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ジョナサン・ノット/東京交響楽団「第710回定期演奏会」

ジョナサン・ノット/東京交響楽団
第710回定期演奏会

リゲティ:ムジカ・リチェルカータ第2番(ピアノ:小埜寺美樹)
マーラー:交響曲第6番イ短調「悲劇的」

 音楽は目で見ることができないし手で触ることもできない。実体がないからこそ感情の文脈の中で、心の中でのみそれを記憶している。昔よく聴いた音楽を聴いたとき、ほかのなにに触れたときよりも途端に懐かしい感情が押し寄せてくる。

 朝起きてサークルに行って、サークルの会議終了後、間髪入れずバス停に行く。大学から東京駅行き。このバスからすでに非日常である。このバスが行く先は違う世界。サントリーホールで当日券(1000円!)。

 リゲティの印象的なGからそのままマーラーのAへ。
 コンサートホールはアジールである。現世のロゴスは通用しない。というか、音楽がある瞬間、もはやそこにロゴスは存在しない。自分もない。音と感情がぐちゃぐちゃに一緒になって一つのものになってただそれだけが存在する。最高のエクスタシー。でも決して「癒し」ではない。それが音楽という芸術だと思う。それを奏者も観客も一緒になって作りあげていく。

 ノット&東響のマラ6は衝撃でした。サウンドのうねり、緊張感、連動、呼吸…語れるものではなかったが、そこに音楽がありました。日本でこういう芸術に驚くべき安価で触れられることは本当にありがたく思います。
 たしかにトランペットに目立つミスがありましたが、あまり、と言っては言い過ぎかもしれませんが、自分にとっては、演奏を聴いた後の感想に影響するほど気になるものではありませんでした。没入できるような音楽はミスにも有無を言わせないような説得力をもつものだと思います。もちろん、程度の問題で、ミスばかりの演奏や技術的程度が低い演奏では音楽を作り上げているとは言えないでしょう。つまり、逆に気になってしまったら、それはもうあまり価値のないものになってしまうと思います。

 2月にN響で、ラフマニノフの交響的舞曲を聴いた。3月に京響で、マーラーの交響曲第6番を聴いた。
 4月に友人と夜通しドライブに行って、東京港区の誰もおらん道を、音楽を大音量で流しながら走った。もうめちゃくちゃ車線とか間違えて(東京の道は難しい)、めちゃくちゃな車線変更とかUターンとかした。誰もおらんかったから別に良かった。ラフマニノフの交響的舞曲を流して、第1楽章最後の、交響曲第1番の主題が強烈に頭に残ってしまった。
 それで今日、マーラーの交響曲第6番を聴いた。また強烈に残ってしまった。感情の文脈とともに、頭にこびりついてしまう芸術は自分にとって音楽だけだ。だから自分も、強烈に残る音楽を、演奏で作ってみたい。
 マーラー:交響曲第6番とラフマニノフ:交響的舞曲をずっと後に聴いたら、思い出したくない辛い大学2年の春を思い出すんやろなあ。

カウベル

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