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ともだちのみのり

ともだちってなんだーっけなんだっーけ

そんな歌がありましたよね?

友だちってなんでしょうね?

離れた友もいれば、新しく出会う友もいる。

いつからか親友という表現をしなくなった自分がいます。

はっきりとした理由があるわけではありませんが、親友という表現が、友だちを線引きするような気がして自分の中で収まりがつかなくなったからなんでしょう。

改めて問います。

何をもって私はだれかを友だちだと思うのか。

『積み重ね』です。

相手と積み重ねた何かが私の中で少しずつ重くなって、その重たさに心地良さを感じたら、私はその相手を友だちだと認識するのです。

積み重ねるものには、いろんな要素があります。


まずはいわずもがな、年月です。

いっしょに過ごした時間には、お互いの想いが交錯します。

交わることで、離れている時も存在がそれぞれの心に宿ります。

空を見上げてふと想いを馳せる。
スーパーで見かけたお菓子にくすりとする。
ハンドルを握りながらエールの歌を口ずさむ。

重ねた時はなくなりません。


つぎに、ことば。

言葉はとても扱うのが難しいものです。

意図しているか否かに関係なく、人を励ましたり、傷つけてしまうからです。

そして明確に意図しても、どう受け取るかは相手次第になってしまうものでもあります。

それでも、人は「言葉」という交流の道具を手放すことはしません。

自分の思いを表せる最も簡単な方法だからでしょう。

声に出す。文字にする。それだけです。

けれど、簡単だから選ぶのではなく、言葉の力をみんないつの間にか知っているから言葉はなくならないのでしょう。

おかあさんのおはよう。
映画で流れたひとつのセリフ。
自分を鼓舞するかけ声。

何年も何十年も言葉に励まされ、言葉に傷ついて、言葉の中で生きています。

その簡単で難しい言葉のやり取りを続けていくと、その人の言葉の裏側もクセも見えてきて、表側の言葉をより上手く受け止められるようになります。

そうすると言葉のやり取りがとたんに楽しくなるのです。

お互いが怠けないで言葉を自分なりに大切に扱ってきたご褒美なんだと思っています。


最後は、なんとなく。

理由なんてありません。

なんとなくこの人が好き。

なんとなく仲良くなりたい。

なんとなく…友だちになってほしいな。

そんなもんです。

自分が培ってきた「なんとなく」はそう外れるものではありません。

なんとなくという『感覚』は心を平たくしてみるとさらに研ぎ澄まされます。



そんなふうにして私には友だちが生まれます。

そして、noteで出会えた友だちが夢を叶えるために奮闘しています。

少しばかりの応援をしたいと告げると、喜びながらも「かすみさんはスプラにしか興味がないのかと思ってた」と返ってきました。

だから、「スプラにしか興味はないけれど、友だちががんばってるのを応援することに理由はないよ」と答えました。



いつからでしょうね。

おだんごさんが私の「友だち」になったのは。

3つすべてが揃っています。

ビンゴですね。

ここに来たばかりの頃、抱えてきた苦しさを隠しきれず書き落とすことがありました。

そんな私になんとなく近寄ってくれて、文章の合間からこぼれた気持ちを拾って、「書きなよ。読むから。」と背中を押し続けてくれました。

さらに、こわばっていた背中に「自由であれ」と羽をペシッとつけてくれたのです。



たくさんの『くれた』が、時を経て熟成された今、私はスプラざんまいの日々です。


おだんごさんが言うのです。

「スプラにしか興味がないでしょ」と。

あの頃の私を知っている友だちが、スプラばかりの今の私を微笑ましく想ってくれることが伝わってきます。


これだから人と交わるのは面白い。


互いに積み重ねたいろいろは己の誇りへと変わります。


私はだれかとつきあうことにおいて、大切にしている考えがあります。

『つながるご縁もはなれるご縁も同じご縁』

繋がることが良いことでも、ましてや離れることが悪いことでもないのです。

積み重ねたことはそれぞれの実りとなります。

その実を懐であたためてもいいし、ほおり投げて描く弧を感じてもいい。

誰のものでもなく自分の実りです。

相手がいたから得た実りです。



この実りに感謝して、エールを送ります。

文フリが無事に迎えられますように。

そこでたくさんの笑顔と出会えますように。

私も行きます。



これからもよろしくね。

ともだちたち。

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