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世帯収入と食生活の非情な関係 ~子ども食堂の在り方なども~

食べることというのは日々の楽しみであり、働いたり遊んだりする気力を沸かせてくれるものである。

しかし、世帯によってはこの食事すらままならないことも大きく問題であり、このコロナで多くの貧困世帯を救うべく、フードバンクの拡充などが叫ばれ、その取り組みが進んでいる。

コロナの影響で行き場を失った食品の多くが、福祉施設や子ども食堂に対して多く寄付として送られているニュースも多数目にする。

この動き自体は、緊急のものとして、必要であると思う。しかし、この動きがかえって子ども食堂をそのまま固定化することに繋がってしまわないか、ということが私の危惧することである。

かつて私も大阪の生野区の子ども食堂支援に奔走していたことがあり、大阪府内の農家が多く賛同してくれて、定期的にカレーを出すことを行った。場所を提供してくれたお店が地元の社会福祉協議会などに声がけもしてくれたほか、無添加無化学調味料のカレールーを商品化し、売り上げの一部を子ども食堂運営に充てる企画も手伝った。

時は流れてそこから7年以上になる。子ども食堂の数は全国的に増え、泉佐野市などでは業務委託として子ども食堂の運営が目指されたこともある。

しかし、こういう傾向が良いとは思わない。

本来、貧困世帯が食生活にも困る状態が「続いていること」自体が異常なのである。貧困世帯が発生してしまうこと、その「一時的支援」は必要だ。いわゆるシェルターもそういう意味で存在し、「貧困から脱出するための、仕事紹介などの各種支援」がそこから始まるのが常である。しかし、以前も別の記事で指摘したが、日本では貧困から脱出するための支援のヒューマンパワーも仕組みもお金も非常に足りていない。(だから子ども食堂で提供するメニューも限られてしまうところが多い)

多くの子ども食堂のできていないところは、シェルターとしての機能からの先が見えていないことだ。もちろん、目の前で食事すらままならない子どもへの支援をしなくていいのか、ということではない。そこで教育や生活のための支援をどうつなげられるかということをしなければならない。もともと、池袋の近くのとある施設で始まった子ども食堂も、本来は貧困世帯の子供への「寺子屋」の取り組みから始まったのだ。

行き場を無くした食材を福祉的に使う、ということ自体は今は必要なことかもしれない。しかし、この取り組みが美談として扱われることは不安を感じる。貧困世帯がいても、こういうことがあると「食える」ことができるではないか、という気持ちを醸成させてしまう。本来は違うのだ。貧困世帯がないことが目指すべき方向なのだ。

先日、とある友人と話をしていて、「それなりの教育水準の家の子ども達はかなり魚好き多い気がする」という発言を聞いてはっとした。

所得弾性値がこのへんの証左になるのだが
・時間ない世帯(夜勤や仕事が不規則で食事の時間が安定しないことも含める)→惣菜、肉系ばかりの食生活。お菓子屋ジャンクフードも多い。
・お金ない→コンビニ食になる(魚少ない。種類も少ない)
・狭い家で住む→キッチンも狭く、魚を捌いたりするような場所の余裕もない包丁の種類も揃えられるわけではない。

普段の食生活が色褪せたものになってしまう、また種類も少ないことは、子どもにとって大きなダメージが残る。様々なものに関する興味を持つべきところに、興味が持てないものばかりになる。

食生活と文化度は、収入格差≒教育水準というところに猛烈に関係しているということだ。

上記の記事は2014年と古いものではあるが、ここに書かれていることが着実に日本にも近づいている。

先の友人は、「何処かで食い止めないと、もう二度と取り返せないことになりそう。アメリカ的な一発逆転なチャンスや本当に優秀で貧しい子へのサポートもないし、自己肯定感育てるような教育もしてないから這い上がれない」と指摘する。

「Given な不幸を跳ね飛ばすメンタリティを授け、どんなところでも自分の意志をかたちに出来る力を与えるのが教育だ。金持ちだろうが貧しい家だろうが、いろんなしがらみや苦労は必ず何某かある中、そういうこと言い訳にしない生き方を教える教育が要る。じゃないと、誰かを悪者にして生きてしまう。それでは幸せになれない。」もっともな話である。

しかし現実では、世にあふれるプぺる人々とかyotubeで知ったかぶりなことを教えていい気になっている人々が、『不幸を跳ね飛ばすメンタリティを授け、どんなところでも自分の意志をかたちに出来る力』を授けているように錯覚させることでお金を儲けているような気がしてならない。

友人は続ける。「備わっている才能みたいなものをちゃんと引き出す努力が初等教育においてかなり大事なのを感じる。英才教育が必要なんじゃなく好奇心や探究心は好きなことから身につけるのが1番楽で、そこの有無で人生が大きく変わるなって。貧しいとたしかに不利さはあるけど、お金をかけなくても本来小学校幼稚園の教諭で種蒔きはかなりできるはず。親に期待できないなら公教育がも少し非認知能力にフォーカスしてあげて欲しい。」

ちなみに彼女の家の子供は慶應幼稚舎に通うのだが、「諭吉も金持ちの家じゃないけど母が教養ある人だったから立派になった。その原点は非認知能力だなって思う(確かに、福沢諭吉先生の父親は貧しくても学びを大切にしていた。上輸条例という本が手に入ったその日に生まれたので諭吉と名付けたという逸話もある)。慶應幼稚舎は知的好奇心を唆らせる仕掛け満載である。図書館の蔵書もたくさんだしちっちゃな博物館もある。お金あってもICTにばっかりじゃない。小さな子どもは実体験からしか開かれないということを大切にしている」

しかし、だとすると持てる世帯ともたざる世帯の差は開く一方である。

大切なのは、少なくとも子どもに多くの「実体験」を与えることだと思う。そのために、子ども食堂に食材を供給していく、運営者を募るということは差を開くことを助長させてしまう結果がありうるにしても、差を縮めさせる機能は今現在ではない。

食に関しての知識や知恵を習得する場所であったり、興味を持ってもらう場所にできないものか。自分たちで料理し、自分たちで食べていくことだってできるかもしれない。

愛媛県のとある地方でやっていた魚屋の食育の取り組みで面白かったのは、3歳の子どもでも包丁を握って魚を捌いていたことがある。

料理をする、というのは段取りを考えたり色合いを考えたり材料のお金を計算したり、調味料のことを知ることなど、頭を使うことである。料理が苦手、料理に手間を取られたくない、という声は大きいが、要は頭を使いたくないということである。もちろん忙しい大人に頭を使えというわけではない。忙しすぎるとパンクして心がダメージを受ける。だから、大人は楽をしていい。貧しい世帯の親であればなおさらだろう(余裕が生まれることで、少しづつ考え方が変わる人は多いのだ)。ただ、子どものうちに様々なことに頭を使うことをさせることは新たな可能性をその子に与えることに他ならない。貧困を脱出させて、自分の生きる力をつける機会を提供していく取り組みが増えることに、自治体や、貧困支援の活動の方向がもっと充実してほしいと思っているし、そういう仕組みづくりを手伝いたいと思う。

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