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脱会-山崎浩子・飯星景子報道全記録/有田芳生&週刊文春取材班(1993/12/01)【読書ノート・統一教会資料】

飯干景子、山崎浩子の両人が統一協会という迷宮を脱出するためにはそんじょそこらの推理小説をはるかに凌駕するさまざまな展開があった。本書は「文春取材班」vs統一協会の、激闘の取材ドキュメント。告白手記も収録。

Amazondo読者レビューより引用

統一教会の闇を知る上で必読の一冊
トクダ ミツル:2022年8月28日

非常に面白い内容だ。当時、そう熱心に報道を見ていたわけではなかったからか、山崎浩子については印象が薄かったが、脱会など考えられないほど揺るぎのない信者だった桜田淳子、まだ入りかけだった飯星景子よりも、山崎浩子の脱会騒動こそが、この当時のメインイベントだったことがわかった。なぜこの本が文藝春秋から出版されなかったのかは不明だが、当時の文春の記事内容がそのまま収録されているところも資料として貴重。そして、この頃すでに、今の統一教会のやり方と同じ手法が行われていることもわかった。もちろん霊感商法についても同じ、というかまだこの頃は霊感商法は絶好調だった。俺は知らなかったが、桜田淳子の義兄は霊感商法の会社の取締役として荒稼ぎをしていたし、桜田淳子自身も高価な衣類を信者たちに買わせる役目を果たしていた。
それから飯星景子を統一教会に引き入れた佐藤智春というスタイリスト。現在は血液栄養診断士(バイタルアナリスト)になって著書も何冊も出しているようだが、統一教会を脱会したかどうかは不明である。この佐藤智春は飯星景子以外にも、宮崎ますみ、フリーアナウンサーの石川小百合など多くのタレントを勧誘していたわけだから、脱会していればその件についての謝罪があって然るべきだが、ネットをざっと検索した限りでは、本人の公式プロフィールはもちろん、佐藤智春が統一教会信者だった過去について触れている記事はない。
今年2022年8月10日の統一教会の会見では、田中会長が「過去においても霊感商法を行ったことはない」と断言していたが、この本には1993年初頭、新たに会長となった藤井羑雄が霊感商法被害対策弁護士連絡会に送りつけた内容証明で、統一教会が霊感商法をやっていたことを認めている。本書の中で元信者が話しているように、「教義のためなら平気で嘘をつき通す」のが統一教会という組織だということが改めてはっきりした。                        
そして、忘れてならないのは、この頃の『週刊文春』の編集長は、現在、雑誌挙げて統一教会を擁護している『月刊Hanada』の編集長である花田紀凱だったことだ。


[Ⅰ]発端

山崎浩子が"統一教会顔"に
空振りに終わった日曜日
深夜の遭遇
最初のスクープ
合同結婚式狂騒曲
寝耳に水の桜田会見
統一教会と桜田のウソ
統一教会のマスコミ操作
幻のスクープ
TBSを潰せ
統一教会の隠れ団体が発覚

[Ⅱ]迷宮

飯星景子が入信?
「統一教会? なんのこと?」
飯干晃一からの電話
景子が帰ってきた
脱出への長い道のり
父親をとるか、文鮮明をとるか
親をあざむくマニュアル
シモキタに飛べ!―ある失敗談
迷宮を抜けた日
「勅使河原現る」で激動の年は暮れた

[Ⅲ]救出

会長更迭
動かぬ証拠―桜田淳子が霊感商法
抗議に答える
山崎浩子の姉が動いた
「お姫さま救出物語」に踊るマスコミ
悲恋の演出

[Ⅳ]脱会

山崎浩子からのメッセージ
脱会騒ぎの裏で卑劣な犯罪
桜田淳子の「強制改宗反対」キャンペーン
平成の三大手記、そして記者会見準備
脱会劇のすべて
もうひとつの脱会宣言

