講座『日本温泉史概論』第Ⅰ期 古代中世篇 序説:温泉史の見方

2022年5月8日(日)
講座『日本温泉史概論』第Ⅰ期 古代・中世篇
   序説:温泉史の見方

≪はじめに-序説の目的とその前提≫
◎笹本正治氏(長野県立歴史館 特別館長)が2021年12月15日(16日)にFacebookへ投稿された「歴史の見方」の内容を検証しながら、これからの「温泉史の見方」について考える。

SNSに於ける個人の発言に基づく議論の適否 ⇒ 近年、特定の個人によるFacebook等SNSに於ける発言が、時に公的(正式)なものとして取り上げられつつあることを踏まえ、笹本氏の投稿も同様の意図(例えば文末近くの「私たち長野県立歴史館は歴史事実を大切にしたい」という発言などから)を有すると判断した。
    *以下、笹本氏の発言は太字で示す。
「歴史の見方」の内容批判は全くの目的外。この記事は、現在の温泉史研究が置かれている2つの深刻な状況を明確に物語るがゆえに、テキストとして利用。

1,「歴史の見方」におけるNHKの番組批判
-「武将温泉~名将の陰に名湯あり~」-NHKBSP 2021年12月11日19:30放送

*講師(伊藤のこと、下同じ)はNHKのテレビ番組「武将温泉~名将の陰に名湯あり~」を視聴していない。2022年5月7日現在、NHKアーカイブズにはなし。ただし、番宣あり(2022年5月8日確認)

① 根拠のない「通説」「定説」に迎合することへの批判
私が講演をして常々思うのは、歴史好きの人の中には自分の知っている知識がすべてで、それを事細かに解説してくれると良い講演、自分の知っている知識と異なると悪い講演と考える人が多いということである。
上記の信玄についてだけ触れると、山梨県や長野県などには武田信玄の隠し湯という温泉があるが、史料的に裏付けられたものではない。

② ここで「大学教授」が登場 *氏名や勤務校など特定できる情報なし。ただし、NHKの番宣によれば東京大学史料編纂所の本郷和人氏。
NHKが大学教授の説明を利用して、温泉を権威づけるのはいかがなものかと思う。

では、何故このような“迎合現象”がおこるのだろうか、その想定される理由。
■ 温泉史の見方(その1):今も経済活動を続ける温泉地(1)
   -都合のよい「伝承」と不都合な「事実」-
現在行われている評論家や一部の大学教員・マスコミ等による温泉の歴史記述の背景には、現在もその温泉地に於いて経済活動が営まれているという、現実的な了解があることに留意。
 a:武田信玄の隠し湯 ~ 歴史性の根拠 ~ 温泉地への斟酌、否定しない
 b:ハンセン病等の特定の疾病、差別事象 ~ 温泉地が嫌う、関説しない
 c:廃止された温泉地についての言論 ~ 自由ではあるものの、対価の不在

③ 笹本正治氏による結論としての「歴史の見方」(文末)
私は多くの人がそう思っているからといって、多くの人に迎合することをしていきたい とは思わない。/少なくとも、史料を書かれた時代の中でしっかり読み解いて、事実を 確定していくことが、私たちの役割だと考える。
  ⇒ まさに正論
ただし、いわゆる「日本史」では時代や様々な課題についての豊富な研究の蓄積が認められることから、事実と創作の区別が一般市民にも比較的つきやすい。
一方、温泉史の研究者は前近代に限ってみれば皆無 ⇒ 評論家や創作家の発言優位。

2,「歴史の見方」における「偽文書」について

他のところに出てきた古文書には龍の朱印と信玄の花押がともに捺されており、文字も内容も明らかな偽文書である。/NHKともあろうものが写しと称して、信玄の温泉の理由付けにしてもよいものだろうか。また、河内領のような、他人の領知に信玄が勝手に入ることができたのかも説明せなばならない。

【スライド①】永禄4年(1561)9月28日附「武田・・・」(某温泉 某旅館所蔵)
      *あまりに稚拙な偽文書で、講師にはこの文書が読めません。
(※ この偽文書、講義では提示しましたが、note版では省略します)

何故このような稚拙な偽文書が作られたのだろうか、名湯の証明以外にその想定される理由。
■ 温泉史の見方(その2):今も経済活動を続ける温泉地(2)-権利の証明、偽文書
   -温泉は誰のものか 作られる「事実」-
明治以降の温泉権をめぐる混乱の中で、泉源の所有権を主張する根拠となるもの。

