20240504: 隠す

 僕は男性の人間で、あなたも人間だと思う。そしてこのnoteは僕という人間のカリカチュアでもある。

 この日バイトに行ったら三月で大学を卒業してそれに伴ってバイトも退職、今は社会人の先輩が来た。男性だ。一緒にバイトしてた時から本当に仕事がよくできる人で、詳しいことは書かないけど新卒なのにすでに、世の中のたくさんの人に関わるような大きい仕事に関わっていて、すごいと思った。その人がゴールデンウイークに突然来たのは恋人と別れたからだった。その人にとっては当たえられた仕事があまりにも大きくて、いや、というかそれを言い訳にしていろいろ理不尽に恋人に当たってしまった、言い訳はいろいろできるけど結局はそれが自分の本当の姿で、今変わろうとしているところなんだ、そのために例えば美容院を予約した、とか言っていた。

 僕の周りにもう一人恋愛に悩んでいる人がいて、この人をAさんとするが、Aさんは意中の女性がいるのだけれど、その女性にはどうやらあまり相手にされていないようだ。僕は、Aさんが上手くいかないのは、自分の生活や身体的要素を隠さずに、あまりにそのまま生きすぎているからだと思う。

 人間が言葉を使うようになって世界に時間軸が生まれた。過去や未来をあらわすことができる言葉は、いまここ、目に見えてたちあらわれる以外の世界に対する想像力を僕たちにもたらした。そうなったら最後、僕たちは僕たちに潜む暴力性や醜さを想像できるようになった。しかし人間社会を営むにはそうしたものを隠さないといけない。そうする責任がある程度人間にはあると僕は思う。この隠す努力が足りていなかったから、単純に言いすぎるが、バイトの先輩は恋人と別れることになった(と自身で分析していた、と僕は解釈する)し、Aさんは上手くいっていない。

 隠す努力とは何か。たとえば性欲である。いわゆる三大欲求(欲望ではない)に食欲、睡眠欲、そして性欲が挙げられている。この定義がどれほど医学的に正しいのか僕は知らないけど、たしかにいずれも自分でコントロールできる域を超えていると思う。女性のことは僕は分からないけど、男性のほとんどは個人差があれど性的な欲求を持っている。僕もそうだ。そして、そういう欲求に一ミリたりとも基づかない「ピュアな」恋愛は、少なくとも僕には想像できない。これにはだいたいの男性が共感してくれるだろう。でも、だからといって性欲をむきだしにしてはいけない。なぜなら男性の性欲は極めて暴力的で権力的な要素を孕んでいると思うからだ(妊娠するのはいつも女性である)。

 女性を性的な対象として見てしまうのは、男性の人間である以上はっきり言って仕方ないと思う。でも僕はそれを隠さないといけない。それを具体的に言えば、たとえば服を着る、ということだ。その服を、おしゃれに着こなすということも大事だと思う。そのことは、これまで人間が必死に営んできた隠すという行為の蓄積への尊重でもある。だから、バイトの先輩が美容院を予約したというのはすごく良いことだ。

 当然、隠すということが自身の内なる暴力性に無自覚である、ということになってはいけない。また、常に隠すことも良いことではない。時には隠さない方がいい、隠してはいけないこともある。僕は前回のnoteから、一人称を「私」から「僕」に改めた。それは、ジェンダー規範を内面化してしまっている、文章を書く僕が、ニュートラルな印象を読者に与える「私」を使うのは卑怯だと考えたからだ。むしろ、人間はさまざまなことを隠しながら生きている、ということを全ての人が了解しながら、しかしなおも隠す努力を続けることが、大切だと僕は思う。

 多くの男性に理解されることだと思うが、いわゆる「賢者タイム」というメンタリティが存在する。僕にとってそれは一般的に言われる行為の後に限らず、常に存在する、自分の情けなさを突き付けてくるメタ的なものだ。すなわち別に行為の最中でも前でも後でも、性的なものに関係なくても自分にとって明らかに良くないことをしているときに、それに夢中になっているだけではなく、どこか「自分は何をしているんだ」と思い続けている(これは東浩紀がいつかのYouTube配信で言っていたことで、すごく共感した)。でも、本質主義的だという批判を覚悟して言えば、そのメンタリティに陥ることこそが男性という生き物であり、人間という生き物なのだと思う。この心理状態こそ人間の特権なら、大切にするべきだろう。

 時には隠さない方がいい、隠してはいけないこともある、と上に書いたが、社会を成り立たせている隠す/隠さないのバランスや緊張感がいまのインターネット、特にSNS上の言説では限りなく失われている。すごく幼稚なことだと思う。確かに、人間だから見た目である程度他人を判断してしまったり、自分と違う人々に恐れやネガティヴな印象を抱いたりする。でも、だからといってそこで開き直ってはいけないと思う。あきらめずに常に倫理的であろうとしている人の方が多大な犠牲を払っているし立派だ。

 服や美容院の例からも分かるように、隠すという営みが厚みのある豊かさ、面白さになることもある。そして、いまの世界では、隠すという行為をしたくてもできない人がいることも忘れてはいけない。僕たちは、全ての人が隠すことを実践できるような世界を作らなければならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?