[Ⅴ]手記

統一教会という迷宮を脱けて/飯星景子
統一教会も私の結婚も誤りでした/山崎浩子

浩子を許せなかった・憎んだことさえありました/清水紀子

〈信者の誰もが経験する苦しみを浩子はまるで知らず、VIP待遇にあぐらをかいて、平然と広告塔になっていた〉〈三女王などと持ち上げられ、信者たちの 〝心の支え"になっている〉〈その思いが私を今回の行動に駆り立てた〉
山崎浩子さんを奪還した実姉の十ヵ月。
私がなぜ浩子を統一教会から救出したか。妹可愛さの行動と思われている方が多いかもしれませんが、それは違います。
私は浩子を許せなかった。憎んだことさえありました。
統一教会の信者は珍味売りや霊感商法で眠る時間さえ与えられず、体を壊す人も多いと聞きます。ソウルの合同結婚式でも、一般の信者は二、三時間前から真夏のグラウンドに並ばされ、貧血で倒れる人もいたそうです。しかし浩子は最前列で、マスコミに向けて笑顔を振りまいていました。信者の誰もが経験する苦しみを浩子はまるで知らず、VIP待遇にあぐらをかいて、平然と広告塔になっていた。それが私にとって、腹立たしくてならなかったのです。
霊感商法をやっていないから、直接の被害者は生み出していないかもしれません。でも浩子が合同結婚式に出ると表明したのを知って、安易な気持ちで入信してしまった若者が、何人いたことでしょう。しかも "三女王"などと持ち上げられ、信者たちの 〝心の支え"になっているとしたら? そう考えると、彼女は加害者です。私は、居ても立ってもいられない心境でした。その思いが、私を今回の行動に駆り立てたのです。
きれいごとに聞こえるかもしれません。妹可愛さはもちろんあります。でもそれより先に社会的な責任から、私は決意せずにはいられませんでした。
同じ統一教会員である真ん中の妹・和子をおいて、なぜ浩子を?と言われるなら、「浩子が有名人でなく、統一教会のシンボルとして報道される立場でなかったら、放っておいたかもしれない」とお答えするしかありません。妹ですから、和子も浩子も可愛さは同じです。
ここに至る十ヵ月は、私にとっても、家族や親戚にとっても、悩みと苦しみの日々でした。少しずつ思い起こしながら、これまでの経過を綴ってみたいと思います。
事件の発端は、昨年六月二十四日の深夜でした。真ん中の妹・和子からの電話で、私は叩き起こされました。
「お姉ちゃん、浩子から電話あった?」
「ないけど、何?」
「ううん、じゃあいい」
気味が悪かったので、「何なのよ?」と尋ねると、和子の答えは、「いいことよ」というものでした。
親戚や友人、マスコミからはじゃんじゃん電話がかかってきます。最初の三日間で、もうノイローゼのような状態でした。
週間あまりたった七月三日、私たち夫婦は浩子に会うために上京しました。自分たちの力だけで、なんとかなると考えていたからです。
母の葬儀は、姉妹でひとり山崎姓であることから、浩子が喪主でした。位牌はそのまま、浩子が持っていました。浩子の部屋に入ると、位牌の前に両親の写真と並べて文鮮明夫妻の写真が飾ってあります。ぞっとしました。お線香をあげて祈る時、私は目をつぶらざるを得ませんでした。

夫と二人で説得すればわかってもらえると信じて、その日、夕方から四、五時間、話し合いました。統一教会の実態はこうなんだ、霊感商法の被害に泣いてる人がこんなにたくさんいるんだ、文鮮明教祖とはこんなにいかがわしい人物なんだ……
どう説明しても、浩子は、「それは中傷だ、迫害だ」と繰り返し反論するだけ。夫も熱心に言いました。
「まわりの人間のことを考えたことがあるのか。自分一人の問題じゃないんだ。新体操のスクールでも、何百人の子供たちを教えてるわけだろう?そういうことを考えたのか」
しかし、それも無駄でした。全く埒が明かなかった。
それからは、ひたすら勉強の日々でした。自分に何ができるのか見当もつかず、本を読むしかなかったのです。いろいろな資料がありました。ワゴン車で夜の明けないうちから夜中まで、何カ月も休みなく珍味売りをした元信者の手記を読んだ時には、涙が止まりませんでした。
やがて知識が実感を伴って整理されていき、なんて恐ろしい団体なんだという意識が、だんだん高まっていきました。
そんな毎日が三ヵ月ほど続いたでしょうか。いえ、正確に言えば、昼間は勉強、夜は毎晩、夢を見ていました。浩子を説得していたり、文鮮明の顔が浮かんだり、毎晩毎晩、夢を見るのです。
目が覚めると、『ああ、また見てしまった』という感じでした。そして眠れない夜と、こんこんと眠り続ける夜が、交互にやってきます。きっと眠ることで、現実から逃避していたのでしょう。
起きていれば朝から晩まで、考えるのはそのことばかり。やりきれない憤りと、苛立ちの繰り返し。それでも、家のことをしないわけにはいきません。外へ買物に出る時は、ふさぎこんでいる顔を見せたくないために、わざと陽気に振る舞ったりしました。私が浩子の姉だということは近所に知れているし、好奇の目が注がれているのも感じていたからです。

