「かっちゃん」が消えた日
転職活動を決意してふと思うことがある。
もし今の職場を退職することになったら、私を好いてくれているパートのマダムたちはどんな反応をするだろうか。
ショックを受けるだろうか。
きっと私と一番親しくしてくれているMさんに至ってはストライキでも起こすんじゃないか、などと自意識過剰な妄想をしてみる。
そんなことを考えながら出社したら、なんと今月の出勤簿にMさんの名前が無かった。
私よりも先に辞めてしまったのか。
しかも何も言わずに。
よくよく考えたら同僚にいちいち退職の報告をする人なんて稀なので、そっと辞めていくのは自然なこと。
まあ、そんなもんよね。
Mさんが退職手続きをした形跡がどこにも無かったのが少し気になったが。
今日も暇である。
ボーッとパソコンの画面を眺めるだけの、無駄な時間が過ぎてゆく。
何もせずにお金が稼げてると思えばそこまで苦ではないが。
「容さん、ちょっとお話が」
上司に呼ばれた。
心当たりはある。
3日前に苦手業務でまたミスをしたから、その説教だろう。
ああいやだ。
別室に連れて行かれてソファー席に座る。
「驚かないでほしいのですが、先日、Mさんが亡くなられました」
驚かなかった。
悲しくもなかった。
頭の中が真っ白になることもなかった。
私は冷静だった。
「なるほど、それで出勤簿に名前が見当たらなかったのですね。ではMさんが担当していた業務はどのようになりますか?」
「別の方を補充します。容さんが集計をしてくれている仕事なので、今から説明します」
話が終わって自分の席に戻った。
相変わらず暇だ。
しらばくすると謎の不快感に襲われた。
心がぞわぞわするのだ。
私の祖父は耳が遠く、弱っているのが目に見えてわかった。
亡くなっても「そうだよな」としか思わなかった。
祖母のときは最終的に認知症になったので、これも納得だった。
Mさんは……高齢だがいつもおしゃれをしており、喋り方もハキハキしていた。
背筋もピンと伸びていた。
私のことを「かっちゃん」とフランクに呼ぶのも社内で彼女だけだ。
たったひとつしかないお菓子を「かっちゃんにだけあげる。みんなには内緒ね」と背徳感満載でくれるような、お茶目な一面もあった。
一切、『死』の予感をさせない『死』だった。
現代人はわりと死にたがりが多い。
社会に適応できない、生活が苦しい、いろんな理由で死にたがる。
私にしてみたら安楽死したいとか言わずにとっとと死ねばいいのに、としか思わない。
冷たいだろうけど本当に死にたい人は手段を問わず実行するから、死にたくても死にきれないとほざくのは所詮ただの構ってちゃんなのだ。
そんな私にも死にたがりな時期はあった。
Mさんのことがあっても当時の私のことを馬鹿だとは思わない。
死にたがりは決して愚かではない。
生きたくても生きられない人もいるから云々と言うのはナンセンスなのだ。
いろんな考えの人がいる。
それだけの話。
ベテラン事務の女性が私に声をかけた。
「容さんとMさん、とても仲が良かったのにね。ツーカーの仲だったから残念ね」
そうか、側から見ても私たちは仲良しだったのか。
でも私は悲しくない。
心がぞわぞわするだけ。
それともこれが悲しいということなのか?
私にはわからない。
祖父母が亡くなった時だってこんなぞわぞわは感じなかった。
死にたがりだった私が同じ状況になってもMさんをうらやましいとは思わないだろう。
かといって気の毒とも思わない。
今もそうだ。
ただ心がぞわぞわする。
ぞわぞわの正体がわからぬまま私は仕事を終えた。
何も変わらない1日だった。
仕事が暇なのも変わらない。
転職する意志も変わらない。
帰りに立ち寄ったスーパーで牛乳が半額になっているのを見つけてガッツポーズしたのも変わらない。
ひとつだけ変わったことと言えば、職場で私のことを「かっちゃん」と呼ぶ人がいなくなった。
それだけだ。
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