合理的な病は、合理的であるが故に、放置されるどころか、奨励されることさえある。
ひどいときには、この合理性に反しようとする試み自体、嘲られることさえある。

だからこそ、この合理的な病に抗うのはとても困難だ。

では私たちは、この合理的な病に従うしかないのだろうか?

そんなことはない。
一つだけ、この合理的な病に抗うための薬がある。

それは『不合理』である。

すなわち、経済合理性から離れた、不合理な『倫理』と『信念』である。

それは世論の常識ではなく、むしろ『宗教』に近い。

私たちは、どういう組織でいたいのか?
どういう組織であることに誇りを持つのか?
何を正しく、何を間違っていると考えるのか?
何を美しく思い、何を美しくないと考えるのか?

こうした問いの答えが、もし経済合理性とは別の軸にあったとしたら、それが合理的な病に効く唯一の処方箋だ。

経済合理性を至上善とする拝金主義者は、その薬を『綺麗事』と呼ぶだろう。

その通り。綺麗事だ。

だが、合理的な病を克服できるのは、結局のところ、拝金主義者が嘲る綺麗事以外には存在しないのだ。

拝金主義者が「綺麗事では生き残れない」と指摘するのは、経済合理性の観点からいえば、おそらく正しいだろう。

だが、綺麗事のような理想は、生き残るために功利的に信じるものではない。
宗教と同じで、自分が死んでもいい理由のために、信じるものだ。

綺麗事に対する殉教を覚悟した信念なしには、合理性の病は克服できないだろう。

なぜなら合理性の病は、企業の継続に対する合理性によって正当化されるからだ。

合理性の病は、生き残るために、仕方なく、罹患する病であるからだ。

生への執着によって、もたらされるからだ。


お前は、何のために起業したのか?

幸い、不合理は、私たち起業家にとっては、とても身近なものであるはずだ。

なぜなら、起業する時点で、それは経済合理的な意思決定ではないからだ。

多くの一般的な思い込みをよそに、多くの会社は単なる金儲けの装置として設立されてきたわけじゃない。

信じられないだろうが、多くの起業家は、金を稼ぐために起業したわけじゃない。
金を稼ぐ方法なら、他にもいくらだってある。
わざわざ起業のようなリスクをとる必要はなんてどこにもない。

彼ら彼女らには、何か成し遂げたいことがあり、それを実現するための手段として、リスクを取って会社を作ったのだ。
(少なくとも自分はそうだ。)

それは経済合理性の観点からいえば、極めて『不合理な情熱』である。
会社の倒産率やスタートアップの低い成功率を統計データで見れば、どう好意的に見ても起業は、経済合理性のない自殺行為だ。

それでも私たちは、『情熱』や『理想』という不合理な感情によって、その『統計的な自殺行為』に挑んだのだ。

私たちは起業の理由を語るとき、金儲けよりも、「限られた人生」という寿命と死について語ることが多い。

そのとき起業家は、自分の命を事業に賭けている。

「命を賭けて実現したいものが、倫理にもとる金儲けだろうか?」

多くの起業家は、この問いにNoと答えるだろう。

私だってそうだ。
福沢諭吉の「学問のすすめ」を読んで、世界文明に半歩でもいいから貢献したくて起業した。
だから今も、ろくに給料も出ないのに1日中コードを書いている。

その果てにあるのがカネだけなんて、そんな残酷はない。

そもそもカネは、生きている間にのみ有効な利用価値しかないのだから、命を賭けるに値しない。
命を賭けるに値するのは、すなわち殉教に値するのは、理想すなわち綺麗事だけだ。

人はカネのために死ぬことはできないが、綺麗事のためなら死ぬことができる。
だから起業家は、カネではなく、綺麗事のために、起業という統計的な自殺行為を選択するのだ。

こうした青臭く、不合理な情熱によって突き動かされた創業者や、創業初期に巻き込まれた従業員には、とくに合理的な病に抗う力がある。

企業文化が初期メンバーによって形成されるという話にも納得がいく。

企業文化とは、言い換えれば、その組織の倫理であり、そして行動原理である。

人間が経済合理性の次に従うのは、自分の周りの人間の行動、すなわち文化と慣習である。

では、不合理な文化をつくり出す最初の人間を突き動かすものは何だ?

結局のところそれは、統計的自殺行為を選択した、不合理な情熱と理想なのだ。

少なくとも、経済合理性では断じてない。


22世紀に恥じない企業

「負けても正しく」は、言うほど簡単なことではない。

「負けても正しく」の難しさは、100年前にタイムスリップしてみればよくわかる。

もし「帝国主義」が「勝利」に貢献するとわかってたとしても、そして競合が「帝国主義」を採用していたとしても、あなたは「帝国主義」を採用しないという選択をできるだろうか?

それは競争の当事者からすれば、とても難しい選択だろう。
大半の民衆だけでなく、マルクスやJ・S・ミルのような当時の進歩的な知識人たちでさえ、帝国主義を是とせざるを得なかった。
そして実際、サピエンス全史にも描かれたように、帝国主義による「科学と帝国と資本のフィードバックループ」によって国家が発展してきた事実もある。

そんなのは過去の話と一笑に付すなら、もっと最近の例で、「ダブルアイリッシュ・ウィズ・ア・ダッチサンドイッチ」と呼ばれる節税スキームでこの困難さを証明しよう。

多くの人々は、このタックススキームに、帝国主義と同じような反感を抱くだろう。

しかし、それでもApple,Google,Facebookといったテックジャイアントたちはこれを採用した。

私は、その経営者たちがとりわけ悪人だったとは思えない。

彼らはきっと、ただ恐ろしかっただけだ。
競合が採用している手段を採用せず、ただ善良であろうとしたがゆえに、競合との競争に敗北してしまった未来が。

これを、傍観者や評論家としてではなく、当事者として考えて欲しいんだ。

我々が生きている社会で、『負けても正しく』が、どれほどの困難を極めるか。
どれほどの恐怖を克服しなくてはならないか。

この世の多くの悪は、人の悪意によっては引き起こされてはいない。
人の「臆病さ」によって引き起こされているのだ。

だからこそ、『負けても正しく』には、相当な覚悟と信念がいる。

経済合理性に従う拝金主義者には、決して取れない選択肢だ。

だが、私たちが20世紀を悔やむならば、20世紀を恥じるならば、私たち21世紀の人間は、勝利よりも倫理を選ばなくてはならない。

私たちの未来に禍根を残さないためにこそ。
次の世代が、我々を恥じないためにこそ。

21世紀から20世紀を批判するのは簡単だ。
そして、多くの人々は他人事として、安易に20世紀を批判する。
しかし、本当に大事なのは、口先だけの批判なんかじゃない。

重要なのは、今生きる私たちが、今現在、どう行動するかなのだ。
20世紀の人間と同じように振る舞うのか。そうではないのか。

20世紀も21世紀も、人間は何も変わりはしない。
ナチスも私たちも何も変わりはしない。
私たちは、現在進行形で、20世紀の再試を受けている。

だからこそ私たちは、『負けても正しく』だ。

BooQsは、22世紀の人間が恥じない企業でありたい。

たとえ公正世界信念が、私たちに石を投げつけようとも。

こんなクソみたいな世界でも、せめて僕たちは正しく死のう。

たとえそれが統計的な自殺行為であったとしても、世界に良い影響をもたらす、良い自殺であると、僕は思うのだ。


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議論を深め、この拙文を公開する勇気をくれた @koheiSG さん、@en30Y さん、@d0ne1s さんに感謝を。
そして、これからのBasecampに期待と願いを。



あなたの貴重なお時間をいただき、ありがとうございました!