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20231027: 夢について

 前日、サークルの選曲会議にいつものようにイライラしたから、YouTubeをだらだらと見て、気づいたら午前2時40分に就寝したのだった。朝9時から、打楽器アンアンブルの練習をしないといけないから、寝られる時間は5時間30分ぐらい。僕はその通りに寝て、起きて、練習をした。
 文化系サークルの部室が集まる文サ館では、自動ドアを付ける工事をしていた、らしい。実際に見たのにこのような責任を持たない書き方をするのは、自動ドアを付けている、というのは人づてに聞いた話であって、実際のところドアの周辺で工事はしていたが、単純に何の工事をしているか分からなかったからだ。兎にも角にも、どうしてそんなことをするのだろう?と、最も基本的な種類の疑問を抱いた。「文サ館はフリースペースではありません」という張り紙と同じような論理を持っているような感じがした。
 1時間ぐらいで練習を終える。その後、少しだけピアノの鍵盤をたたいて、チャイコフスキーの「悲愴」がなんて美しい旋律を持っているのだろうといつも通りに思って、文サ館を出た。5限に授業があるので、それまで暇だ。朝ごはんを食べていないことに気づいた。少し離れた大学内のパン屋に行って、パンのようなピザ──あるいはピザのようなパン?──と、カレーパンを買って食べた。カレーパンはともかく、パン+ピザはパン/ピザの二項対立に対するパルマコンだ、と雑な考えをした。パン屋に行くまでの日差しがもやもやとした感情にさせた。今日だけではない。最近真っ青な秋晴れの空に独立している白い太陽が、白過ぎてしんどい、と思う。
 パンを食べながらスマートフォンをいじろうとしたが、モバイルデータ通信がうまくいかずWi-Fiも無い場所であったため、オンライン世界に接続することができなかった。それゆえ、スマートフォンのブックアプリに前々からダウンロードしてあるブックデータ──本を読むことにした。夏目漱石の『こころ』。大変恥ずかしいことだが、一度も通読したことがない。これまで何度か最初から読み始めて、いつの間にか読まなくなる、というのを繰り返してきたのだ。もう一度、最初から読むことにした。そしてパンを食べ終わると同時に中断した。後日、また続きを読むだろう。
 授業と授業との空き時間など、大学内で時間を過ごさなければならないときに僕は図書館に行く。別に図書館が好きなわけではない。パソコンと印刷機がすぐに使えるというところにメリットを消極的に見出しているだけである。ノートパソコンは基本的に大学にはもっていかない。重いからだ。この日はまずは紫色の、机もなくただ本を読みたい人のためだけのクッション性が高い椅子に座った。図書館の一角にはその種類の椅子がたくさん並んでいいるがだれ一人座っている人がいなかったので良いと思った。当然寝るためである。
 結局この日は図書館で3時間ぐらい寝たことになる。一気に3時間寝たわけではない。前述の紫色の椅子で1時間半ほど、パソコンがある勉強用の机で1時間ほど、だ。パソコンがある机に座ったのもあくまで儀礼的であって、すぐに机に顔を伏せることになるのは僕にとってはあまりにも明白なことだった。
 夢の内容を、いつもにはない程度で精確に覚えている。つまり二つ夢を見たことになる。一つ目は、大学の宿舎──しかしそれは本当に存在する筑波大学の宿舎ではなく、僕の夢の中でしか存在しない形の「筑波大学宿舎」であった──に住んでいる僕が、生活をする夢。「筑波大学宿舎」は図書館の真上に作られており、それは黒色半透明なガラスを使用した、奇抜な形のポストモダン建築の重要な作品の一つになる予定であったが、俗世にありがちな様々な意味不明な論理によって白紙になり、結局中途半端に装飾性を持たせた結果それゆえに凡庸な、しかも生活をするにしては極めて不便を強いられる施設であった。しかし夢の中で僕が「筑波大学宿舎」において生活をしていた記憶は残っていない。そこに住んでいるという事実だけがあった。エレベーターがあるのだが、エレベーターのドアがエレベーターホール側に向いておらず外に向く方にあって、ドアが開くと建物の外側に晒されている、ということがあった。そのせいで、僕は椅子を運んでいたのだが、その椅子を建物の中に運ぶのにひどく苦労したのだった。
 その施設は図書館と宿舎が複合していただけではなく、食堂や売店もあった。食堂では僕が近づくとスタッフの中年女性から急にスタッフの制服と名札を渡されて、それに身を包んで立っていると、別のスタッフの中年男性にどういうつもりで立っているのかと怒鳴られた。売店では文房具などありがちなもののほかににテニスのラケットや野球のグラブ、サッカーのボールなどが売っていた。色とりどりのそれらは一般的な大学の売店というイメージから対照的で、なにか古着屋にいるような気分の高揚を覚えた。スポーツ用品の品ぞろえにはさすが数少ない体育系の学部がある国立大学だと感心したものだ。さらにほかに、トミカ(おもちゃのミニカーのトミカである)や石鹸(?)が売ってあった。石鹸のうち僕はウタマロ石鹼が欲しかったので(現実でもそうである)、買おうとしたが値段を見てやめた。トミカは何だったんだろう? 兵庫県明石のコンビニでトミカが売ってあって、こんなものも置いてあるのかと思ったことがある。きっと意外なものが置いてある混淆とした売店、あるいはデパートのような憧れの物がなんでも置いてあるような、わくわくするような売店を、空間を求めているのだと思う。
 二つ目の夢は、去年四月に亡くなった高校の現代文の先生に関する夢。その訃報を受け取ったのは大学に入学してからで、クラスのグループラインで担任から送られてきたメッセージだった。ここまでは事実であり、ここからが夢の内容だが、きっかけは分からないがそのメッセージを参照する必要が生じた。訃報を参照した結果、先生は3月11日に亡くなったことが分かった(本当は4月11日である)。途端に、その3月11日──2022年3月11日に自分がいた。その日は確かにいつもと違う日だった。なぜなら全自動運転でホームドアも完備する、移動手段鉄道として完全に近い形にあるつくばエクスプレスが、大雨というだけで遅延していたからである。そのとき先生はつくばエクスプレスの運転士ということになっており、ちょうど僕はつくばエクスプレスのある駅の、見覚えのない駅のホーム上で、先生が運転席に座っている列車がホームに入ってくるのを、友人Aと友人Bと見ていた(AとBは本当は互いに知り合いではない。Aは大学の友人であり、Bは高校の友人である)。列車は満員で、Aが列車に乗り込み、出発していった。見送りとして僕は手を振ったが、Aは応えてくれなかった。でも、別にAが死んであの世に行くとか、そういうことではないと思う。
 一つ目の夢より、二つ目の夢のほうが、現実の僕の考えていたこととかに対応していたような気がする。フランス哲学史の授業で勉強した、デカルトの連続創造説。私とはすなわち思惟する精神であるが、それは神によって無限に分割された時間ごとに常に再創造されている。では死とはなにか? それは単なる身体の故障であって、精神はずっと維持し続ける──死は存在しない。死とは何なのだろう? 死んだ人の精神が生き続けているとしたら、どこに行けばその精神に会えるのだろう?──それはきっと、デカルトにとって無効な問いなのだと思うけど。でも、心身は合一する。精神は不死であり、身体とともに死ぬものでもあるという矛盾。矛盾は常に懐疑に開かれている。僕にとっての一番身近な死が、その先生の死だった。彼の思考を貫く論理は僕にとって受け入れがたいものだったが、それでも尊敬できるところのあった人だった。それゆえに死と精神が云々と言われて考えざるをえない出来事のひとつ。そして、僕の両親が死んだら、そして僕が死んだら?と考えてものすごく怖くなった。3月11日というのは、やはり死者のことを意識せざるを得ない日のひとつで、なんとなくそこにイメージが結び付いたのだと思う。
 つくばエクスプレス。僕はまた、その鉄道がいかに僕にとって受け入れがたいものであるかを、友人に力説していた。トンネルばかりで直線を中心とする路線に、全自動の運行システム。最高時速は130キロメートルだという。完全に移動手段としての側面に振り切っていて、中間を無視する。景色を楽しむことも休むこともできずに、振り回されているような気がするのである。現代文の先生の死と、つくばエクスプレス、友人AとB。何が関係しているのか全く分からない。あるいは一つ目の夢。宿舎と食堂と売店。いったいどういうことだろう? そんなことを考えることすらもはや無意味かもしれない。
 シュルレアリスムの自動筆記を思い出した。私たちは理性によって用いる言葉によって現実を構成させている。しかし、理性を完全に排除した状態で、言葉を用いたら? そこには、無意識を反映した非合理的な言葉の並びによって超現実の世界が現れる。あるいはジョン・ケージの偶然性の音楽。両者は僕は結構似ていると思う。なぜなら、どちらも有限個の言葉/音の並びの可能性を追求しようとする営みだからだ。様々な事象が現実では考えられない非合理性で結びつく。夢もまた同じといえるかもしれない。
 ところが、確かに夢のなかの僕は、そのような事実の結びつきに、ある種の合理性を感じて納得しているのである。それは夢から覚めると、単に忘れてしまっているだけで、本当は何か一貫した合理性があるのではないか? 
 中沢新一が大阪の景観やお笑いに見出す、複素数の仕組みが面白いと思った。

