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さらばオレに帰ろう 現在地について13

これまで、宮本浩次にとっての《バンド》とは、《ソロ》とは、についてつらつらと考えてきた。
長いこと抑圧して鬱積してきた、煌びやかな世界で本来の実力を認められることへの欲求不満をソロ活動において昇華させ、バンド活動では、その昇華と背中合わせの明るさで、積み重ねてきた青春の蹉跌と葛藤、くり返す再生を、迷いも衒いもなく歌うことができるようになった。目指すべき理想のかっこよさを追求する呪縛と解放。
ざっくり言うと、そんなことを感じて、書いてきた。

言い得ていると自画自賛したくなる気に入りの表現なので何度もしつこく書いてしまうが、このひとはブリリアントカットの多面体。その時にどの面がこちらに向いているかで異なる輝きを放つ。この多面体そのものに魅せられている私は、いろいろな面が見られることも大歓迎だけど、この面をこの角度から見るのが好きなんだよ!という気持ちも理解できる。だから、両輪と言いつつもどちらかの車輪に重きが置かれてしまい、もう一方の車輪がおろそかになっているように感じてしまってモヤモヤするのもよくわかる。ご本人の頭の中にあるシナリオが輪郭を見せてくれるのは、しかるべき時が来てからだから。
だが、伏線はすべて回収されるのはわかっているし、その鮮やかさに、ただ黙ってついて行くだけで愛すべき今日と笑顔の未来がそこに存在している、それを信じられるから追いかけ続けずにはいられない。そう考えると、この壮大な旅に立ち会えるその途上のヤキモキやモヤモヤもまた楽しいものです。

とはいえ、歌に思いを乗せる珠玉の作詞作曲ができるのに、なぜカバーにこだわるのか。
『秋の日に』とは、「ロマンスの夜」とは、何だったのか。


日本全国縦横無尽ツアーを完遂し、野音2022を成功させた勢いで、さあいよいよ35周年イヤーの助走期間に突入するか!と思いきや、リリースされたのは2枚目のカバーアルバム。ここでまたモヤモヤが再燃して戸惑ったファンは多かったと思う。
だが、これはとても理に適っていることだったのだ。
なぜなら、カバーはフラスコだから。
《エレファントカシマシの宮本》と《ソロ歌手・宮本浩次》が融合して、《宮本浩次》に帰るための触媒だから。


いつの間に思いこんでしまっていたんだろう。
原点はEPIC期にある、と。
“偶成” を歌う姿が本来の彼なのではないか、と。

2020年春。
不要不急という言葉しか聞こえない中で外出自粛を余儀なくされた表現者たちは、引き籠もることが己自身と向かい合う契機となり、初期衝動が呼び覚まされて自身の原点に回帰する人が多かったようだ。
この状況において彼が選んだのは、1日1曲カバーを歌うこと。
今現在の素の自分で、大好きな歌を、少年時代から愛してやまない歌謡曲を、お母さんが歌っていた女性歌手の歌を歌うことだった。
――作詞作曲することでも、バンドの歌を歌うことでもなく。

それが後にカバーアルバム『ROMANCE』として結実し、自身初のオリコン1位を獲得するなど、新たなイメージ戦略も奏功して世の耳目をさらうことになる。これほどの成果は想定していなかったにしても、この確かな評価がソロ活動成功への大きなハーケンとなって、《歌手》としての手応えを実感し、憧れていた華やかな喝采を浴びる世界へと、オリンポス山頂にバースデーの灯をともすまでの道程を拓くピッケルになったことは否めない。天才には運命すら味方する。

《作って歌う》のではなく、《歌いたい歌を歌う》。
それはすなわち、歌いたいことがあって自作自演してきた30余年、《エレファントカシマシという形式》では実現できなかった、エンターテイナーと自称する《歌手》としての原点。


“今宵の月のように”
新春2022でも野音2022でも歌われなかった歌。

一瞬にして時空を超え、走馬灯のように遡上した《エレファントカシマシの宮本》がそこにいた。
その佇まいは、ガサつきと伸びやかさが絶妙に共存する若かりし日への郷愁とともに、‘もう二度と戻らない日々を俺たちは走り続ける’ という現実を衝きつける。歌声が、《ソロ歌手・宮本浩次》のものだったから。
だがその響きは、過ぎてしまった時間を悲しむとか悔やむとかではなく、戻れないんだから進むしかないという、止まることのない時の流れへの身の委ね方を改めて教えてくれた。不可逆の時を生きている肌感覚と、その時の流れを潔く受容する果敢さこそ、縦横無尽ツアーのキモだったのかもしれない。(だから “yes. I. do” を聴いて感激したのだ。‘流れる時に抗うわけじゃない’ と力強く明確に歌えているのがとても嬉しくて。このことはいずれ書きたい。)

代々木のステージ上にいたのは、10歳の時と同じ自分、と言う。
合唱団の少年は、唱歌やクラシック、近現代の合唱曲、その他のたくさんの歌を、誰かに歌ってもらうために作詞作曲され、歌い継がれてきた歌を歌っていたはずだ。自作の歌ではなく。

カバーアルバム『秋の日に』は、カバーコンサート「ロマンスの夜」への招待状。
《エレファントカシマシの宮本》と《ソロ歌手・宮本浩次》。
モヤモヤの果てに収束して融合したかに見えたプロセスは、彼の中では立ち位置と役割がはっきりと分離していく道だった。またしても、逆ベクトルが発動するメビウスの輪。
『秋の日に』と「ロマンスの夜」は、35周年を「白紙」で迎えるために必要な儀式だったのかもしれない。


何が本当にやりたいことで、何が本当はやりたかったことで、どれが本当の姿で、なんてものはない。
今の自分を歌いたければ自分で作詞作曲するし、歌いたい歌があればカバーもする。
でも、いつだって今の自分を越えたくて、そのために歌っているひと。
歌いたい歌を歌いたい、それだけなのだ。

俺は歌手ならば歌えよラスト・ゲーム 勝負しなよ

“ラスト・ゲーム”




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