生物、知能、社会におけるアイデンティティの役割
私は個人研究として、システムエンジニアリングの観点から生命の起源の探求へアプローチするというテーマに取り組んでいます。
この際に、生物や化学物質のことを広く調査することではなく、生物を秩序を持った複雑なシステムとして理解することに重点を置いています。そして、同じように秩序を持った複雑なシステムである知能や社会に目を向けて、そこにある性質や特性、あるいはそれらの成り立ちを分析することに大きな意味があると考えています。
そこから秩序を持った複雑なシステムの本質を見つけ出すことができれば、同じく秩序を持った複雑なシステムである生物やその誕生の流れにも、同じ考えを適用できる可能性が高いためです。
この数週間ほど、社会における倫理について、技術リスクの観点を軸にして分析に取り組んでいました。この中で、倫理の性質について考えているうちに、社会が広く個人の行動に影響を及ぼすためにシンプルで分かりやすい倫理的な概念を探索する傾向にある点が、生物を構成する化学物質が特定のキラリティに統一されているという点に共通性がある事に気がつきました。
この記事では、その共通性について掘り下げて分析していきます。そして、その結果として、生物、知能、社会という秩序を持った複雑なシステムには、様々なレベルやスコープで自他を区別するためのアイデンティティが組み込まれており、それが大きな役割を果たしているという話を展開していきます。
このアイデンティティという切り口は、生命の起源の探求に新たな視点を持ち込むと共に、秩序を持った複雑なシステムの理解にも広く深く影響を与える可能性があると、私は考え始めています。
では、以下本文でこの考えを詳しく説明していきます。
■集団の中での仲間の識別
国家の機密情報を探り合う世界では、スパイが暗躍していると言われています。相手国に入り込み、その国の人物の振りをして政府の中枢近くに入り込み情報を手に入れて本国に連絡する、そういった活動を行う人たちです。
このような活動から考えると、敵対する相手に対して自分の本来の身元がバレないように隠すことが重要なことに思えます。しかし、戦場においては、どの勢力に所属しているかがはっきりと分かるようなマークや旗を掲げ、各勢力での統一されたデザインの軍服を着ています。先ほどのスパイの場合と正反対です。
スパイのような発想をすると、軍隊も自分の所属を明かさずに相手を騙すことで有利になりそうなものですが、どうしてわざわざはっきりと所属が分かるようにしているのでしょうか。
その理由は、仲間同士がお互いをはっきりと認識するためでしょう。戦場では敵を騙す事よりも、トップから下った作戦を確実に遂行するために、味方同士が即座にはっきりと識別できることの方がはるかに重要であるということでしょう。このため、時代が変わっても、どの国や勢力でも、基本的に軍隊は同じ方針を取っています。例外があるとすればゲリラ活動を行う勢力くらいでしょう。
■生物の分子のキラリティ
話は変わって生物の話題になります。地球上の生物は、遺伝情報を保存したり活用するためのDNAやRNAといった核酸、生物の身体の中で行われる様々な化学反応を発生させたり、動物の身体の柔軟な構造を支えたりするタンパク質、そしてエネルギーを蓄積したり植物の体の強固な支えとなる炭水化物を自ら作り出しています。
一般に、複数の原子が集合した分子の中には、同じ原子が同じ結合方式と結合構造を持っていても、鏡に映したような2つのパターンの構造があり得る場合があります。ちょうど、私たちの右手と左手のようなものです。右手と左手は、指の数も指の順番も同じですが、鏡に映したように左右反転した構造を持っています。分子の中にも、これと同じような2種類の構造を持つ物があります。これは分子のキラリティと呼ばれています。
興味深いことに、生物にとって重要な先ほど挙げた核酸、タンパク質、炭水化物の三種類の化学物質は、ほぼ特定の側のキラリティの分子だけで構成されているという性質があります。化学物質としての性質は、どちらの側のキラリティでもほぼ変化はないと言われており、特定のキラリティの方が機能的に有利であるという事も無いようなのですが、なぜか地球上の生物は全て同じキラリティで統一されているというのです。
このことは生物学における一つの謎となっているそうです。そして、地球上のすべての生物がその性質を持つという事は、このキラリティの統一は生物が進化の過程で獲得した性質ではないという事です。つまり、生命誕生以前の地球上で、無生物の化学物質から生物が誕生するまでの過程で獲得した性質である可能性が高いという事です。
■キラリティの意味
私は、キラリティが統一されている理由は、軍隊の旗や制服と同じではないかと考えています。つまり、味方を識別するためではないか、という事です。
核酸、タンパク質、炭水化物は、複数の分子が結合した複雑な化学物質です。そのような複雑な化学物質に含まれているキラリティを持つ全ての分子が、片方のキラリティに統一されているというのは、ランダムに結合された化学物質だとすれば不自然です。このため、この性質を利用して、あえて片方のキラリティに統一された化学物質を作れば、このルールで生成された化学物質であるか、そうでないかが、はっきりと分かります。