 現実の世界の秩序をつくっていく実軸と、想像力を巻き込んで現実の世界とは垂直に交わっている虚軸という、二つの軸の交わりの中から、独特の精神風土の土台(=大阪の景観)が、つくられてきたのである。
 複素数というと難しそうだが、できのよいお笑いは、たいてい複素数の仕組みで、つくられている。古典的な漫才の台本から、引用を一つ(秋田実『笑いの創造』から)。
 若き夫「あなたは、赤ん坊のことは大変詳しいとおっしゃいましたね?」乳母志願者「ハア、あのォ、私自身も一度だけ赤ん坊の経験がございますので…」
 二人の考えていることは、それぞれ垂直になっているほどに違う軸の上でおこっているが、それが「赤ん坊の経験」という一事で、交差して結びついている。垂直になっている軸の間を、軽快に飛び渡ることのできている地口ほど、よく笑いをさそう。

中沢新一(2012)『大阪アースダイバー』講談社、41頁、括弧内筆者。

夢の世界の僕は、お笑いのボケのように、虚軸を生きているような気がする。一つ一つの事実や、人や、物事が交差して結びついて、夢と現実を語ることができる。それゆえに、僕らは、自動筆記の内容に、あるいは偶然性の音楽にツッコミを入れることができないけど、夢の内容にツッコミを入れることができるのだ。
 夢の中で、これまでの人生における様々な経験をいやおうなしに見せられる。すべて今の僕をつくってきたものである。これからも僕は=私は?いろんなものに、あるいは神に連続してつくられていく。そうだとすると、僕はどのようにつくられていけばいいのだろう? それは僕が選ぶことができるものですか? こんなに単純なことが分からない。どうして僕は、死刑囚にならなかったのだろう?


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