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30年越しの?答え探し。

昔から、何かを書くのが好きだった。

友達へのメールだったり、クローズドのブログだったり。父のデスクトップパソコンを借りて、色々な文章を書いていた。キーボードを使って言葉を表現する、ということが特に面白かったんだと思う。

中学生のころ、どれだけの人に見てもらえるか、というよりは、自分の中のことを吐き出すように書いていた。

思ったこと、感じたこと、
こうしてみたいなと思うこと。

他にもいろいろと書いていた気もするけれど、内容はよく覚えていない。そういえば高校生の頃、ブログで苦い思い出もある。あえてここでは言わないけれど、それでも懲りずにこうして今も、私はnoteを書いている。

「なぜ、私は書くのか」

黒崎華さんの自主コンテスト企画(※)を見て
「そういえばなんでやろう?」
ぱっと思いつかなかった。なんで書いているんやろ。

書くのが好き、ということだけはめっちゃはっきりしてるけど、なぜ書くのかと問われると、改めて説明できない自分に気づく。

※自主コンテストの詳細はこちら。

少なくとも、決めていることはある。それは「嫌なことは書かない」ということ。この理由は明白で、思い出したくないから、である。書くことで記憶に刷り込まれる気がして、嫌なことほど日記などにも書かないようにしている。それこそ思い出したくもない。嫌なことって、書かなくたっていやというほど何度も脳内を横切っていく。忘れたくても忘れられない。やっと忘れることができたのに、ふと目にした瞬間に思い出すことを想像すると、ゾッとする。だから、嫌なことはあえて書かない。

たとえ破り捨てたとしても、破り捨てたことから連想して思い出してしまう。書いて破って捨てるだなんて、何の発散になるんだろう。少なくとも私にとっては逆効果になってしまう。書けば書くほど苦しくなる。書いた後に読み返して、二度と書くまいと誓うくらい辛い記憶ほど、言語化はしたいと思わない。そっと風化しちゃえばいいのに。そう思ってる。

なぜ、わたしは書くのか。

10時間ほど寝かせた文章を読み直し、ワインを飲みながら今この部分を書いている。そこでふと、改めて考えてみてハッと気づいたことがある。

もしかして、私、自分の内側からでた言葉たちが、愛おしいのかもしれない?何度も何度も、反芻するこの工程が、私にとって心地いいのかも?

このnote に限らずだが、書いた文章は何度も読み込む。わかりやすさはもちろん、リリースする以上は何度も何度も推敲する。何度も読んで、読んで、感じて、しっくりこない部分を直していく。リズム感は特にとても大事だと思っている。理想の音の粒に合わないと感じたら、表現や言い換えを考えてみたりとかもする。その繰り返しの工程が、わたしはとびきり好きなのかもしれない。

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いいねだったり、コメントだったり、フォローしてくださっていたり。いつも皆様、ありがとうございます。

誰かの気づきやお役立ちにつながったらいいな。つながっているのかな。本当のところはわからないけれど、こうしてもうすぐ40歳。80歳まで生きるなら、ようやく半分ですね。

おばあちゃんになっても書いて愛でて、愛されて。ナチュラルに書くことをこれからも続けていけたらいいなぁ、と思います。

ではでは皆様、良い夜を。

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