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【感想】山本浩貴「死の投影者(projector)による国家と死――〈主観性〉による劇空間ならびに〈信〉の故障をめぐる実験場としてのホラーについて」について

はじめに

掲題作を読んだので、感想をまとめようと思いましたが、僕が分かったことを僕の言葉づかいで書いても話をややこしくするだけでしょう。代わりに本文中の主な単語について、用語集的な整理を試みることにします。

誤解を避けるために述べると、この投稿は「試み」の域を出ません。僕は怖いものがすごく苦手だからです。

より詳しくいえば、僕はホラー映画をはじめとする恐怖体験のためのフィクションを冷静に面白がれないので、この論考で扱われた作品をたくさん視聴することには極度の抵抗と困難を伴い、多かれ少なかれ、読み落としや取りちがえがあるにちがいない、ということです(残念)。

掲題作(以下「この論考」といいます)は、著者の言語モデルと芸術観を下敷きにして、心霊映像をめぐる有名/無名の娯楽作品を題材に、異なる水準の社会現象について――国家権力から空間デザイン、組織経営、私的な社交の問題、内心の秘密に至るまでを――ひとつの抽象化されたロジックモデルで考察しています。

ごく大雑把にいえば、心霊映像の視聴者、撮影者、撮影機材、撮影地、被写体、映像(に映った幽霊)を論題にして、諸芸術(文芸、演劇、映画、ゲームその他のもの)に共通するフレームワークを記述しようとしています。

また、その語りの最中で、ひとがただ生きているだけで感じる「恐怖」に立ち返り、生存する特定の「個人」が遍在する無数の「死」を表現する方法はあるのかと問うています。

ちょっと不穏な言い方をするなら、この論考の問いの中心にあるのは「(死の)生き方/活かし方」であって、「(生の)死に方/殺し方」ではなさそうで、そこは僕の長らくの関心と似て非なるところかもしれません。

僕の感想は「終わりに」に5つ書きました。ホラー批評としての、あるいは文化論としての出来ばえは語れませんが、長らく多少の関わりを持ってきた(無名の)作家の1人として、著者(ふだんは「山本くん」といいます)の考えがひとつの一貫をなして固まりつつあるとは感じました。

その是非は本人のみぞ知るところですが、冒頭に引用されたヴィトゲンシュタインの生涯が示唆するように、著者も将来どこかでこのロジックモデルをみずから破壊し、または放棄するときが来るのかもしれませんね。

この投稿では次の16語を扱います。簡単な図示もやってみましたが、絵が下手で分かりにくく、使えなかったので、(かっこ内)に僕の「読み方」を付しておきます。拙著(『私的なものへの配慮No.3』)でも少し扱ったように、地球観測のためのリモートセンシングの用語を取り入れています。

  • 私(観測者)

  • 言語表現(観測活動および結果、または観測所)

  • 表現する(観測行為)

  • 主観性(観測条件)

  • 信(観測品質)

  • 肉体(観測装置)

  • 実験(観測内容)

  • 役(観測単位)

  • 媒体(観測方法)

  • 形式(観測特性)

  • 空間(観測環境)

  • 物(観測対象)

  • 法(観測環境の物理法則)

  • 物性(観測対象の情報量)

  • 霊(観測対象が発する信号)

  • 喩(観測値)

もちろんどれも僕による「読み」の域を出ませんが、他の方の役に立てばと思います。この論考の著述がかなりの分解能に達しているおかげで、この投稿もまた、表現に行き詰まったときに見直したいポイントをあらかた洗い出せてはいるでしょうから。

私と言語表現の関係

私(subject):知覚の主体を指す。実体を持たない定点であり、私が言語表現から何らかの情報を得るには、言語表現を行う肉体が、何らかの位置で、何かしらの姿勢(態度)をとらなければならない(例:椅子に座るときは背筋を伸ばす)が、必ずしもその時・その場にいなくてよい。自然科学でいう観測者。