このため、味方を識別するためのマークや制服のように、化学物質が共通のポリシーを持った仕組みで合成されたのか、その仕組みとは別の形で合成されたのかが、キラリティを片方の側に統一させておけば簡単に分かります。
生物にしても、生物誕生に至るまでの化学物質にしても、特定の仕組みとして生成したものと、外界で自然に合成された物なのかが、簡便な方法で容易にわかると、セキュリティを高めることができます。
外界で偶然合成された複雑な化学物質をうっかり取り込んでしまうと、自分の身体が不調になったり、最悪の場合には活動が止まったり破壊されたりします。このため、できるだけ簡便で効果の高い仕組みで識別する手段があれば、こうした事態を招くリスクを低減することができます。
キラリティの統一は、恐らくこの観点から非常に役に立っており、外界で非生物的プロセスにより生成された化学物質を識別して、身体に取り込まないようにブロックすることが容易に行えるようになったはずです。
■識別と倫理
キラリティが生物が生み出した化学物質と、非生物的に合成された化学物質を明確に識別するために使われたかどうかは、推測の域を出ませんが、興味深い仮説だと思います。
識別して味方を明確にすることは、倫理的な観点から重要な意味を持っています。
社会は、何らかの倫理基準を設け、その基準に合致する行動を取る個人と、それに違反する個人とを識別します。一般に、その社会の倫理基準を大きく逸脱する個人は、犯罪者という扱いを受けます。その中でも軽い罪のものは罰金で済み、今後は倫理的な基準を順守するように意識の変化を促します。一方で、罪が重い場合には、身体的に刑務所に拘留されたり、最悪の場合は死刑という形で、一般社会から排除されます。
これは生物がキラリティのような目印を使って識別をして、受け入れられないと判断した化学物質を、拒絶したり破壊したりすることと同じ構図です。
この事は、識別して矯正したり排除したりすることが、倫理の本質にあるという事を示唆しています。そして、この識別の基準として良いものを設定することができると、化学物質の仕組みや、人間の社会は、繁栄するという事も意味しています。単に識別して排除すれば良いのではなく、その識別の基準によって、仕組みが繁栄するかどうかが大きく違ってくるということです。
つまり、キラリティの偏りを利用するという識別基準は、識別が容易であるだけでなく、その基準で味方と判断された化学物質の組合せは、全体の繁栄の観点からも有利であった、あるいは少なくとも不利ではなかったという事です。
同様に、倫理基準も、単に個人を識別して矯正したり排除したりすることが容易な基準というだけでなく、その基準がある事が、社会の繁栄の観点からも有利であることが重要です。社会の繁栄にとって不利になる倫理基準であれば、たとえそれが感覚として美しいと感じられる基準だとしても、社会が繁栄することができません。
複数の社会が生き残りをかけて競争を繰り返してきた人類の歴史においては、繁栄にとって不利な倫理基準を設けてしまった社会は、恐らく消滅したか、別の社会に吸収されたか、あるいは、世界の中心からは外れてしまっているでしょう。少なくとも、複数の社会がシビアな競争をする状況が継続する限り、倫理基準には社会の繁栄にとって有利であることが、必須の条件となるでしょう。
■自己識別機能+自己繁栄性=アイデンティティ
社会における倫理が、自分たちとそれ以外を識別して矯正や排除を行う仕組みとして機能する点と、自分たちの社会の繁栄に有効なものが存続しやすいという性質を持つ点を説明してきました。
つまり、社会における倫理は、自己識別機能と自己繁栄性を持っているという事になります。
生物は様々な仕組みで自己識別を行う機能を獲得しています。キラリティによる識別は仮説に過ぎませんが、免疫による識別が代表的なものです。地球上で繁栄している多くの生物が何らかの免疫機能を持っていることを考慮すると、生物が自然淘汰の中で獲得してきた自己識別機能は、同時に自己繁栄性を持っていると考えて良いでしょう。
したがって、生物においても、自己識別機能と自己繁栄性を持った倫理のようなものが存在していることになります。
その自己識別機能と自己繁栄性を持つものを総称する概念が、アイデンティティであると考えると、ぴったりと当てはまると思います。
つまり、軍隊のマークや制服はその軍隊と他の軍隊のアイデンティティの識別子(identifier)であり、特定のキラリティだけを持っている化学物質は生物由来というアイデンティティの識別子と言えます。
また、免疫システムは自己の身体を構成する多数の化学物質の特徴をそれぞれ識別子として記憶し、その識別子全体が自己の身体というアイデンティティを形成していることになります。
同様に、社会は自己の構成メンバーが遵守するべき多数の倫理を明示的あるいは暗示的に持っており、それらの倫理に沿って行動することが、その社会の一員であるということを示します。その意味で、個々の倫理はその社会の識別子の役割を担っており、その倫理全体に沿う事が、その社会の構成メンバーのアイデンティティとなります。
■様々なアイデンティティ
私たちは自分の身体の構造やエネルギー源として使用できるものかどうかを、視覚、嗅覚、味覚を使って判断して取り込んでいます。つまり、食べられるものかどうかの識別です。これも一種の自己識別です。
免疫の仕組みは、個体としての自己の識別で、侵入してきた化学物質の固まりが非生物由来と生物由来かどうかの識別、自分の属する生物種と同じかどうかの識別、そして同じ生物種のものであっても自分の個体のものか他の個体のものかの識別を全て含んでいます。
