温泉と「癩」

旧 日本温泉文化研究会HP「研究余録」2013年2月19日記

2010年6月に刊行された本会編の『湯治の文化誌 論集【温泉学Ⅱ】』(岩田書院)に、「江戸時代の温泉と「癩病 」-適応・禁忌と泉質・湯性-」という論文を掲載してもらいました。この拙論は、2003年に熊本県の黒川温泉で発生した「アイスターホテル宿泊拒否事件」(黒川温泉事件)に関する私自身の反省を込めて書いたものです。宿泊拒否事件の詳細については、ハンセン病問題に関する検証会議編『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』の「第十八 アイスターホテル宿泊拒否事件」を参照していただきたいのですが(検索サイトで「ハンセン病問題に関する検証会議」と入力すれば、日弁連法務研究財団と厚労省のHPがヒットし、どちらからも全文をダウンロードすることができます)、当時ネット上には宿泊を拒否したホテル側に加担する書き込みがあまりにも多く、憤慨を通り越して唖然とすると共に、人権意識の希薄さに対する恐怖感さえ覚えた記憶があります。にもかかわらずその時、温泉史からの発言がまったく出来なかった。何の行動も起こせなかった。常日頃、自らの研究テーマと密接にかかわる重大な機に臨んで何もできない学問など無意味だと考えていた筈でした。今思えば、反省というよりは、姑息な言い訳だったのかもしれません。

黒川温泉事件以前にも、温泉と「癩」(歴史的用語としての「癩」「癩病」は、ハンセン病およびその症状病態がこれと類似する主に皮膚疾患の総称です。歴史上、この言葉には明らかな差別意識が認められますが、ここでは歴史的用語として用います)に関しては、重大な記憶があります。それは随分前のことですが、某大手旅行代理店で当時流行っていた「講師付きパックツアー」の商品開発を担当していた知人から、「今後は温泉地を商品化したいと考えている。ついては上司や責任者に専門的な見地から温泉についてレクチャーして欲しい」という要望がありました。旅行業界に足を突っ込むつもりは毛頭ありませんでしたので、ツアーの講師にはならないと前置きした上で、引き受けることにしました。学術的な内容、ということでしたので、まあ旅行業界にも温泉の学問的価値を知ってもらう良い機会くらいに考え、某社の本社会議室に向かったのです。話では当然のことながら、温泉と病の関係にも言及しました。ところが、事例として草津温泉の「癩」と「梅毒」患者に話題が及んだその時、責任者が突然立ち上がり、強い口調で「私、そんな温泉には行きたくない!」と言い、その場で一方的にプレゼンを打ち切られてしまったのです。唖然、そして憤慨している私、そんな私に平謝りに謝る知人。今から思えば、黒川温泉事件とどこか共通する非科学的で歪んだ畏怖がその人にはあったのかもしれません。

『湯治の文化誌』が刊行されて以後、何人かの研究者から拙論への批判を口頭で頂戴しました。温泉と「癩」については、改めて考えてみる必要があると思っています。例えば、拙論で冒頭に掲げた「親谷の湯」について。親谷の湯は、岐阜県との県境にほど近い石川県白山市にあり、名瀑「姥ヶ滝」を見ながら入浴できる露天風呂に今はなっています。岐阜県と石川県を結ぶ白山スーパー林道の営業期間中にのみ開放される入浴施設で、初夏から紅葉シーズンには大勢の観光客が訪れ入湯すると、案内してくれた管理人さんが話してくれました。

その親谷の湯ですが、こう名付けられたのはどうやら比較的新しいようで、かつては「どすの湯」と呼ばれていたようです。私が以前に実施した周辺地域(旧吉野谷村)での聞き取り調査でも、地元ではこう呼称されていたことを確認しています。現在も、国土地理院の「電子国土ポータル」で「親谷の湯」を検索し地形図を表示させると、「親谷」の脇に「どす」と平仮名がルビのように記載されています(※私も含め複数の指摘が国土地理院にあったようで、今は削除されています=2020年10月17日補記)。ですが「親谷」は「どす」と読むわけではなく「おやだに」です。国土地理院が作成する地形図の地名や名称は、周辺の住民から「あの山を何と呼んでいますか?」的な聞き取り調査に基づいて名称が付けられているようですから、何らかの事情でこのようなことになったのでしょう。

「どす」とは、「癩病」あるいはその患者を指す言葉です。この用語も、患者を蔑む差別的な要素を含んでおり、かつては東北・関東・信越・北陸地方や岐阜県などで用いられていました。そう、現在の露天風呂は、1974年に新泉源を掘削して造成したそうですが、かつては岐阜県側から多くの癩患者が訪れる湯治場だったのです。昔の湯船、と言っても河原にある大きな自然石の窪みですが、これも残っています(管理人さんの言。事実関係は未確認)。附近に生活の痕跡が何もない白山の山懐ですから、掘っ建て小屋のような建物に寝泊まりしながら、人知れずひっそりと湯治していたのではないかと思います。温泉地が近代になり観光地化していく過程で、そこから排除された「癩病」患者の拠り所になっていたのではないか、と想像されます。このような、隠れた湯治の場と「癩」を患った人々についても、ちゃんと調査研究し、温泉史の中に位置付ける必要があると、今、考えているところです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?