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動中静

昨日から伊豆の本山に来ています。

これからの季節は雨が多く、気温もあがりますので、植物にとっては一番の成長期です。

その分、お寺は「草刈り•草取りシーズン」の真っ最中です。

今回はそのお手伝いがメインで来ました。

いつものことですが、本山に着くと、自分の部屋に行き、まず掃除をします。
しばらく留守にしていましたので、空気の入れ替えとたまったホコリをはらいます。

それから持ってきた荷物をひろげます。
荷物といっても着替えだけですが。

そして•••坐ります(坐禅です)。

基本的に、出張や旅行に行っても、宿泊先ではまず坐るようにしています。

なんといいますか、場になじむための儀式のようなものでしょうか。

昨日も、いつものルーティンとして坐っていましたが、一つ感じたことがあります。

静かなんです

とにかく静かなんです

静かというのは決して「無音」という意味ではありません。

昨日は夕方から小雨が降っていましたので、雨音は聞こえてきます。

ただ、その雨粒が庭の池にぶつかる音が聞こえてくるくらいに周りが静かなんです。

確かに、お寺は南伊豆の山の中にポツンとあって、周りに民家もありませんし、テレビもありません。人も老師と兄弟子が多いときでも3、4人いるくらいです。

静かなのも当然といえば、当然なんですが、昨日は今まで経験したことがないくらい静かに感じました。

考えてみれば、今は主に東京に住んでいて、しかもマンションは首都高速のすぐそばですので、そういう環境に慣れてきたからこそ感じる静かさなのかもしれません。

ただ、何となくですが、外の静かさだけでなく、自分の内側、心の部分が、今まで以上に、静かなように感じました。

動中静

昔から老師によく言われる言葉です。
(自分はお寺では、比較的、熱心に?坐るタイプだったと思いますので、そんな自分に対する戒めとしての言葉です)

静かな場所で、坐ることで、心が落ち着くなんていうのは初歩の初歩で、一人前の禅僧なら、どんなに騒がしい場所であってもどんなに慌ただしい状況であっても、心だけは静かに落ち着いていなきゃいけない•••という教えです。

昨日、この言葉の意味を改めて実感しました。

それは、自分が今、禅僧として初歩の初歩の、その入り口に立っているんだという実感です。

え、いまさら!

•••という思われるかもしれませんが、自分の中では、そんな感覚は全くなく、どちらかというと、ちょっと嬉しいような気持ちでした。

今の自分が何者で、どこにいるのかを教えてもらった安心感とでもいうのでしょうか。

確かに、ちょっと嬉しくて、ホッとしたような感覚でした。

南伊豆の山の中。
今、自分は、ここで坐っています。

宗慧

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