500日継続を目前に、改めて書く目的を考える
川口市出身の自称読書家 川口竜也です。
何だかんだnoteを連続更新し続けて、もうすぐ500日達成が目前となってきた。500日も毎日継続したことに対して、他ならぬ自分が一番驚いている。
継続すること自体は良いことである。私自身、書き続けたからこそライターになれたようなものだし、継続力とか毎日自分に◯をつけるという点では、やるべきだとも思う。
だけど最近思う、それは何のために?と。
記事というものは、自分が読みたいと思うものを書けばいい、と言う。
自分の記事の一番の読者は他ならぬ自分なのだから、自分が何度も読み返したくなる記事を書くべきである。
でも最近、自分自身がふと読み返したくなる記事が書けているかと思うと、ちょっと微妙である。ないことはないけれども、昔と比べて断然数は少なくなった気がする。
その自分が読みたいと思えるような記事を書かなくて、何が500日継続達成かって。いつから自分の記事は、情報の寄せ集めのような記事になってしまんだって。
ただの情報の寄せ集め記事なら、正直私以外の人でも書くことはできる。
事実ライターとしての仕事は、業界や種類を問わなければいつでも募集している。こう言っちゃなんだが、代わりはいくらでもいる。
だからこそ、最後に問われるのは「私にしか書けないものを書く」ことである。ライターとしても、言葉を紡ぐ人としても。
果たして私は、私にしか書けないものを、500日継続更新して紡ぐことができたのだろうか。
正直、わからない。
そもそも私の言葉が本当に届いているかということを、確かめる術がない。
フォロワーや閲覧数も徐々に増えているのは事実。だけれども、それが相手の心に残る記事であったか、また読み返したいと思える記事であるか、それを測ることはできない。
第一、一番の読者であるはずの自分が、川口竜也の記事を何度も読み返しているかって、思ってしまうことがある。
お前は、継続することにとらわれているのではないかって。
本来の目的である、「誰かの心に言葉を届ける」ということを、忘れているんじゃないかって。
だから「自分が書きたいものを書こうと思ったときに、更新するようにします」と言う人がいるんだなとは思う。
更新するために書くということが、noteを書きはじめた目的から逸れるのならば、無理して執筆する必要はない。少なくとも継続したという事実は、自分の中で失われはしないのだから。
自分が読みたいと思えるような言葉を紡ぐために、自分が読みたいと思えないような文章は書かないということは、考えなくても当然なことである。
でも、私の記事は、言葉は、これまで書いてきたものは、決して価値のないものではなかったと信じたい。
確かに、私自身記事をしたためた後、そんなに読み返さなかった記事もある。今日の継続のために、とにかく書いたという記事もある。
だけれども、それにスキを押してくれた人がいる。
自分の記事に、何かしらの読む価値を感じてくれた人がいる。
例え機械的に押しているのだとしても、私の記事を待ってくれる人がいる。
私の記事を、言葉を楽しみにしている人が、確かにいる。
だから私は、これからも毎日更新を続けようと思う。
こうやって何度も軸がブレるかもしれない。自分が言葉を紡ぐ目的を、いつの日かまた見失ってしまうかもしれない。
それでも、私は書き続ける。
誰かの心に言葉を届けるために。
それではまた明日!
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