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私たちは成長しながら自己を認識する

自己認識は、予測と行動が根本にあるというのが私の見方です。

私たちの知能は、感知した物事から、未知の部分を予測する機能を備えています。パターン認識やシミュレーションにより、予測や期待をし、当たっていればパターンやモデルを確信します。外れていればこれらを修正します。

生まれたての赤ちゃんの様子を見ると、自分の腕を、はじめから思い通りに動かせていないのではないかと思えます。体の動かし方も、学習していくのでしょう。この際に、そもそも自分が動かすことのできる体を、どのように把握するのかを考えてみます。

恐らく、体はある程度、勝手に動くようになっています。始めは知らないうちに、腕や足の筋肉を動かすためのレバーに相当する脳内の神経を、デタラメに刺激してしまい、筋肉が動いてしまうのです。

それを、脳の予測する能力が学習しようとします。そこで奇妙なことが起きます。脳が予測すると、ある程度、腕や足の動きは予測と同期するのです。

他の予測しやすいものは、通常は単純なパターンやモデルを持ちます。しかし腕や足の動きはカオスです。単純なパターンやモデルには当てはまりません。それにも関わらず、予測と現実が同期します。

わざと今までにない動きを想像してみると、やはり現実が同期します。ずっと動かないことや、急に大きく動くこと、激しくぐるぐると動くこと。パターンや法則のないカオスな動きをしますが、完全に予測ができるのです。これを予測可能なカオス、と私は呼んでいます。

そして、様々な動きに現実が同期することを確認していくうちに、気が付きます。世界の中には、自分の想像した予測の通りに動く部分と、そうでない部分があるということに、です。そして、前者を自己、後者を外界という形で区別します。

これが、予測可能なカオスとしての自己認識の方法だと、私は考えています。

■自己更新と自己マネジメント

自分の身体が自分の想像の通りに動かせることに気がついたあとは、自分の体の動かし方をもっと確認して、限界や細部を把握していきます。

また、単に動かすだけでなく、バランスを取る方法や、力加減をコントロールするといった、動きのマネジメントも覚えていきます。これにより、立ち上がったり物を掴んだりすることができるようになっていきます。

この動きのマネジメントができるようになると、自分の胴体を中心に動かしていた手足を使って、胴体自体を世界の中で動かすことができるようになります。ハイハイや歩行による移動です。

姿勢を変えたり、全身の位置を変える事は、世界に対する自分の変更と言えます。これは自己更新の能力とも言えます。そして動きのマネジメントは、自己マネジメントです。これらも、予測可能なカオスを見つけて増やしていく過程と捉えることができます。このため、自己認識から派生した自己更新と自己マネジメントの能力と言えます。

■外界への介入

また、物を掴む能力により、ボールを投げたり、積み木を積み上げたりして、身体以外の物を動かしたり、バランスを取ったりコントロールしたりできるようになっていきます。

こうして、腕や足を使いこなすことで、自分ではない物の動きのマネジメントができるようになっていきます。自己にしか適用できなかった更新とマネジメントの影響を、自己ではなかった外界へと拡張していく過程です。これにより、外界であったはずの物の中に、部分的に自己が反映されていきます。更新やマネジメントができるものは、外界でありつつ、自己も重なり合っている部分と考える事が出来ます。完全な自己ではありませんが、完全な外界でもありません。

このようにして、自己認識と、その派生である自己更新と自己マネジメントは成長と共に、外界に介入し、その範囲や能力を拡張していくことができます。

■予測と自己認識

この時、予測が自己認識の根底にあるという視点から考えると、自己の動きやマネジメントの自然状態での方向性は、予測の精度を上げることを目指すのではないかと考えられます。

感覚によって知る事の出来る物事の中には、大きく4つのタイプがあります。

1つ目のタイプは予測可能性の高い秩序の部分です。この部分は、脳がパターンを学習したりモデルを把握してシミュレーションすることで、容易に予測することが可能です。

2つ目から4つ目のタイプは、秩序ではなくカオスです。既知のパターンやシミュレーションモデルでは予測できない部分です。

このうち、予測可能なカオスである自己認識された部分が2つ目になります。端的には制御や更新ができる身体や、身体により確実に操作やマネジメントができる外界の物事です。

3つ目は、外界のうち、制御やマネジメントによる介入が可能な部分です。完全ではなくても、ある程度介入できる部分です。そして4つ目は、介入ができないカオスです。

このうち1つ目と2つ目までは、学習が進めば、脳はほぼ完全に予測することができます。3つ目は、介入することで予測可能性をある程度は上昇させることができます。

このため、予測の精度を上げることが自然状態の自己の方向性だとすれば、3つ目のタイプの物事に対しては、積極的に介入して予測可能性を上げようとするはずです。また、介入可能な度合いを向上させることでも、予測の可能性を上げることができますので、その度合いを上げるための努力や工夫を行っていきます。

