馬杉温泉のこと

旧 日本温泉文化研究会HP「研究余録」2013年6月10日記

江戸時代中期の京都の医師香川修庵が『一本堂薬選続編』(「温泉」項)で示し、それをほぼ踏襲する形で八隅蘆庵が『旅行用心集』に掲げた全国の温泉地約300箇所は、江戸時代中期から後期に於けるその全体像を知る上で一定の手がかりを与えてくれます。何処に、何という温泉が所在したのか。もちろん、修庵自身が同書中で告白しているように、ここで採り上げた温泉場の中には、彼が実際に訪れた場所の他に、門人や出入りの諸国商人からもたらされた伝聞情報に基づき掲載された所が、少なからず含まれています。『諸国温泉功能鑑』の類に比べれば、言うまでもなく信用度は高いのですが(いわゆる「温泉番付」は、番付が下がるにしたがっていい加減な記述も見られるようになります)、このような掲載事情にかんがみるなら、研究上その取扱いには当然ながら細心の注意を払わねばなりません。修庵は、関西圏の温泉地以外について、さほど知識がなかったことも考慮しておく必要がありそうです。

『一本堂薬選続編』(「温泉」項)に掲載される中にも、今ではすでに人々の記憶から失われてしまった温泉もあります。「房州之馬杉」もその一つです。『旅行用心集』にも、安房国(千葉県房総半島南部)の温泉地として記録されているのですが、いったいどこに所在したのか、まったく見当さえつきませんでした。房総半島南部の主に内陸部には、硫黄泉のごく小規模な温泉地が点在しているのですが、歴史的には聞きなれない名前です。正直なところ、研究上重要な温泉地とはとても思えなかったのですが、両書に記載があることから、何となく気にはなっていました。

その当時、たしかまだわが家にパソコンはなく、インターネットの利用環境が整っていませんでしたので、種々の地名辞典を調べたり、旧安房国内の自治体(主に教育委員会の文化財担当者)に片っ端から電話をかけ、照会したことを記憶しています。地名には、文書に記録される公的な名称(例えば住居表示用の地名)とともに、特定の地域(コミュニティー)内に限って用いられた地名もあることから、もしやと思ってのことです。ですが、問い合わせたすべての自治体からの回答は、当地に「馬杉」という地名はない、というものでした。中には、「地元の郷土史家や各地区の高齢者十数人に電話で訊ねてみましたが、該当する地名は誰も聞いたことがないそうです」と、申し訳なさそうな声で回答のお電話をくれた文化財担当の方がいて、さすがにこれには恐縮してしまい、受話器を耳に当てながらひたすら低頭していました。

『一本堂薬選続編(温泉)』等が記す「馬杉」温泉がどこにあったのか、結局根拠ある確定はいまだ出来ていません。ですが、おそらく千葉県南房総市(旧:三芳村)に所在する「真杉鉱泉」(※貯湯槽のみ所在し「真杉鉱泉」の名称と共に所有者らしきお名前が書かれていました)が、「馬杉」に通じるのではないかと考えています。だとすれば、読み方は「うますぎ」ではなく、「ますぎ」ということになるわけです。

ただし、江戸時代の温泉名は、そのほとんどが村名か字名を冠するはずなのですが、近所の一軒家を訪ねご主人に伺ったところ、この辺りに「ますぎ」「真杉」「馬杉」という地名は、公的にも地域的にもないそうです。また真杉鉱泉については、誰か所有者がいるらしいこと以外、名前の由来も含めて何もご存知ないとのことでした。そのお宅の庭には池があり、時々硫黄の臭い(硫化水素臭)がするということですから、今も温泉が湧出する地域であることは間違いなさそうです。

この「真杉鉱泉」から歩いてほんの数分の所に「増間温泉跡」があります。現地に建てられている案内板には、「増間温泉跡 房陽郡郷考によると、増間郷に三杉と言う温泉があり、皮膚病に特効があり、多い日は百五十人も近隣の郷村から押し寄せたとある。吉野勇助先生のお話によると、大正十二年の関東大震災の時に、湯王権現を祭る湯元に大きな爆発音がして白煙を吹き上げたが、以後水が出なくなり、僅かに湯元を潤す程の水量で温泉には水が来なくなり、自然に閉鎖されたと言う。昭和四年十一月吉日 増間区」(原文読点なし)と書かれていました。案内板自体は比較的新しいもので、『房陽郡郷考』なる書物は未だ披見していませんが、これによるなら、増間温泉は元「三杉」温泉と称していたことになります。馬杉、真杉、三杉、そして増間。微妙な差ではありますが、やはり「馬杉」をここだと断定する材料としては、残念ながら乏しいと言わざるを得ないようです。隔靴掻痒というのは、こういう事を言うのでしょうか。訪れた時には、「増間温泉跡」にも白濁した水たまりが出来ていました。

【附記】2020年9月29日記                      後ほど、ツイッターに真杉鉱泉と増間温泉跡の写真を貼っておきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?