「入浴逝者之塔」の造立年

旧 日本温泉文化研究会HP「研究余録」2013年6月26日記

『温泉をよむ』の校正をしていた時のことです。原稿に、草津温泉(群馬県吾妻郡草津町)の光泉寺(真言宗豊山派)境内にある「源頼朝公開創以来入浴逝者之塔」の造立年を「明治33年」と記したところ、編集者がこれを改めて「明治38年」とゲラに書き込んできました。根拠は、光泉寺さんのウェブサイトとのことです。確かに閲覧すると、「明治38年」となっています。慌てて、以前光泉寺さんに参詣した折にいただいたリーフレットを見直したところ、こちらも「明治38年」となっていました。

ただ、私のフィールドノートには「明治33年の供養塔」とはっきり書かれていますし、草津町教育委員会編『草津温泉の文化財』(1998年)の解説でも33年になっています。この供養塔は、草津温泉を訪れるたびに何度も見ていて、その都度写真も撮影しているのですが、そう言われると段々自信がなくなってきました。残念ながら、写真からでは正しく判読できそうもありません。

そこで光泉寺さんに電話をかけ、再度調査させていただきたい旨お願いしたところ、ご快諾いただけたことから、早速、草津温泉へ向かいました。2010年12月のことです。『温泉をよむ』の発売予定日は、翌年の1月17日とすでに決定しています。あと1ヶ月余り、急がなければなりませんでした。

再調査の結果、明治33年で正しいことがわかりました。「入浴逝者之塔」の表面はかなり磨滅して読みにくのですが、「明治参拾参年」と間違いなく彫られています。「参拾参」(彫られている文字は正字)の後の「参」部分には、常用漢字でいう4画目と5画目のみが明瞭に読み取れ、一見するとそれが「八」に思えることから誤ったようです。もしかして、フィールドノートに間違えて記録したのではないかと、とても心配だったのですが、そうでないことがわかり、ようやく安堵した次第です。

温泉史の研究には、ことに江戸時代以降を対象にするなら、古文書や古記録のみならず、このような金石文をも駆使することが求められます。広く目配りして、石造物など史料となり得る素材を見逃さないことが大切だと常々意識しておくことが大切です。ですが、史料を読み間違えては何にもなりません。フィールドワークにも、緊張感が必要なことを、この一件で再認識することになりました。

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