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不思議ちゃんに冷たくしない「不思議な先生」

中学生二年生の春、私は人生の暗黒期に突入したかのような日々を過ごしていました。

家族も、友達も、学校の先生も、周りとは違いすぎる私の個性を、とても心配していました。

そして、それを、どうにかして矯正しなくてはと、熱心になり過ぎてくれていた時期でした。それは、私のことを想いやっての行動でした。

私は周囲の人たちの優しさと熱い想いに応えたい気持ちでいっぱいでした。

しかし、私は、彼らが求める「普通の子」になることができず、私のために手を差し伸べてくれた人たちを悲しませてばかりいました。

周囲の熱心で優しい人たちが、私への僅かながらの期待を、失望に変える度に、私は自分の人生に絶望を感じていきました。

「こんな私は存在している価値がない」
「いや、むしろ、存在していないほうがよい」

当時の私は、大袈裟ではなく、本当に、人生の暗黒期に突入していました。

その頃の私は、周りに迷惑をかけてばかりだったためか、それまで一度も話したことがない同級生や学年が違う人たちからも、冷たい視線を送られたり、心ない野次を投げかけられたりすることがありました。

少し前までは「不思議ちゃん」と面白がってもらえる存在だったのに、私はいつの間にか、学校中の嫌われ者になっていました。

私も、そんな自分が、嫌いで仕方ありませんでした。

そして、そんな真っ暗な日々を過ごしていたとき、学校中の嫌われ者だった私に、好意的な言葉をかける珍しい人が、一人だけ現れました。

それが、前回の記事でも、その前の記事でも、書かせて頂いた「私がずっと憧れ続けている人」です。

それは、当時、美術と家庭科を教えてくれていた伊原先生(仮名)という女性の先生でした。

伊原先生は、とても不思議な先生でした。

というのも、伊原先生は、私と出会ったばかりの頃から、なぜか私のことを「さーちゃん」と呼んでいたのです。
私はこの呼び名になかなか馴染めず、「さーちゃん」と呼ばれる度に、なんだか気恥ずかしく、身体がフアフアするような感覚になっていました。

その頃の私は、普段は友達からは呼び捨てで呼ばれることが多く、ほかの先生からも「さーちゃん」と呼ばれたことなど一度もなかったからです。
そのため、私は不思議ちゃんのくせに、伊原先生のことを、とても不思議な先生だと感じていました。

そんな伊原先生は、私の母が中学生だった頃も先生をしていたくらいベテランの先生でした。

というより、私の母も、教わったことがある先生でした。

実は、私の母がよく話していた昔話に登場する先生が、この伊原先生だったのです。

私の母の昔話は、要約すると、次のようなものでした。

家庭の経済事情により、小学生の頃から、アルバイトをする必要があった母は、中学時代もアルバイトをしなければならず、登校をする日も少なかった。

だが、定期試験の直前には、独学で勉強をし、学業の成績は常に上位だった。
なかでも美術の成績は特によく、大きな賞に選ばれることもあった。
当時の美術の先生は、母が美術の大学へ進学することを前提に接してくることもあるほどだった。

そのため、その先生は、卒業式の日に、母が高校へも進学せず、中学を卒業してすぐに働き始めることを知り、とても驚いていた。

母の昔話は、概ねこのようなものでした。

幼い頃から働いていたことや学業の成績がよかったこと、なかでも美術の成績がよかったことは、母の自慢の昔話でした。

そして、この話に登場する美術の先生というのが、実は伊原先生だったのです。

ところが、伊原先生は、私の母のことは、あまり覚えていなかったようでした。

そのかわり、母の妹である、私の叔母のことをよく覚えていました。
叔母が美術部に所属していたことを、私は伊原先生から聞いて初めて知りました。

私は、叔母とは数回しか会ったことがありません。そのため、詳しい叔母の経歴は、存じ上げておりません。
ただ、母や親戚の人たちの話によると、私の叔母も、どうやら、自宅では普通の声で話せるのに、学校ではそれができない幼少期を過ごしていたようでした。

もしかしたら、伊原先生が私のことを「さーちゃん」と呼んでいたのは、私が叔母に似ていたからなのかもしれません。

出会ったばかりの頃は、ただ不思議な先生だと感じていた伊原先生が、実は、宿題を忘れ続ける私に好意的に接してくれたように、ほとんど学校に顔を出すことがなかった母にも、学校ではあまり喋ることができなかった叔母にも、優しく関わってくれていたことは、その後、かなり時間が経ってから分かったのでした。

そんな伊原先生は、前日の宿題を終えていない生徒が集まる教室に、監督の先生として、度々やってくることがありました。
私はそこで初めて伊原先生と関わることになりました。

伊原先生の不思議なところは、私を「さーちゃん」と呼ぶだけではありませんでした。

伊原先生は、その教室で私と会う度に「あっ!今日もさーちゃんと一緒だ。嬉しい」と喜ぶのでした。

宿題を何度も忘れている生徒には、冷たい視線を向けたり、説教のようななにかを投げかけてきたりする先生が多い中で、伊原先生のそのリアクションは、とても珍しいものでした。

私は、伊原先生には、なぜか好かれている。
少なくとも嫌われてはないない。

世界中の嫌われ者になったような気分でいた私にとって、その事実は、私の語彙力では表現しきれないくらいの、とてつもなく大きいなにかでした。

そして、この伊原先生との出会いが、私がいまの職業を選択する大きなきっかけとなっていきました。

【記事の本文は以上です】

以下はこの記事のクリエイターである私からの挨拶です

こんにちは。
私の中学時代の物語をお読み頂き、ありがとうございます。

伊原先生は、宿題を忘れてばかりいた私のことを、決して叱らず、いつも優しく、明るく声をかけてくれました。
そんな伊原先生は、いまでも、ずっと私の憧れです。

次回は、そんな伊原先生の人柄がさらに伝わるエピソードを記事にまとめる予定です。楽しみにして頂けたら嬉しいです。

次回の記事の見出し画像です

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次回は6月15日(土)に更新予定です🍀

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