初盆で話し合った霊感商法

それでも親しい友達からは、「立ち姿が全然違う」と言われたものです。家に帰り着くと、途端に力が抜け、元の自分に戻ってしまいます。何度、お風呂を空焚きしたでしょう。台所に立ってガス栓をひねれば、火がついていなくて、ガスだけがシューシュー出ていました。
やがて、八月の初盆がやって来ます。屋久島で、和子、浩子を呼んで話し合いました。珍味売りや霊感商法の話をして、「こういう実態があるのよ」と。でも二人は、すべて聞き流してしまう。怒りが高じ、涙を流して詰め寄りました。
「信仰だ信仰だって言うけど、あんたたちは珍味売りやったことがあるの?霊感商法やったことがあるの?朝四時から起きて夜中まで働いて、体を壊したことがあるのか!信仰だって言うんなら、あんたたちもそのぐらいしなさいよ!」
聞く耳もたないとはこういうことか、と思いました。
「教義は〝夫婦は仲良く"とか"家庭を大事に"ってことなのよ」などと平然と言うのです。
「じゃあ、私のこの状態は何なの?私は家族じゃないの?これが家族の崩壊じゃなくて何なのよ!」
すると、「そんなこと言われたらおしまいだけどサ」と二人で顔を見合わせ、ヘラヘラッと笑うのです。
『これは駄目だ。私がこれだけ涙を流して訴えているのに……』
なんとかしなければいけないという気持ちを固めたのは、その頃でした。
八月二十五日の合同結婚式には、黙って送り出すしかありませんでした。諦めるしかなかったのですが、私は『飛行機が落ちてしまえ』とまで思いました。『これだけ世の中に迷惑かけてるんだから、みんな死んでしまえばいい』と。
合同結婚式が終わっても一筋の希望があったのは、統一教会に子供をとられて戦っているたくさんの親御さんや、脱会者の人たちと知り合えたからです。統一教会の何が問題なのか、実態はどうなのか、意見や情報を交換し、同じ痛み苦しみを抱えた者同士、慰め励まし合えたことが、大きな支えになりました。
『世の中にはこんなに大勢、苦しんでいる人たちがいる。しかも私以上に。居場所さえわからない子供が帰ってくるのを、何年も待ち望み、決して諦めない親の愛情。姉である私に、ここまでできるだろうか』
思いは複雑に絡み合い、挫けそうになることもありました。
杉本誠牧師にお会いしたのは、九月の終わりのことです。二人の子供の手を引き、電車を乗り継いで、教会へ向かいました。
途中、道に迷ったので三時間半もかかってしまい、辿り着いたのは、ちょうどお祈りが終わるところでした。息を切らせて礼拝堂に入ると、杉本牧師のこんな声が聞こえます。
「さまざまに苦しんでいらっしゃる方に、神のお恵みがありますように」
瞬間、溢れ出した涙を、私はどうにも止めることができませんでした。
『この方なら、私の苦しみをわかってもらえる』
そんな直観がありました。涙が頬を伝うのもかまわず、一方的に思いを聞いていただきまし、統一教会について得た知識を、涙ながらに一所懸命まくしたてました。釈迦に説法ならぬ牧師に説教というわけですが、『私はここまで勉強しました。これだけのことを知っています。私はこんなに必死なんです。だから助けて下さい』と、無意識のうちにアピールしていたのだと思います。
しかし杉本牧師の口から、救出するという言葉は出ませんでした。
浩子との連絡は、途切れないように続けていました。逃がしたらおしまいという意識があったからです。統一教会への批判が口をつくのを抑え、電話口で無理に冗談を言ったり、「今日は学校の運動会があってこうだったんだよ」などと世間話をしてみたり。
そうこうするうち、披露宴の話が出てきたりもしましたが、「一周忌が終わるまで、その話はしないでちょうだい」と逸らしたのです。