一方で食べ物かどうかを区別する識別は、主に非生物由来と生物由来かの識別と、自分の属する生物種の身体に対しての危害の有無の識別をしています。
また、個人は社会において名前という識別子や外見により、外形的に識別されます
それだけでなく、より内面的な性格や信念や過去の行為の記憶、外部との関係性としての人間関係や所属集団やお気に入りのアーティストや文化など、様々な概念を識別子のようにして、複雑なアイデンティティを形成しています。この複雑なアイデンティティは身近な人同士での識別や、自分自身の自己識別のために利用されるものです。
■アイデンティティによる存在力と繁栄力
このように、私たちは、化学物質、細胞、生物種、個体、個人、組織、社会といった様々なレベルやスコープにおいて、それぞれ多様な識別子を利用したアイデンティティを持っています。そして、各々のレベルやスコープにおけるアイデンティティは、長い時間の中で自然淘汰や学習によって選別されて、私たちの細胞、生物種、身体構造、人格、組織構造や社会構造を形成し、それらに強い存在力や繁栄力を与えています。
一人の人間としての私という観点から眺めてみても、これらの様々なレベルやスコープにおけるアイデンティティの複雑な構造の中で、生命を維持し、自己を認識し、社会生活を送っています。
人間という生物種も、同様の複雑なアイデンティティの構造によって存続し、繁栄してきました。私たちが所属しているそれぞれの組織や社会も、倫理や文化や規則などの複雑なアイデンティティの構造を確立して、存続し繁栄してきたことになります。
■アイデンティティ構造の洗練
これらのアイデンティティは絶対的なものや不変のものではないことも分かります。無生物は化学進化の過程で特定のキラリティのようなアイデンティティを獲得し、生物種は進化の過程で免疫や食べ物の識別のようなアイデンティティを確立するための仕組みを獲得した上で、それぞれの種に特有のアイデンティティを確立してきました。
知能を持つようになった生物は、その知能を利用することで様々な抽象的なアイデンティティを確立できるようになりました。高度な知能を持った人間は、社会、文化、個人の内面といった様々なスコープでアイデンティティを確立し、様々なアイデンティティの組合せを生み出し、より強い存在力や繁栄力を持ったアイデンティティが残り続け、普及してきました。
こうして確立したアイデンティティは、複雑でありながら洗練されたものと言えるでしょう。そして様々なレベルやスコープから構成される全体は、アイデンティティ構造と呼ぶことができます。
したがって、生物、知能、社会という複雑なシステムの歴史は、アイデンティティの構造物の洗練の歴史だったと言えます。そしてこの先の未来も、アイデンティティ構造を洗練させ続けていくことでしょう。
■さいごに
組織においても、生物においても、個人や社会においても、自己と他者を識別しつつ、自己の存続や繁栄をする能力を高めていく性質を持っており、この性質がこれらの複雑なシステムにとって本質的に重要であることを分析してきました。
この概念に気がついた時、私の母国語である日本語で表現する適切な言葉が見つからずしばらく思案していました。そして、識別(Identification)という言葉から、この概念こそが「アイデンティティ」であると気がつきました。これは日本語にはない言葉です。
アイデンティティは複合的かつ抽象的なため理解が難しい概念ですが、この記事で見てきたように、存在力や繁栄力を高めることを目的として洗練されていく自他の識別方法と捉えると、理解が深まります。
そして、命の起源から連なる知性や社会といった秩序を持つ複雑なシステムは、アイデンティティ構造という共通性を持ち、時代と共にその構造が洗練されていくシステムであると捉えることができます。
私はこれまで、秩序を持つ複雑なシステムの本質は、フィードバックループにあるという見方をしていました。この記事で導出したアイデンティティ構造という概念は、フィードバックループと共に、秩序を持つ複雑なシステムの本質を構成する重要な概念になるのではないかと、私は考え始めています。
私は、生命の起源の解明に向けて、システムエンジニアリングの観点からアプローチすることを個人研究のテーマとしています。
これまで、生物のいない無生物だけの地球上で、化学物質が多様なフィードバックループを形成しながら、化学進化や化学物質が構成する構造の進化やメカニズムの進化が進んで、生命の誕生に至ったというモデルで生命の起源を捉えてきました。
この記事で見出したアイデンティティ構造という概念を、生命の起源のモデルに上手く組み込むことができれば、生命誕生の謎について、システムエンジニアリングの観点からさらに深い理解を得ることができるのではないかと思います。
さらに、私はネオサイバネティクス運動に参加していますが、サイバネティクスの文脈でもフィードバックループは重要な概念となっています。アイデンティティ構造の洗練という概念をサイバネティクスの文脈に組み入れることができれば、新しい視点から社会や未来を見つめることができるのではないかと考えています。
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