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■脳の寓話

 「お待たせしました。エクストリームライフのスミスです。今日はどういったご用件でしょうか」案内オペレータ用の3Dゴーグルを装着したスミスは、落ち着いた声でそう語りかけます。彼は自宅の書斎にいますが、仕事場は仮想空間の中のお客様相談窓口の一室です。

 窓口に来た女性のアバターは、少し緊張した口調で、デジタルブレインから完全移住までの話を聞きに来たことを告げます。

 「かしこまりました」スミスは微笑んでプロフィールを見ます。アリサという登録名で、つい2時間ほど前に新規登録したばかりです。恐らく本名ではないけれど、性別や年齢層はこのアバターと一致しているだろう。長くこの仕事をしているスミスは、直感的にそう感じます。

 「ではまず、全体の流れからご説明しますね。こちらは、ご覧になったことは?」アリサとの間のフローティングスクリーンに、スミスはデジタルパンフレットの概要のページを映します。読んできました、とアリサは、はっきりと返事をします。

 「では、私の方からは全体の流れを簡単にお話ししますので」スミスは微笑みます。「何かご質問があればお尋ねください」

 スミスはいつもの流れでエクストリームライフ社のメインサービスについて説明を始めます。

 最終的な完全移住まで段階的に慣らしていく必要があるため、1つ1つステップを着実に進めていくことになります。早い人なら1年程度で、ほとんどの人は2年以内には移住が完了します。

 途中、専門の医師による2か月に1度の定期診断と、メンタルカウンセラとの毎週二回の面談で、安全性を確認しながら進めていきます。お客様が安心して進められるように全面的にサポートできる体制を取っていることをアピールしながら、スミスはアリサの反応を伺います。

 この点を気にする顧客は多いけれど、アリサは事前にパンフレットを読み込んできたのだな、とスミスは彼女の様子から読み取ります。彼女は小さく頷きながら話を聞くだけで、特に質問はなさそうです。

 まだ仮想世界に慣れていない人の場合は、最初の1か月は3Dゴーグルを貸し出して慣れてもらうステップが必要です。ただ、既に慣れている人ならスキップしても構いません。アリサのアバターの振る舞いから、この点は問題なさそうです。スミスが軽くアイコンタクトすると、アリサも次の説明を促すように、頷き返します。

 ここから先が本番になります。まず、デジタルブレインの契約手続きをします。それが済んだら、最初は1リットル分を購入します。

 1リットルというのは、どれくらいの量なのか。それがアリサの最初の質問でした。デジタルなので実際に容積があるわけではないので、あくまで理解しやすくするための目安ですが、とスミスは前置きします。

 人間の脳は個人差はあるものの、およそ1リットルから1.5リットルと言われています。およそ、それと同じくらいの容量だと、スミスは説明します。なるほど、とアリサは相槌しますが、少し考えるような素振りをします。

 開始当初は、小型のインターフェースデバイスを装着します。購入したデジタルブレインはエクストリームライフ社のサーバに管理され、そのデバイスの無線通信機能を介して接続されます。ヘッドフォンのような大きさですので、やや目立ちはしますが、日常生活に支障はありません。体調が良好であれば、寝ている時も装着しておく必要がありますが、シャワーを浴びるときは取り外しができるようになっています。

 そこで恐る恐る、アリサは切り出します。やっぱり手術は必要なのでしょうか、そう尋ねます。「ええ」スミスは少し神妙な顔をします。

 最近は電波を使って手術なしで交信できる装置も出てきていますが、と言いながらスミスは口元を引き締めます。最初の段階は技術的には無手術でも可能だけれど、いずれにしても2段階目以降はもっと多数の穴を開けて脳とデバイスを接続していくことになります。

 「ですので、最初の段階で、ご自身の考えをしっかり整理していただいて、その決断をしていただくことが大事だというのが、エクストリームライフ社の方針です。その決断ができないお客様に、このサービスをお勧めするのは」スミスは、そこで一呼吸置きます。「お客様の人生の質を高めるというエクストリームライフ社の設立理念に反しますので」

 アリサのアバターが、きゅっと口を引き締めます。多くの人にとって、自分の頭に手術で穴を開けていくというのは、想像したくない話です。けれどそこを避けていては、完全移住はおろか、半移住や常時接続もできません。安易に営業成績を上げようとせず、その決断の必要性をしっかりとお客様に説明して納得してもらうようにと、社長も毎月の営業会議で繰り返し強く言っています。スミス自身も、それを自分の信念にしています。

 最初の小型デバイスでの接続が上手くいったら、日常生活を送りながらデジタルブレインに慣れていきます。デジタルブレインの方にも、その日常生活の記憶と共に、認識の仕方、判断基準となる価値観、思考方法や思考の枠組み、考え方の癖、といった、その人の個性が学習されていきます。