【参考文書①】天文17年(1548)9月15日附「穴山信友判物」
  清水市史編さん委員会編『清水市史資料 中世』(吉川弘文館、1970年)506号文書
   同書では「あきらかに偽文書とみられるものも収録し」ている。
我朝国家乱て国不治、四隣江敵構江、開戦」都度勝不勝之刻負傷者不少、熊野神社の」霊湯入浴負傷之者、即功有りて神妙不思議之」浴湯也、武田晴信思召され、軍備霊湯人命を」助け隠し湯とし除地永壱貫三百文被下置者也
  附タリ 他国人ハ入浴禁ベシ
 天文十七<戊/申>年○(朱印)          信友(花押)
   九月十五日
                        石部宮内左衛門殿
      (山梨県西八代郡下部町下部 石部尚家(源泉館)現蔵)

3,「歴史の見方」における永禄4年「武田家朱印状」の解釈をめぐって

『山梨県史 資料編4 中世1 県内文書』(山梨県、1999年3月)417頁293号文書
【スライド②】永禄4年5月10日附「武田家朱印状」(恵林寺文書)(釈文)
河浦湯屋造」営本願之㕝、」如先々可令勧」進之旨、自寺」中評定衆可」有下知者也、仍」如件、
  永禄四<辛|酉>
   五月十日○(龍朱印)
   恵林寺

この文書は一騎打ちで有名な第4回川中島合戦に備えて、負傷者のための温泉を整備したものだと解説されたが、私にはどうしても納得できない。現代の視点で戦国時代の古文書を解釈してもよいものだろうか。/この文書を訳すと、
河浦(山梨県山梨市三富川浦)に湯屋を造営したいという本願については、先々の如く勧進によって造営するよう、寺中評定衆から下知にせよ。ということで、この如くである。/ということであろう。

では、笹本氏によるこの文書の解釈は…
■温泉史の見方(その3):思い込みに要注意-温泉文書の解釈には温泉史の知識が必要

笹本氏は、河浦湯屋を「斎戒沐浴の場」とし、「中世では湯浴みは宗教行為としての意味が大きく、恵林寺が造ろうとしていたのは現代人の理解する楽しむ温泉施設と同じではない」と言い切り、「本願」を「宗教行為」とした上で「恵林寺はこれ以前から湯屋を造りたいと願っていて、武田家に勧進の保証をしてもらおうと働きかけ、それに応じたのがこの文書だったのであろう。」「要するに、宗教的な寄附行為によって湯屋を造るよう、寺中の評定衆から下知するようにというのが内容である」と結論する。また、以下のように念押しをしている。
宛所、内容からして、差し迫った戦争の負傷者のための湯屋などとは到底いえない。
 文面からして、武田信玄が川中島合戦用に温泉を用意したなどとは解釈の飛躍である。
 中世の温泉は現代人が意識するゆったりと楽しむ湯とは異なる。

◎ところが、この飛躍的誤解釈は既に『日本歴史地名大系 山梨県の地名』(平凡社)でも採られている。
【引用①】(Japan Knowledgeより)
川浦温泉 かわうらおんせん
[現]三富村川浦
湯の平にあり、旧秩父往還付近の笛吹川沿いに位置する。永禄四年(一五六一)五月一〇日の武田信玄印判状(恵林寺文書)に「河浦湯屋造営本願之事」とみえ、当時河浦の湯は恵林寺(現塩山市)領にあったと考えられ、また武田信玄が同寺宛に河浦の湯屋造営を下知したのは、同年九月の川中島合戦に備え、あらかじめ負傷者を温泉で治療させる準備を行ったものともいわれている。江戸時代には一般に逆上に効あるとして知られた(裏見寒話)。(○下略)

◎笹本氏の解釈は、中世の温泉に対する大きな誤解に基づくもの
⇒中世の温泉は、これまでの数少ない研究からもわかるように、修行の場などではけしてなく、療養・静養、時として遊興の場となっていた。
   温文研編『論集【温泉学】』所収の柘植論文、北村論文ほか。
⇒あるいは笹本氏の解釈には、折口信夫的「湯」すなわち「斎」論が下敷きにあるのか。
湯屋は「斎屋」とも書き、浴場のある建物であるが、特に社寺などに参籠するとき、斎戒沐浴や休息するための建物である。/あるいは湯に入ること自体が修行である
⇒寺院境内地内や結界された参籠所等に所在する「浴室」(禅宗では七堂伽藍の一。三黙道場の一)ならともかく、温泉地の湯屋がこのような機能を担った事例はない。

