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道祖神と構造2 ─伊江島 

 沖縄県本部半島の西側、沖合5㎞ほどの美しい海のなかにある、落花生のような形をした島が伊江島である。本部港からの村営フェリーに30分乗れば到着する。
 1943年、防衛戦線の教科を迫られていた日本軍は伊江島西部に飛行場を作ることに決めた。すでに戦況の傾きはあらわになっていた。延長1,800m・幅員300mの滑走路。作るために、決定したらすぐに土地を入手しなければならない。「その土地代や補償金の支払いは現金が渡されるわけではなく、目の前で強制貯金や戦時国債にかえられ証書だけが渡される仕組みだった」そうだ。そして伊江村民も当然その工事に従事しなければならなかった。
 「東洋一」と呼んでもそん色ない飛行場を作ろうとしていた。滑走路は6本。しかし、資材不足によりそこまでには至らなかった。
 それでも翌44年には特攻隊の中継基地にできる程度まで完成し、3本の滑走路が建設された。しかし、さらにその直後、翌45年3月に大本営は破壊するよう命令を出し、駐屯軍の手によって爆破されてしまった。米軍の手に飛行場が渡ってしまうことを恐れた。目と鼻の先まで米軍艦隊が来ていた。
 米軍にとっても伊江島は重要だったのだ。長距離爆撃の拠点、本土、とくに九州攻撃に最適な位置にある。
 1945年3月、米軍軍艦が伊江島を取り囲み艦砲射撃をはじめた。打ち尽くした挙句、4月16日午前8時にLCT(上陸用舟艇)で西崎海岸から上陸した。残っていた建物等も火炎放射器で焼かれて、完全な焼け野原になった。たった6日間の出来事だった。唯一いまも残るかつて公益質屋だった建物には、その海側に巨大な穴が空いている。
 逆に言えば、それ以外に戦前からある建物はない。タッチュー、青い海だけがずっと変わらない。

 およそ3,500人が死んだ。そのうち1,500人は村民だった。
 生き残った人びとは、しばらく島の収容所ですごしたのち、本島の久志に向かった。それ以前から本部に避難していた人びとも加わり、伊江島キャンプが作られた。
 伊江島に戻ることが出来たのは1947年3月のことだ。夏のような眩しい日差しが差し込む中、村民は許田から米軍のLCTで伊江島に向かった。そこで見たのは、一面の焼け野原と滑走路だけだった。屋敷と屋敷の境界も全くわからず、人びとは米軍のクォンセット・ハットに住み、配給物資を食べながら生活した。
 翌48年8月6日、125tの爆弾を積んだ米軍の輸送船が港で爆発した。島に大量に残されていた不発弾を海上に投棄しようとしているところだった。107人が死んだ。

 米軍は射撃場を作るために真謝、西崎の農地を強引なやり方で接収した。ここにある民家の半分近くがいまも施設の中で生活をしている。畑の大半は軍の黙認耕作地となっている。
 1974年7月10日、米軍の演習終了の旗が降りていることを確認した20歳の男性が草刈のために敷地に入った。この行為は従来から黙認されていたにもかかわらず、2人の米兵がトラックで男性を追い回し、信号用銃を発砲し、左手首にけがをさせた。当初米軍はこれを「公務外」のことだとして日本側に裁判権をゆだねていたが、7月29日になって、一転、「公務中」のことだとし裁判権を求めてきた。日米合同委員会で協議したあと、日本は米側に裁判権を認めた。この事件に関する被害者への補償はいまに至るまで一切なされていない。

 滑走路が4本ある。島の面積の35%が米軍基地である。こんなに小さい島なのに。



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