 デジタルブレインの学習と慣れが進んでくると、個人差はあるものの、思考が鮮明になっていったり、考えが素早くまとまったりするようになります。脳がデジタルブレインを使いこなせるようになっていき、脳の機能が拡張していることが徐々に実感できるようになるのです。人によっては気分が悪くなったり、逆に思考が混乱して頭の中が整理できないという時期を迎えることもありますが、多くの人は時間が経てば慣れていきます。

 アリサがこの説明に不安そうな表情を見せたことに気付き、スミスは少し細かな説明も付け加えます。デジタルブレインをその人に合った処理スピードにする機能もあり、専門家が一人一人に合わせてチューニングすることで、フィットさせていきます。その日の体調によって揺らぐ人もいるので、自分で調整することもできます。

 慣れてきたら、デジタルブレインを買い増していきます。デジタルブレインの追加と日常生活を繰り返し、8リットルくらいまで達したら、次の段階に進みます。睡眠時用の大型のデバイスを使う段階に入ります。

 フルフェイスのヘルメットようなデバイスです。就寝時にはそれを頭に装着し、予め開けていた拡張コネクタを接続します。眠っている間は、現実の身体に繋がっている神経が眠るので、その代わりに仮想世界のデジタルボディに、仮想神経が繋がります。拡張コネクタは、仮想神経との接続のために必要になります。

 アリサは、自分は不器用で、自転車にも乗ったことがないので、と少し戸惑いながら口にします。「ロボットを操縦することをイメージされる方が多いのですが。実際には少し違っていまして」スミスは丁寧な口調で説明します。

 「就寝中、夢はご覧になりますか?」スミスは微笑んだまま続けます。「夢の中で、デジタルボディに繋がるのだと思って頂けるとわかりやすいかなと思います。」スミスの説明にアリサが不思議そうな顔をします。

 「夢の中で、ご自身の体を操縦しているようには感じませんよね。もちろん、仮想空間とはいっても体の重さや重力などはシミュレートされていますので、通常の夢の場合とは違って、最初は皆さん苦戦されますが。ただ、お客様の意図に沿った動きをするように、デジタルボディの方も学習をしてくれる仕組みになっておりますので、思いのほか早く馴染んでくると思います。」スミスはニッコリと微笑みます。「慣れてくると楽しいみたいですよ、新しい体を動かせるようになるのは」

 この段階で、日中の日常生活と、夜間のデジタルボディでの活動を繰り返しつつ、半年くらいかけて16リットルくらいまでデジタルブレインを追加していきます。

 そこまで説明して、スミスは言葉を止めます。アリサはパンフレットを見つめていた視線をスミスの方に向けて、それから小さく頷きます。お別れと、引っ越し、ですよね。アリサはそう呟きます。

 「ええ。飛行機やビザの手配や、現地でのお住まいの手配は、全てサービスに含まれております。ですので、お客様の方では、しばらく会えなくなる方と、ゆっくりとお話をしていただいて。」スミスは、淀みなく説明を続けます。「ご家族のサインと、お住いの国の政府が発行するデジタル移住認可書も、このタイミングまでにご用意いただく必要があります」

 アリサはしっかりと頷きます。島に行ったら、もう自分では動けなくなるんですよね。そう念を押すように尋ねます。「その通りです」と、スミスもゆっくりと頷きます。

 「ご存じの通りですが」スミスは続きの説明を始めます。その島は、デジタル移住のための制度や法律、施設や設備、それに専門家といった環境が揃った、世界唯一の国です。

 その島へ着いたら、大型のブレインインターフェースデバイスに接続するための手術が最初に行われます。そして、その島のホテル、実際には療養施設のような施設内での生活をしながら、デジタルブレインの容量を64リットル程度になるまで増やしていきます。最先端の大型装置を使いますので、そこまでは比較的スムースに進みます。

 さらに次の段階では、完全にカプセルに入っていただいて、入眠コントロール状態に移行します。その中で、覚醒時間の割合を徐々に減らしつつ、並行してさらにデジタルブレインを増やします。覚醒時間が減る分、デジタルボディでの生活が、中心になっていきます。

 完全入眠と、基準ラインの128リットルが達成できたら、最終段階を迎えます。「その時のサインは、デジタル側で可能になっておりますので。」スミスは簡単にその島での法制度の説明をします。「完全移住の最終同意書へのサインをしていただいて、そのまま、切断します」アリサは目をつむります。その時の事を、アリサなりにイメージしているのかもしれません。

 「これで私からのご案内は以上となりますが、何か、お聞きになりたいことはございますか?」

 アリサは頷き、その切断された元の体はどうなるのかを尋ねます。「冷凍保存というオプションもございますが、正直、ご予算次第というところでして」スミスは、困ったように微笑みます。「通常はご家族の方に、お返しさせていただくことになるかと」