◎そこで本文の検討:充所は「恵林寺」
河浦湯屋造営本願之㕝、如先々可令勧進之旨、自寺中評定衆可有下知者也、

疑問(1):「要するに、宗教的な寄附行為によって湯屋を造るよう、寺中の評定衆から下知するようにというのが内容である
⇒ 誰に、或いはどこに「下知」(上部組織から下す指示や命令)するのか。
 勧進するのは誰か、ということ。笹本氏の解釈では恵林寺となるが…

疑問(2):なぜ「勧進」による造営なのか。笹本氏の解釈は「本願」も「勧進」も宗教的営為であり、「要するに、宗教的寄附行為によって湯屋を造る」ことを保証してもらうのが、この文書の発給を恵林寺が武田家に求めた理由だった、と。

◎しかし、上記の解釈には、いくつかの大きな誤解が含まれている、と考えざるを得ない。

◎再び、本文の検討:充所は「恵林寺」
河浦湯屋造営本願之㕝、如先々可令勧進之旨、自寺中評定衆可有下知者也、

⇒歴史の中で「本願」と「勧進」からすぐに連想されるのは~「本願上人」と「勧進聖」のこと。
●大谷めぐみ氏の研究によると「本願」とは
「中世後期以降近世初期にかけて諸国の寺社組織内に成立する、所属寺社の造営・修復に関わる実質的な運営管理や勧進を専門的に担った寺坊組織、またはその住持(本願上人)などの宗教者」で「臨時的に勧進活動を請け負った本願」もいた。
 ※大谷めぐみ「寺社造営史における「本願」研究の意義と課題」、『大谷
  大学大学院研究紀要』第23号、2006年。豊島修「寺社造営勧進「本願」
  研究の現状と課題」、豊島修・木場明志編『寺社造営勧進 本願職の研
  究』、清文堂出版、2010年、より引用)

◎つまりこの永禄4年の「武田家朱印状」は次のように解釈するのが妥当

本願(上人)による河浦温泉の湯屋造営(の費用捻出)については、これまでのように(領内での)勧進活動を認めるので、その旨を(寺内経営の実務担当者である)評定衆から本願(上人)に知らせる(下知する)よう(河浦を寺領とする)恵林寺に命じたもの、と。
 ・評定衆が「下知」するのは「本願(上人)」に対して。
    (恵林寺 →) 武田家 → 恵林寺 → 恵林寺評定 → 本願(上人)
 ・では、なぜ「勧進」による湯屋造営であったのか。恵林寺が自ら造営し
  なかった理由はなにか(今後の課題=あるいは当該期温泉の重要な意味
  を包含する可能性も)
   参考)本願による勧進で堂宇の建立・修復をするのは著名な寺社がほ
      どんど。
   ⇒ 戦国の禅宗寺院における境外堂宇建立についての具体事例。寺領の
    性格等。

4,「温泉史の見方」-「歴史の見方」からのまとめ

◎温泉史上の諸事象に関する理解・知識の欠如:研究者でも気付かぬ陥穽
  例えば
  1999年にボーリングにより湧出した天橋立にある温泉を、あたかも中世
  から所在するがごとく扱った論文。某国立大学名誉教授の事例。
◎温泉知識の軽視と不在
  ⇒温泉が身近な存在ゆえに、「知っている感」がより強くなる。
◎温泉史研究を惑わす偽文書や後世の「改竄」「創作」になる史料を見分ける眼力。
  ⇒温泉地の「縁起」などもそんな史料群の一つ。
上記のようなことを、笹本正治氏の「歴史の見方」から学ぶことができた。

≪結論≫
「歴史の見方」が指摘するように、研究者として「史料を書かれた時代の中でしっかり読み解いて、事実を確定していく」こと、すなわち徹底的な史料第一主義と、温泉史の周辺に所在する知識を貪欲に蓄積していくことが、正しい「温泉史の見方」を得るために必要な姿勢と言えそうである。日本温泉文化研究会は、その重責を担う研究者集団として、これからも積極的に活動してまいります! (序説:了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?