■介入できないカオスへの向き合い方

4つ目のタイプの物事は、予測することができず、介入もできない物事です。このような対象が存在する場合、予測の精度を上げるためには、いくつかのアプローチを取ります。

1つ目のアプローチとしては、より積極的に分析して理解に努めるというアプローチです。科学や学問的なアプローチと言えるでしょう。

これができない場合、2つ目のアプローチは思い込みです。1つ目に似ていますが、客観的に証明ができないため他者と理解を共有することが困難です。

3つ目のアプローチは遠ざける事です。物理的に遠ざけたり、隔壁のようなものを作って見えないようにしたり、心理的に無視することで見なかったことにします。予測できないものを無かったことにすることで、予測できるものだけが周囲に残るようにします。

4つ目のアプローチは、破壊や支配です。3つ目に似ていますが、より過激なアプローチです。

介入ができない対象に対しては、このようなアプローチを組み合わせて、できるだけ予測可能性を上げていきます。

■さらに成長する

自己認識の拡張は、現在という時間や、身体や物理的な物に留まりません。

元々、予測の能力を下地にしていますので、未来を想像することによって自己認識は成立しています。成長によって自己の拡張が進めば、想像する時間の幅も広がっていきます。

1分先のこと、1時間先のこと、明日のこと。そうした未来にも、単に予想するだけでなく、身体のように想像と同期する部分を見つけ、マネジメントできるようになっていきます。朝、寝坊せずに起きることができるのは、翌朝の自分の起床を、今この瞬間の手足と同じように想像し、マネジメントしているのです。

さらに、来月、来年、十年後と、未来のことであっても、部分的にはマネジメントすることができます。十年後の事など分からないし何一つ高い確率で予測できないと思うかもしれません。

しかし、部分的には想像と未来の現実を一致させることができるものはあります。未来にまで残るようなものを、作ったり破壊したりすることが、その例です。あまり楽しい例ではありませんが、十年後に返済するローンの契約は、未来のマネジメントの1つのわかりやすい例です。

未来にも残る物を作るという事で言えば、自分がいなくなってしまう百年後や二百年後といった未来にまで自己認識の拡張を行うこともあり得ます。

歴史に名を刻んだり、後世に残る芸術作品を作りたいという願望は、自己認識の未来への拡張と捉えることができるでしょう。ガウディのサグラダファミリアは、プロジェクトそのものが動き続けています。

■内面の成長

身体や物だけではなく、目に見えない内面にも、自己認識の拡張はなされます。

感情は手足のようには動かせないと思っている人も多いかもしれません。しかしアンガーマネジメントのように、工夫次第でコントロールすることは可能です。

多くの大人は、親しい人には感情をオープンにしますが、他人には激しい感情は出さないように隠します。感情も、動かしたりマネジメント可能な自己認識の対象です。

同じように、性格や運命も、自己認識しマネジメントすることができますが、見落としている人が多い点です。もちろん、それを寄与のものとして受け入れ、自分では動かしたりマネジメントするものではないと考える事は自由です。しかし一方で、変えようと思えば変えられるものであることも事実です。

もちろん、性格や運命の全てを思いのままに変えられるわけではありませんが、全く変えることができないものでもありません。また、禅の世界では、自らの思考の動きですらも、止めることを試みようとします。思考するという自動的に起きているように思えることにすら、マネジメントをしようとするのです。

人によっては手足をバタバタと振るような範囲かもしれません。しかし、上手くバランスを取ったりコントロールしたりすることで、胴体を移動させたり、大きな建物を建築するように、大きく変えることができる人もいるでしょう。

感情や性格や運命や思考に対して、どこまでの範囲が、どの程度まで自己更新や自己マネジメントの範囲であるかを探る事も、自己認識の拡張の一環です。

■人間関係について

他者の行動を思い通りに変化させたり、完全にマネジメントすることはできないでしょう。しかし、外界がそうであったように、完全ではないとしても、部分的には変化させたり、マネジメントすることは可能です。

単なる外界と他者には大きな違いがあります。外界はこちらから力を作用させなければ変化やマネジメントを及ぼすことはできません。しかし、自己と同じように、他者は他者自身を自己認識し、自己更新や自己マネジメントすることができる存在です。

これは、直接他者に力を作用させることなく、他者の自己更新や自己マネジメントを促すことで、更新やマネジメントができる可能性があるという事です。

他者が自分の子供であれば、手本になるような動作を見せて、真似をさせることで、動作を変更させることができるかもしれません。もう少し成長してきたら、モラルや勉学を教えることで、自己マネジメントを促せるかもしれません。

大人同士の、全くの他人同士であっても、ギブアンドテイクや親切な行動により、相手の譲歩や信頼を得られるかもしません。

このようにして、力の作用による自己拡張ではなく、他者理解に基づいた他者認識の作用により、相互に人間関係が構築され、その人間関係自体が自己認識と自己更新、自己マネジメントの能力を持つように見える場合があります。力ではなく、人間関係に基づいて、自己更新や自己マネジメントの影響を、他者に広げていくことができるという事です。

