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『VORTEX ヴォルテックス』我が身が宿る場所と、その終り

ほぼ一貫して画面は二つに分割されており、それは分かりやすくこの映画が描きたいことを示している。つまり”意思疎通の不可能性”である。

心臓に持病を抱えた夫と、認知症を患っている妻。日に日に妻の症状は悪化していき、離れた場所に住んでいる息子は幼い子どもがいるにもかかわらず薬物依存症でもあり、容易に頼ることも出来ず、徐々に生活は限界へと近づいていく。

真ん中で綺麗に分かれた画面の片方には夫を、もう片方には妻を映し(たまに息子単体で映ることもある)、老いた夫婦の生活が描かれる。彼らが住んでいるアパルトマンにはそこら中に本が積まれていて、会話から察するにそのほとんどは夫の物のようだ。映画評論家でもある彼は執筆活動を生業としているが、徐々に妻の認知症は悪化していく。
画面はそれぞれの営みを別々に映し、これによってすぐ隣にいる、長年連れ添った、最も理解しているはずの相手が、まるっきり他人でしかないことを見せつける。いや、他人はちょっと言い過ぎか。でもここで見えてくるのは、近しい間柄の人間で、目の前にいて話している相手であっても、そこで見ている風景、感じていることはまったく違うというひどく”普遍的”なことなのだ。

夫は妻の認知症の症状が進行していっても老人ホームに入ったり、デイケアに頼ることは拒否し、出来もしない(というかそもそも自分ではあまりやろうとしてるようには見えない)介護をすると言って聞かず、アパルトマンに居続けようとする。なんせその場所は彼が時間をかけて築き上げてきた場所であり、書斎にたくさん並んだ本からは彼の人生が垣間見える。悲しいのは妻にとってそれらは大して大事なものでは無いようで、認知症の影響もあり、夫が書いたものや本なんかを細切れにしてジャーっとトイレに流してしまう。濁って詰まったその汚水は、二人の限界に近い状態そのもののようにも見えるし、認知症によって靄がかかった彼女の頭の中を表しているようにも見える。

この映画ではわかりやすくすべての状況を説明はしてくれない。映画は始まった時点ですでに彼らの「老い」を(ちょっと露悪的に感じるほど)執拗に捉えており、息子を入れた「会話」を通して、彼らのおかれた状況がなんとなく分かるように作られている。
元精神科医であった妻はきっと夫を支えるために色々と苦労をしてきたのだろう。自身が認知症であることを何となく理解しているからこそ、もはや自分が夫にとっても息子にとっても”重荷”にしかならないと考えてしまう彼女の姿はなんと痛々しいことか。
対して夫は妻を愛している気持ちは持ちながらも、「愛してる」という言葉をかけながらも、別の女性との関係を維持しようとする。
ここで言いたいのは「だから夫が悪い」とか、「妻にも責任がある」とかそういうことではない。
画面の分割は人が人と意思の疎通を図ることの難しさ、いや、もっとはっきり言えば、本来は完璧にわかり合うことなど「不可能」だということを示しているのだろう。しかし時々、例えば息子を入れた三人で会話をするような場面では、画面が綺麗に繋がって(いるように見える)、通常の映画で見かける横長のシーンが出来上がる。ここでの彼らは確かに意思の疎通が瞬間瞬間ではあるものの出来ており、そのことはわずかながら救いのように見えなくもない。

人はひとりで生まれ、ひとりで死ぬ、本来孤独な生き物だ。でも孤独に耐えられる人なんて滅多におらず、ずっと分割されていた画面の半分が真っ暗になってからも、その不在が自分の一部であったかのように、何も映らない真っ暗な画面はそこに居座り続ける。残された側もまた、やがてこの世からひとりで消えることになるのは間違いないにもかかわらず。

とても悲しい映画だ。なんの救いもない辛い話だ。しかしこれは誰にとってもいずれ訪れる「老い」と「死」についての話だ。私には、あの片側に暗く居座り続けた画面が、残された者にとって意識しないレベルにある「拠り所」のようにも感じ、なんの救いもないこの映画におけるささやかな”支え”だと感じた。というかそういう風にでも見ないとあまりに悲しすぎてやりきれない。

少し角度を変えてみると、この映画は、映画における「フレーム」を意識せざるを得ない作品だ。二つの画面は、(ほぼ)同じ角度から撮っていても決して同じ映像になることはなく、繋がりそうにみえて繋がることはない。それは通常編集によって容易になされる”フィクションの世界へと入り込む”ことを拒む仕掛けともなっている。ちょっとしたシーンの切り替えごとに細かくプツプツかかる暗転も、これが編集された作りものであることを強調するかのようだ。通常の映画とも、ましてやモキュメンタリーとも違う悲壮感に満ちたこの映像作品。この作り方からは、監督の意図、というよりも監督が何に恐怖しているのかが感じ取れる。それは「場所」に対する執着と、「死」が持つ強烈なまでの孤独感。それらに対する恐怖だろう。二画面を別々に映すことで、登場人物の他者性はより際立ち、フィクションの外側、つまり隣に座って同じ映画を観ているその人もまた、異質な他者でしかないのだと、体験を「共有」することの不可能性を突き付ける。

実験的であり、悲壮感に満ちた映画ではあったが、その”痛み”や”恐怖”はひどく普遍的な感情だとも私は思う。
死を思い、死に近づくことで、その恐怖を受け止めよう。そのようなたたずまいでこの映画はある。いつか死ぬその時、あの暗闇は私の拠り所となってくれるのだろうか。

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