セルフレビュー「私を愛するということ、世界を愛するということ、誰かを愛するということ」
下記の論考に対する自己批判です。
2024/5/8
独我論の懐疑と社会性
ここから、すべての情報を懐疑する独我論の懐疑は社会的なコミュニケーションのレベルに持ち込むことができないという帰結が導かれる。
その懐疑は他者の存在を懐疑するが故に矛盾なしにその前提(世界はすべて夢ではないか?)から他者とコミュニケーションを行うことができない。独我論者は正しくその論理に従うのであれば、この私(世界)を手放すが故に、この世界(私)を手放さなければならない。
それは我を捨てるということに繋がりうる点で(それにより自身と世界の境界を捨て去り、逆説的に世界と合一するだろう)、個人が抱くことに意義のないものではない。しかし、それを論駁できないことを持ってこの世界のルールを踏み倒してもよい根拠にはならない。それを持ってこの世界の真実を歪めることはできない。
独我論は個人がひとりその懐疑を抱いている状態を何者にも論駁することはできない。しかし、それを社会性のレベルに持ち込むこともできないのである。
相対主義者の真理と社会性
独我論の懐疑について言えることは、プラトンやアリストテレスがイデアや実体によって論駁しようとした相対主義者の真実にも言えるかもしれない。
相対主義者の真実、真実は人それぞれと言うとき、それはある意味で正しいことを述べている。
ある人にとっての世界、その関係の総体は他の人とは異なり、そのまるごとの世界すべてを人は共有できない。それはその人にとっての世界そのものであるという点で一つの真理でありながら、各人によってそれぞれ相違する。
その単独の世界はその総体を、他者と共同で創造する言語の世界に持ち込むことはできない。関係の総体(単独性)と言語は互いに影響を及ぼし合いながら、しかし、それらは互いに互いを完全に内包することはなく、互いに対して外部性を有している。
言語は一つの関係の体系であり、人の関係の総体の一部である。それは人の関係の仕方をある程度は定めるだろう。しかし、言語は決して人の持つ関係の全てではない。
もしも言語が関係の全てであれば、それは神の言語である。なぜならそうであれば、言葉がこの世界を創造し、言葉がこの世界であり、語り得ぬものは文字通り存在しないということなのだから。あるいは、言語はたとえば、熱湯につけられた手の熱に対する反応を制御することはできない。その関係は言語にとっての外部である。
あるいは、単独性は言語によってそのすべてを他者に伝達することができない。私達は完全に他者に成り代わることはできないし、誰かを自分にすることはできない。単独性は言語の限界を超える。
相対主義者の真実(関係の総体、各人にとっての世界が人それぞれで異なるということ)はそのすべてを言語によって語られる真理のうちに持ち込めない。逆にまた、言語によって語られる真理も、ある一者の単独性のすべて(関係の総体のすべて)を含むことはない。
相対主義者の真実は、それのみで生きるのであれば、言語による他者との関係、社会性を放棄しなければならない。相対主義者の真実は言語によって語られる社会的なルールや真実を踏み倒していい根拠にはなり得ない。
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