■非支配的ガバナンス

これは、自己からの一方的な更新やマネジメントだけでなく、人間関係から自己も更新やマネジメントを受けることを受け入れる事でもあります。その意味で、人間関係を間に挟んで、複数の主体が相互に更新やマネジメントの影響を及ぼし合う形態は、非支配的ガバナンスの仕組みとなります。

これに対して、誰かが力や強い影響力を及ぼすことで、一方的に他者を更新しマネジメントする関係は、支配的ガバナンスと言えるでしょう。

この関係は、少人数のコミュニティでも成立しますが、理想を言えば、社会全体にも適用できる可能性はあります。

生まれたての赤ん坊も、自分の予測能力と、身体の動作が結びついていなかった状態から、徐々に自己認識を経て、自己更新と自己マネジメントの能力を獲得します。

この時、最初はバラバラだった予測能力と身体が結びついていく様子は、人間関係が構築されて非支配的なガバナンスの仕組みが機能していく様子に例えることができるでしょう。脳や身体のどこかが支配しているわけではありません。認識と動きの全体が、一体化して、自己を形成しているのです。

それと同じように、社会にも、非支配的なガバナンスの仕組みが機能し、認識と動きの全体が一体化ができる可能性があります。誰かが中心となって支配するのではなく、個々人が自己更新や自己マネジメントを発揮しながら、入れ子状に社会全体としても自己更新や自己マネジメントを発揮するような仕組みが、成立し得るのではないかと私は考えています。

もちろん、非支配的なガバナンスだけですべてが上手く運ぶことはないのでしょう。それでも部分的には可能ではないかと思います。少しでも、その仕組みが機能するようにし、拡張していく道を探すことを考えるべきではないかと思っています。それが一つの理想かもしれないと思うためです。

■真実の痛み

大きな天災が起きたというニュースが流れれば、例え普段、敵対しているように見える関係にある社会でも、哀悼の意を表明したり、救済に力を貸したり、物資や金銭的な助力を積極的に行います。

身体のどこかが傷ついて痛みが走れば、全身が緊張状態となり、その痛みから逃れるために頭も体も最善の振る舞いをしようとします。大きな災害が起きた時の国際社会の動きも、これと同様です。そこには、真実の痛みがあるからです。

一方で、災害ではなく別の理由で人々が苦しみ、嘆いていても、このようなことは起きません。そこに実際には大きな痛みがあっても、その真実性に疑問符が付いてしまうためかもしれません。あるいは、どこかに責任が生じてしまうからかもしれません。

もしかしたら、真実の痛みではなく、誰かが何かの目的で捏造された痛みを訴えているだけかもしれません。あるいは、天災とは異なり、その痛みは責任を負うべき誰かが存在する可能性があります。

その場合、痛みの訴えをそのまま受け止めたり、責任が自分であると認めたりすることには大きな抵抗がかかります。その結果、その痛みは天災のように扱われなくなります。

もし、災害に限らず、あらゆる社会的な痛みを真実の痛みにできれば、常に協力ができるのかもしれません。痛みの捏造や責任の追及なく、真実の痛みを運ぶことができる全身に張り巡らされた神経があり、異なる社会が手を取り合ってその痛みに対処するという経験を通して、私たちは団結していくことができるかもしれないのです。

こうした神経網や認識過程を組み込んでいくことで、全ての社会を一貫する自己認識の形成を目指す事が出来るのではないか、そう考えています。

■さいごに

未発達な子供は、大人に監督され、大人の庇護下において生きています。多少、自己認識が進んで自らの意志で行動したいと思っていても、子供のすることは危険なことも多いため、大人がしっかりと監督します。

やがて子供が成長すると、大人が監督しなくても自由に活動することができるようになります。自らの意志と責任において、しっかりとした判断をして、自分の未来に向かって自ら歩いていけるようになります。

全ての社会が集まった国際社会が、もしも私の考えているように、1つの自己認識を形成することができる未来が待っているのだとすれば、現在はまだ自己認識が進んでいない、幼少期の子供のような段階です。自らの力では自己を管理できないため、権力者が大きな力を持って管理しているのだとすれば、権力者は子供を監督する大人のようなものかもしれません。

経済的な発達は身体の成長に例えることができるでしょう。それに加えて、認知能力の成長、つまり自己認識が形成されることで自己管理が可能になれば、権力者の監督に依存する状態からの独立ができるのでしょう。

1つの社会で見れば、それは単純に現在の民主主義のような姿なのか、それ以上の姿なのかは分かりません。しかし、国際社会全体で見れば、少なくとも現在の姿が限界ではないはずです。神経網を開発し、自らそれに反応することで、自己認識を高め、自己更新と自己マネジメントができるような姿になっていく可能性は、あるはずだと思うのです。

それは、予め設計可能なものではなく、実践の積み重ねでしか会得し得ないものでしょう。私たちが、予め自己認識を持って生まれてくることができないように。


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