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気がつけばお寺の住職⑨

この話も長くなってきましたので、年表風にまとめてみました。

2004年 あるお坊さんの話を聴きました
2007年 伊豆にある老師のお寺で坐禅と出会いました
2010年 得度してお坊さんになりました

得度の前後で変わったこと。

宗慧(そうえ)」という名前をいただき、
以来、老師からも兄弟子からも近所の人たちからも「そうえ、そうえ」と呼ばれています。

•••それくらいでしょうか。

厳密にいえば、伊豆のお寺を訪れる頻度は増えましたし、作務や坐禅の時間も増えました。
摂心のようなイベント事には、最優先で参加しなければならなくなりました。

でも、肉も食べれば、タバコも喫います。
これは今でも変わりません。。。

相変わらず会社で働いてもいました。

ふと、思いました。

自分にとって•••
お坊さんは趣味だな

これは自虐的な意味ではなく、むしろ、われながら「高尚ないい趣味」だなという意味です。

得度から約半年、ちょうどこんなことを思って自己満足に浸っていた頃、

東日本大震災

が起きました。

当時、ある会社で事業部の責任者をしていて、300人くらいのスタッフがいました。

オフィスは東京と大阪と鹿児島でしたので、幸い直接的な被害はありませんでした。

ただ、スタッフのうち2名が仙台に出張に行っていました。

無事を確認するために急いで連絡をとろうとしましたが、とれず、その日の夜中にやっと連絡がとれました。

2人とも無事で、今は避難所にいること等を聞いて、ひとまず安堵しました。

それとは別に、岩手の友人が、たまたま家族で東京に遊びにきていたが、帰れないし、ホテルもとれないという連絡がきました。

急いで、自分の部屋を片付け、友人家族に使ってもらい、自分はオフィスで寝泊りしました。

それから、仙台にとり残されていたスタッフが戻ってきたのが3日後、岩手の知人が帰っていったのが1週間後、原発の問題、年度末決算と来期予算への対応、業績評価、被災地にいる友人たちへの支援、新入社員の入社•••等々、あっという間に1ヶ月が経過しました。

この間、お坊さんであることも何も忘れ、とにかく目の前のことに対応していくのに必死でしたし、それでいて何かソワソワするような変に落ち着かない気分だったのを憶えています。

書道教室に行きたい

突然、行きたくなりました。

得度してすぐ、字を書く機会も増えるかも?と思って、銀座にあった書道教室に、月に数回、通うようになっていました。

しばらく行ってなかったからか、ソワソワした気分をなんとかしたかったのか、よく分かりませんが、無性に行きたくなりました。

そうはいっても、仕事がなかなか終わらず、結局、夕方になって、仕事の合間に行くことにしました。

久しぶりの書道教室。
いつものように道具を借り、墨をすり、先生からお手本をもらって、1時間、ただただ字を書きました。

1時間があっという間に感じました。

帰り際、先生に挨拶にいくと、机の上に募金箱が置いてあるのに気づきました。

東日本大震災で被害に遭われた方たちのために募金をお願いしていて、募金を入れてくれた方には、その場で先生がお礼に字を書いているんだと教えてくれました。

自分も募金に協力させていただきました。

先生から、「どんな字を書きましょうか?」
と尋ねられ、「お任せします」と答えました。

そして先生が書いてくれたのが、

雪とけて
村いっぱいの
子どもかな

これが誰の作なのかも、当時の自分には分かりませんでしたが(後で小林一茶の句だと知りました)、先生のこの書を見たとき、自分でも不思議なくらい感動しました。

正確には、なぜか涙が溢れてきて、自分がすごく感動しているんだと知りました。

言葉なのか、書なのか、はたまたその両方なのか•••なぜか涙が止まりませんでした。

こんな体験は生まれて初めてでした。

そして、何かが変わったような気がしました。

いただいた書をもって、オフィスへの帰り道、いろいろなことを考えました。

それまで、感じていたそわそわした気分はいつの間にかなくなっていました。

そして、

なぜ、自分は、今、ここで、
こうして生かされているんだろう?

そんなことをグルグルと考えていました。

ちゃんと生きなきゃいけない
ちゃんと生きなきゃ申し訳ない

それが結論でした。

そして、

2011年4月
お坊さんとしてちゃんと生きよう


そう決めました。

なぜそう決めたのか•••
今でも分かりません。

宗慧

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