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500日継続を目前に、改めて書く目的を考える

川口市出身の自称読書家 川口竜也です。

何だかんだnoteを連続更新し続けて、もうすぐ500日達成が目前となってきた。500日も毎日継続したことに対して、他ならぬ自分が一番驚いている。

継続すること自体は良いことである。私自身、書き続けたからこそライターになれたようなものだし、継続力とか毎日自分に◯をつけるという点では、やるべきだとも思う。

だけど最近思う、それは何のために?と。

僕の文章は、ただ次の文章を埋めるためだけの文章だった。……だが僕は、どう読まれるかだけを考えるようになっていた。「自分がこう書きたい」と思う文章が、まったく浮かばなかった。

西加奈子「サラバ! 下巻」174頁より抜粋

記事というものは、自分が読みたいと思うものを書けばいい、と言う。

自分の記事の一番の読者は他ならぬ自分なのだから、自分が何度も読み返したくなる記事を書くべきである。

でも最近、自分自身がふと読み返したくなる記事が書けているかと思うと、ちょっと微妙である。ないことはないけれども、昔と比べて断然数は少なくなった気がする。

その自分が読みたいと思えるような記事を書かなくて、何が500日継続達成かって。いつから自分の記事は、情報の寄せ集めのような記事になってしまんだって。

ただの情報の寄せ集め記事なら、正直私以外の人でも書くことはできる。

事実ライターとしての仕事は、業界や種類を問わなければいつでも募集している。こう言っちゃなんだが、代わりはいくらでもいる。

だからこそ、最後に問われるのは「私にしか書けないものを書く」ことである。ライターとしても、言葉を紡ぐ人としても。

果たして私は、私にしか書けないものを、500日継続更新して紡ぐことができたのだろうか。

正直、わからない。

そもそも私の言葉が本当に届いているかということを、確かめる術がない。

フォロワーや閲覧数も徐々に増えているのは事実。だけれども、それが相手の心に残る記事であったか、また読み返したいと思える記事であるか、それを測ることはできない。

第一、一番の読者であるはずの自分が、川口竜也の記事を何度も読み返しているかって、思ってしまうことがある。

お前は、継続することにとらわれているのではないかって。

本来の目的である、「誰かの心に言葉を届ける」ということを、忘れているんじゃないかって。

だから「自分が書きたいものを書こうと思ったときに、更新するようにします」と言う人がいるんだなとは思う。

更新するために書くということが、noteを書きはじめた目的から逸れるのならば、無理して執筆する必要はない。少なくとも継続したという事実は、自分の中で失われはしないのだから。

自分が読みたいと思えるような言葉を紡ぐために、自分が読みたいと思えないような文章は書かないということは、考えなくても当然なことである。

でも、私の記事は、言葉は、これまで書いてきたものは、決して価値のないものではなかったと信じたい。

確かに、私自身記事をしたためた後、そんなに読み返さなかった記事もある。今日の継続のために、とにかく書いたという記事もある。

だけれども、それにスキを押してくれた人がいる。

自分の記事に、何かしらの読む価値を感じてくれた人がいる。

例え機械的に押しているのだとしても、私の記事を待ってくれる人がいる。

私の記事を、言葉を楽しみにしている人が、確かにいる。

だから私は、これからも毎日更新を続けようと思う。

こうやって何度も軸がブレるかもしれない。自分が言葉を紡ぐ目的を、いつの日かまた見失ってしまうかもしれない。

それでも、私は書き続ける。

誰かの心に言葉を届けるために。

それではまた明日!

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