katomoe

長崎県佐世保市出身。20年近い関東生活を経て、現在福岡に住んでおります。もうすぐ高校を…

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長崎県佐世保市出身。20年近い関東生活を経て、現在福岡に住んでおります。もうすぐ高校を卒業する子と中学校を卒業する子がいる大学教員。最近のことはすぐ忘れるのに、昔のことは結構覚えており、備忘録としてこちらを活用していこうかなと。

最近の記事

雨の日に思い出したこと

その方と直接会ったのはあの1回きり。 彼女は「予約の取れないアストロロジャー」、つまり占いをなりわいとする方だった。彼女が定期的に発信して郵送されるレターを購入し、その購入から一定期間が経過すると直接会ってセッションを受ける権利が得られるという仕組みになっていた。 その時の私は、職場関係でとても行き詰った気持ちになっており、また小学生と中学生である子どもたちの将来についても漠然とした不安感を抱えていた。それでセッションを申込み、受付完了のご連絡をいただいて都内某所で彼女と会

    • 「ひまわり」で思い出した『なかよし』の付録のこと

      小学生の頃、少女漫画雑誌『なかよし』を購入していました。私が小学生っていったら昭和ですよ。昭和50年代。最初に購入したのは幼稚園の年長さんくらいの時だと思いますけど、「キャンディ・キャンディ」が連載中で、最終ページが「戦争に参戦」みたいな号外の新聞が舞う感じのコマでした(記憶によれば)。 それで、なんで『なかよし』を思い出したかというと、ちょっと長くなるのですが。勤務先の共同研究室で先週末ひまわりが活けられていたのですね。そして金曜日、土日をはさんでエアコンの無い部屋に置い

      • 祖母に似てくる

        高校生の頃まで暮らしていた実家では、父方の祖父母と同居していた。よくある話なのであるが、うちの実家も祖母と私の母はあまり仲がよくなく、私がどちらかというと母寄りのスタンスで生きていた。とはいっても、うちの両親は夜に開く飲食店を経営していたので、夕方からは家の中に祖父母と私と妹が一緒に居て、それほどベタベタするわけでもないが見守ってくれていたことになる。 祖母はおしゃれだった。彼女自身も仕事をしていたこともあったが、毎日きちんとお化粧して、スカートを履いてサングラスをかけて出

        • 『マチネの終わりに』

          平野啓一郎さんの本書を今ごろ読了。単行本が出版された折に既に話題になっており、私の師匠(若い頃、文学青年でとある大きな賞の受賞候補者にもなった方)も褒めておられたので、いつか読みたいと思っていたのですが。 最初は6月中旬に2週間ほど出張が重なる時期があって、移動の車中で読もうと思っておりました。ところが、そういう時は別の仕事を抱えていたりして、結局スーツケースの中から出すことがないまま、先週になりました。 先週から、少しずつ読み始め、「ちょっとこれは大切に読み進めるべき本

        雨の日に思い出したこと

          記憶という名の錬金術

          3年ほど前のこと。私が住む市にある大学で、とある学術的な学会大会が開催された。私もそのメンバーであるので参加して、大会二日目に年長の女性研究者M先生と一緒にお酒を食事をした。 M先生は、とある地方都市の大学教授なのであるが、私が大学院に入学した年に指導教官からの紹介で知り合ってそれ以来、学会や研究会などでお会いしている。彼女の勤務校には「内地留学(国内留学だったかも)」という制度があって、私が大学院の博士課程のころには一年間、私が所属する研究科にもおられた。その頃は一緒に食

          記憶という名の錬金術

          佐世保の体育館で見たクールファイブ

          今日、ピアノのコンサートに行ってきた。前から10列目のなかなかいいお席で、壇上のピアニストのお姿がよく見えた。ピアノを演奏するその方を見ていたら視界が暗くなってきて、あっ、これはどこかで経験したあの感じ……と子どもの頃の記憶が蘇ってきた。 1970年代の後半のことである。私は長崎県の県北の街・佐世保の小学生だった。うちの実家ではその頃クールファイブを応援していた(クールファイブが分からない若い方はググってください)。ボーカルの前川清さんが佐世保のご出身であるということもある

          佐世保の体育館で見たクールファイブ

          「あなた、お流ししてくるの?」

          朝、子どもたちが学校へ出ていった後(私が先に出ていく日もあるが)、慌ただしく食卓の上のお皿をシンクに持っていき、それらを洗う。ものすごく急いでいる時はそんなことできないから夫に任せるが、朝の皿洗いはだいたい私の仕事である。夫もできない日は、帰宅するまで洗っていない食器がシンクに残ったままの日もある。ちなみに現在、食洗機は壊れていて手で洗うほかはない。 お皿を洗うことができた日、そういう日は洗いながら頭の中で聞こえ出す声がある。それは、 「あなた、お流ししてくるの?」 と

          「あなた、お流ししてくるの?」

          「お腹がすいた時にはね」と、10代後半の彼女が小学生の私に言ったひとこと

          その女の子が我が家にやってきたのは、1979年の晩秋のことであった。昭和でいえば54年で、私が小学4年生の時である。 その頃我が家は三世代家族で、祖父母と両親と私と妹、それに父の弟にあたる叔父の7人が同じ家に住んでいた。そんな中にその子はやってきた。 「その子」と書いたが彼女は当時16歳か17歳で、当時小学生だった私にとってみれば十分「お姉さん」である。彼女、Tちゃんは母方のいとこで他県にいたが、中学を卒業して家で何もしないのを彼女の親が見かねて、しばらくうちに預けられる

          「お腹がすいた時にはね」と、10代後半の彼女が小学生の私に言ったひとこと

          外で人にサービスされたとき

          たとえば、コンビニに入った時。欲しい商品を手に取ってレジに向かう。レジに、明らかに自分よりも若い店員さんがいて商品を受け取り、POSでスキャンして値段を教えてくれる。自分はその商品に対してお金を支払う。店員さんはそれに対してお釣りとレシートを私に渡す。 さいごに「ありがとうございました」と言って、彼(彼女)は商品を私に渡してくれる。それに対して、 「ありがとう」と私は返す。黙って立ち去るのではなく、「ありがとうございました」でもなく。ただ「ありがとう」と。 私の「ありが

          外で人にサービスされたとき

          「お酒ば入れたら、鍋を動かさんとよ。そしたら、苦うならん」

          数年前に亡くなった叔父の言葉。 私の実家は、私が生まれた頃は三世代同居で、祖父母・私の両親・私、そして父の弟(叔父)と妹(叔母)の7人家族だった。叔母は私が小学校に上がる前に嫁いでいってしまったが、叔父は私が中学生になる頃までずっと同居していた。 この叔父さん、うちの両親からの評価はそれほど高くないものの、私にはいろいろなことを教えてくれる面白いひとだった。私が育ったのは1970年代の九州であるが、「タモリ」という面白い人がいることも、あのねのねの「赤とんぼ」という歌も少

          「お酒ば入れたら、鍋を動かさんとよ。そしたら、苦うならん」