 アリサを見送った後、スミスは3Dゴーグルを外して、意識を自宅の書斎に戻します。一旦、キッチンでコーヒーを淹れてから書斎に戻ると、ふうっと息をつきます。

 一口、温かいコーヒーを飲んでから、「よし」と意を決したように小さく声を出し、スミスはまたゴーグルを装着します。

 社長室。仮想オフィスの中で、スミスはそのドアをノックします。そして、「失礼します」と言いながらそのまま中に入ります。

 「どういうつもりですか、社長?」スミスは、部屋に入るなり尋ねます。「あれ、もうバレた?」その女性は、いたずらっぽく笑っています。

 「最近、あなた営業成績がいいじゃない?だから、どうも不正営業してるって疑ってる人がいるらしいのよ」彼女の説明に、スミスは、憮然とします。「僕がそんな事、するわけない」「それは私もわかってるけど、いちおう私は社長としての立場があるからね。ちゃんとさっきの覆面監査、録画もしておいたから、あれを観せれば誰も文句言えないでしょ」

 スミスは「そういう事か」と落ち着きを取り戻します。「でも、アリスがアリサって、わかりやすい偽名だな。それに自転車にも乗れないって、気づいてくれって言ってるようなもんじゃないか」

 アリスは笑います。「ひょっとしたら気づいてくれないんじゃないかな〜、と思って」「バレたら覆面監査の意味ないだろ」アリスはニコニコしています。「そこは、あなたが上手くやるって信じてたから。実際、なんの素振りも見せなかったし。完璧だったわよ」

 まったく、調子がいいな。スミスは口を尖らせます。

 「ところで、あなたはまだ、こっちに来る気はないの?」アリスはそう言って目を細めます。スミスにはそれが、少し寂し気な顔に見えました。

 「僕はもうしばらくいいよ。そっちに行った人は、なんだか仕事でも苦戦してるみたいだし。やっぱり、何か変わってしまうんじゃないのかと思って。」「あら、あたしは、元のままだっでしょ?」アリスはスミスの顔を覗き込みます。

 「君はそうかもしれないけど、個人差があるからな」「大丈夫、あなたは向いてるって」根拠なくそんな事をいうアリスに、スミスは呆れます。「そうやってそっちに勧誘するのは、立派な倫理規則違反だぞ」「だって、こっちに来る前に、あなたが死んじゃったら困るもの」

 それから、会議の時間だと言ってアリスが姿を消すと、スミスはゴーグルを外して書斎に戻ります。少し冷たくなったコーヒーをぐいっと飲んで、スミスは机の端の写真立てに手を延ばします。

 若い頃のスミス自身と、今と変わらない姿のアリスが、そこに写っています。アリスが、事故に合う前、まだ彼女が研究所で働いていた頃、新婚旅行で訪れたリゾートで撮った写真です。

 スミスは目を閉じます。新婚旅行から戻ってきてすぐに、アリスは交通事故に巻き込まれました。その事故で歩けなくなったアリスから、エクストリームライフの立ち上げの話を聞いた時は、冗談かと思って笑った覚えがあります。しかしアリスは真剣でした。その上、創業者自らが、デジタルへの完全移住をしなければ、誰もこんなサービスは受けないだろうと言うのです。その話には、スミスは心底驚かされました。

 アリスとその仲間たちは、革新的な技術と大胆なビジネスプランを武器に、投資家たちから莫大な資金を調達します。そして、ちょうど二人が新婚旅行で訪れた島の政府との協同で、デジタル移住の実証実験プロジェクトを推し進めました。その島国は、挑戦的な起業家たちを呼び込むために、他の国が躊躇するような実験的な取り組みに熱心に取り組んでいました。新しい法制度の整備も迅速に行っていたのです。

 こうして、最初の被験者として、アリスは人類初のデジタル移住を成功させます。そして、世界中に激しい議論を巻き起こしながら、彼女はエクストリームライフ社を設立したのでした。

 「もう15年か」

 当時、人生に対する価値観の違いは、二人の気持ちのすれ違いを広げました。そしてデジタル移住後の戸籍など未整備の法的な問題もあり、二人は公式には夫婦ではなくなりました。

 しかし、8年前に、スミスはエクストリームライフ社の採用面接に姿を見せ、アリスを驚かせました。スミスも時間はかかりましたが、デジタルの世界の事、そしてアリスの生き方のことを、理解したいという気持ちになったのです。

 スミスはカレンダーに目を移します。来週は年に一度受信している人間ドックが予定されています。この時期になると、毎年、思うのです。そこで何か見つかれば決心できるんじゃないかと。何か、見つかってくれたなら、と。

 写真立てを机の端に戻し、自分の右手を見つめます、軽く、握ったり、開いたりする。デジタルの手は、温かいのだろうか。スミスは、アリスの手を思い浮かべます。

 私のデジタルの脳は、ちゃんと彼女の手を、温かいと感じてくれるのだろうか。

おわり。

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