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私を愛するということ、世界を愛するということ、誰かを愛するということ

 自己の同一性と世界が同じこの世界であることの同一性はコインの表と裏のような関係にあり、それらは岩井克人が現存在について述べたように、循環論法のうちにある。世界がこの世界であることは、私がこの私であることに基礎づけられ、私がこの私であることは、世界がこの世界であることに基礎づけられる。私がこの私であったから、世界はこの世界であるのであり、世界がこの世界であったから、私はこの私であるのだと。

 なぜ私は他でなくこの私なのか、なぜ世界は他でなくこの世界なのか、という問いはこの循環論法によって答えるほかない。それはつまりはどちらも私と世界という、関係の総体を問題としているからである。それらはそれぞれ、世界がこの世界であること、私の関係の総体がこの関係の総体であること、また、私がこの私であること、この関係の総体によってこの私があることを問題とする。私にとって私の関係の総体の外側に情報はなく、物理的な関係もない。よって、この私とこの世界、その関係の総体はその関係自身によって循環的に支えられる。

 独我論の懐疑によって、すべての情報(関係)を懐疑することは、私もしくは世界のどちらかを失い、両方を失うことに等しい。しかし、おそらくこの循環論法は独我論の懐疑を経なければ、気づくことは難しい。それなしに、丸ごとの他の私、丸ごとの他の世界を想像するのは困難だから。独我論の懐疑、関係の外部への志向はすべての関係を懐疑する、その外側を志向するという点で、問題の構造を、関係の総体という問いの対象を共有している。この私がこの私であること、この世界がこの世界であること、それは論理的には一つの不条理でありながら、私の単独性を創り出すもの。

 そのように見られた世界と私は紛れもなく単独的である。関係の総体はそれぞれの世界内存在者にとって異なり固有であり、それをたとえば他者のものと入れ替えることはできないからである。それはその丸ごとを他者に伝えることができない。それは伝えるということ(一つの関係の末端から他の末端に伝達すること)に反する。故にそれは言語の外部である。それはただ私と世界がそうあるということだから。それはイデア(抽象)の世界に反する。何ものをも捨象せず、すべての関係を考慮するから。

 そして、以上の認識からすれば、自己を愛する人は世界を愛する人、自己を肯定する人は世界を肯定する人なのだと言える。なぜなら、その人は自身と世界の関係のすべてを愛しているのだから(世界の中で自分だけを切り取って愛しているわけではないことに注意してほしい、それはむしろ地獄である)。この世界を肯定することと、この私を肯定することは同じことなのだ。故に、対象に応じてある程度の差はあるだろうが、自己を愛する人は必ずすべての他者(世界)への普遍的な愛を有する。逆にまた、自己を愛せない人はこの世界に満たされることがないだろう。自己を愛すれば必然的に世界は満たされ、世界を愛すれば必然的に自己は満たされる。自己を愛せなければ必然的に世界は満たされず、世界を愛せなければ必然的に自己は満たされない。

 あるいはまた、以上から私がこの私であること、私の単独性は他者にとっての関係の外部であると言える。逆に誰かが他ならぬ誰かであること、他者の単独性はまた、私にとって関係の外部である。つまり、他ならぬ誰かを愛するということは、論理(比較)の限界を超えるのである。

 あるいは、自らの根源的無知(関係の外部)を認めない愛に自由はないのだ。


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