「正気じゃないよ、お前は」

「結婚を認める」とは口が裂けても言えないから、気を遣う会話でした。彼女をつなぎ止めるという義務感だけで、嫌々ながら電話を続けていたようなものです。
脱会の話し合いをしようと決意を固めたのは、年が明けてからです。
『私の気持ちをわかってもらうためには、彼女自身が本来の自分を取り戻すためには、時間をかけた話し合いが必要なんだ。それも、誰にも妨げられることなく……』
幸い、叔父と叔母の理解と協力を得ることができました。「仕事を辞めてくれ」などとは頼んだりはしません。二人は事の重大性を理解して、進んでそうしてくれたのです。おかげで、ずっと夢に見続けたその日”が実現しました。
三月七日。浩子、叔父、叔母との話し合いが始まりました。用意した本、資料を積み上げ、次から次へと浩子に質問を浴びせました。霊感商法や珍味売りなど統一教会の経済活動の実態、合同結婚式の矛盾と差別、『原理講論』への数々の疑問。
みんなが真剣でした。話し合うことは山ほどありました。議論が深夜三時にまで及んだ日もあります。しかし一週間たっても、議論は交わることなく、平行線をたどるばかり。
『やはり、統一原理にも聖書にも詳しい方に手伝ってもらって、一緒に勉強するしかない』そこで、杉本牧師にお願いすることになりました。これは、浩子から求められたことでもあったのです。この時点で、私の十ヵ月に及ぶ戦いは、山場を越えていたのかもしれません。
幼い頃から浩子は体が小さくて、体力のない子でした。あの子が小学校一、二年の頃のことでした。夕ご飯を食べていると、一日の疲れが出るのでしょうか、お箸を持ったまま途中で眠ってしまうのです。しばらくそのまま寝かせておきますが、八時頃になると母が、「はい紀ちゃん、連れてって」と言います。小学校五、六年だった私は、彼女をおぶって布団に運ぶのが日課でした。
思えば"家族"というものをここまで突き詰めて考えたのは、これまでの人生で初めてだったような気がします。
私にも夫と、小学校二年と四年になる二人の子がいます。悟られまいとしながらも、苦しみは顔に出ていたのでしょう。「お母さん、また怖い顔してる」と何度も言われました。
学校の話をする子供に、「お母さん、僕の話ぜんぜん聞いてないでしょう?」そう責められたこともあります。
去年の六月から十ヵ月、私はこのことだけを思い詰めてきました。先のことを考えると恐ろしくて、目をつぶったまま走ってきました。どうしたら、この精神状態から解放されるのか?もう投げ出そうと考えたことさえ何度もあります。だけど浩子を救うことでしか、私自身が救われないのは明らかでした。
夫の清嗣と衝突したことも、一度や二度ではありません。聖書を投げつけられたことさえありました。

「自分の家庭を犠牲にしてまで、やる必要があるのか。子供の将来も考えてくれ!」
昨年の三月に母が亡くなり、私は四十九日がすむまでの二ヵ月、家を留守にしました。その間、夫の母に家と子供の面倒を見てもらっていました。浩子との話し合いに臨めば、また長い間、家を空けることになるかもしれない。もう一度、夫の母に頼むのは、嫁の立場として辛いものがあります。最後まで決断のネックになったのは、実はそのことでした。
しかし子供たちのことを思うからこそ、私は心に決めたのです。
『今、何もやらないことは罪だ。一生後悔するに違いない。そんな生き方をする親の姿を、子供たちに見せたくない』
結局、夫は黙認せざるを得なかったのでしょう。
「正気じゃないよ、お前は」
後は何も言いませんでした。

三月六日に浩子と家を出る前、子供たちと話しました。
「お母さん、またしばらく留守にするけど、大丈夫?」
「うん」
「おばあちゃんに来てもらうけど、平気だよね?」
「しつこいな、お母さんは!大丈夫だよ」
あの日から今日まで、一度も家に帰っていません。電話をかけたのも、数回だけです。それも、子供が受話器を取らないと決まっている時間を選んで。子供の声を聞いたら、私はきっと駄目になる。それがわかっていたからです。

再び社会の扉を開く浩子

母が生きていたらどうだったろうと考えます。一周忌にも出られず、こんな問題が起こらなければ、亡くなったばかりの母のことをもっと思ってあげられたのに……と考えると、可哀相な気がしてなりません。でも母がいないから、親戚が力を合わせたし、私もここまで頑張れたような気がするのです。
この十ヵ月は、苦しみの日々であったと同時に、いろいろな方々との出会いの連続でもありました。たくさんの人のお世話になり、迷惑をかけました。誰もが自分のことのように心配し、励まし、協力してくださいました。心の底から感謝しています。ありがとうございました。私の行動を認めてくれただけでなく、結果的に矢面に立たせることになってしまった夫・清嗣にも、やはり感謝しなければなりません。
浩子は再び、社会の扉を開くことになります。今までは「私は知らなかった」ですみました。でもこれからは違います。どんな思いで自分の誤りを受け止めたのか。これから先、傷をどう癒していくのか。世の中にどう理解してもらうのか。浩子が自分をしっかり見つめ、強く生きていくことができるよう、私は見守っていくつもりです。
(一九九三年六月十三日号)


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