正倉院にある尺八は、 節が三本あり、前に五つ、後ろに一つの計六孔。
古代尺八、もしくは雅楽尺八と称されている。
その頃の尺八は、盛唐期の宴饗楽・讌楽用の楽器の一つとして我が国に伝えられ、これによって吹奏された音楽は当時の中国音楽・唐楽であり、其の演奏者は大陸からの渡来人や帰化人とその系統の楽人であった。
大陸から遠路はるばる日本にやってきて演奏していたということだ。
古代尺八は、前に投稿した紫式部の『源氏物語』にも登場します。
そして、伝えられた唐楽は仏教や外来文化を積極的に取り入れて基盤を構築していった。
しかし律令国家の破綻が進む中、雅楽も衰退の一途を辿り、古代尺八も次第に使われなくなり、平安期を最後に姿を消す…。
とうとう古代尺八消滅です!
7世紀半ばから官僚制度が!そしてピラミッド型の身分制度が出来上がって行くのですね…。
鎌倉時代から室町時代にかけての所謂中世は、芸能史的にみても、貴族社会を中心とした芸能が衰退して行く一方で、庶民の中から新たな諸芸能が誕生し発展していった時代であり、猿楽、田楽、狂言、平曲、風流、今様など、続々と姿を現す。
この頃から、平安時代の雅楽で使用された古代尺八から、一節切へと変化し、民衆の手によって、猿楽法師や田楽法師などに楽器として使われるようになった。
来ましたよ。我ら庶民の時代が。
猿楽法師と尺八
「散」という読みが「猿」になった説、モノマネ上手な猿をかけた説、猿に扮してた説、いろいろで「猿」になっちゃったみたいです。
この散楽が宮廷楽伎の一つとなったが、律令体制の破綻に伴い、廃止となる。ところが、散楽戸の廃止によって、むしろ各方面に分散し発展を遂げたともいえるとのこと。
かつてのエリート散楽師達は賤民猿楽法師へと落ちぶれてしまう!
後々、時の権力者に愛好され発展していったようです。
猿楽が演奏する尺八という構図の絵画は残されていないようですが、猿楽の伝書に「尺八」という言葉が記されています。
『世子六十以後申楽談儀』
通称『申楽談儀』は室町時代に成立した、世阿弥の芸談を筆録した能楽の伝書、芸道論。
永享2年(1430年)11月、世阿弥の次男で、観世座の太鼓役者であった観世七郎元能が、父がこれまで語った芸談を筆録・整理して、世阿弥に贈ったもの。
「世子」とは世阿弥の尊称で、「六十以後」とあるように、観世大夫(シテ方観世流の家元)の地位を長男の元雅に譲り、出家した60歳より後の世阿弥の芸論を伝える書である。
世阿弥とは、
↓こちらに、将軍との関係、次男観世七郎元能のことなど詳しく書かれています。
この頃は、平安時代の雅楽で使用された古代尺八から、一節切へと変化し、民衆の手によって、猿楽法師や田楽法師などに楽器として使われるようになった。
猿楽では、どのように一節切が使われていたのでしょうか。
まずは1箇所目。
尺八の能に、尺八一手吹き鳴らいて、かくかくと謡ひ、やうもなくさと入る、冷えに冷えたり。
<訳>
この曲で、僧阿は尺八を吹き鳴らし、はっきりと力強く歌い、何ごとも無かったように楽屋に入ったのは、さびきった深い味わいがあった。
増阿とは、生没年不詳ですが、世阿弥と同じ頃活躍した田楽師。猿楽師にも増阿の芸風は評価されていたようです。
2箇所目。
(前略)内にての音曲には、坐段し、右に扇を持て、左には尺八を番へられしが、尺八の口を衣の袖の内に引き入れ、お指にて衣の袖の口を押へられし也。
<訳>
彼らは、仕舞をせず、屋内で着座して謡う場合は、右手に扇を持ち、左手には尺八を袖の内に入れて携帯し、指で袖口を押さえていた。
こにらは、田楽師か猿楽師かどちらのことか分かりませんが、猿楽師らも節取り、つまり音取りに尺八を用いたのであり、当時の猿楽では扇と共に重要なものであったそうです。
「能は室町時代に大成した」と言われており、中世の芸術論にまで書かれているくらいなので、相当洗練された芸能であったのが想像できます。
復活!猿楽with尺八とかやったら面白そう。
『職人尽歌合』 には、猿楽と共に田楽も描かれています。彼らも尺八の担い手として室町時代初期に活躍します。
以上、
猿楽と、『世子六十以後申楽談儀』に登場する中世の尺八でした♪