言語表現(literaly arts):ある肉体が、ある媒体を用いて、ある空間に、何らかの意味(霊)を見出すことの総称であって、私の知覚対象となる一切のものをいう。別の呼び方に劇空間、劇場、お化け屋敷、場所、土地、実験場、アトリエ、国家などがある。私と言語表現のあいだには距離がある。自然科学でいう観測活動および観測結果であり、たまに観測所を指すこともある。

私と言語表現のあいだで起きること

表現する(project):ある肉体が言語表現を行うこと。もしくは、私がある肉体に、言語表現を行わせることを指すかもしれない。前者を上演、演技、パフォーマンス、後者を指示、演出、視聴などと呼んで区別することがある。表現には、声や歌など聴覚への働きかけもあれば、身ぶりやふるまいなど視覚への働きかけもある。色やかたち、匂い、手ざわりなどもある。自然科学でいう観測行為。

主観性(subjectivity):私が言語表現を行ったり、言語表現から情報を得ようとするときに生じる刺激(ストレス)のようなもの。あるいは、その刺激の働き(例:恐怖)。たぶん、向きや強さ、頻度、持続時間などを持つのではないかと思う。「霊」を目撃した肉体(を知覚した私)の情動(例:恐い)の性質(例:かなり)に類するようではある。自然科学でいう観測条件(とりわけ、観測方向)。

信(Belief):私が言語表現を望んだとおりに感じられること。あまりにも感じすぎる/ちっとも感じなくなることを「故障」といい、何らかの故障が起きる/起きうる状態を「呪い」という。「主観性の呪い」というときは、私がある言語表現から処理しきれないほどの刺激を受けていて、その働きを認知するのにひどく負荷がかかっている。自然科学でいう観測品質。

言語表現を形づくるもの

肉体(projector):言語表現の行為者と、その人物が持つ意識、感情、情動その他の感覚(例:恐怖)。いわゆるPOV(Point of View)であり、別の呼び方には投影者、語り手、撮影者のほかに、話者、プレイヤー、役者などもあるだろう。自然科学でいう観測装置。

ちなみに、私が言語表現を通じて肉体を認識するときには、肉体が媒体を通じて空間から情報を得るのと同じ動きとなるので、肉体は行為主体でありながら行為客体にもなる。どうやらこの状態を「肉体」の「霊化」と呼ぶ。

実験(a project):肉体は、何らかの役を与えられ、それに即した表現を行う。役の付与は「戯曲」と呼ばれ、戯曲に基づく表現は上演または「実験」と呼ばれる。ある肉体が実験を行うと、別の肉体の心とからだを動かしたり、動かせなかったりする。いくつかの表現を組み合わせたり、積み重ねることを総じて「実験」と呼ぶ。自然科学でいう観測内容。

役(role):言語表現の行為者が、どの媒体を用いて空間に働きかけるのかを定めた枠組み。空間を制御する「法」とは区別される。「役」が暴走したり、不可解となるのは「狂気」であり、限られた「役」しか与えないのは「差別」であり、「肉体」に合わない「役」を与えられることは「悲劇」である。自然科学でいう観測単位か。

媒体(media):言語表現を行う人物が、ある空間から情報を得るために用いる手段。画面、平面、カメラ、装置、道具などとも呼ばれる。ひとまず言語表現に登場する物のひとつだと考えたほうが分かりやすいけれど、「私」にとっては言語表現が丸ごと「媒体」なので、「私」は「媒体」内「媒体」を通じて「空間」内の「物」に接することになる。自然科学でいう観測方法。

形式(form):言語表現の行為者となる肉体が、媒体を用いるときの決まりごと。パターン、ルーティン、レイアウト、リズム、トーンなどはいずれも形式である。自然科学でいう観測特性。

空間(space, field, world):言語表現の対象となる(ということは、多かれ少なかれ、私の知覚対象となりうる)物の集まり。媒体に記録でき、肉体が感知できる諸事態の総和でもある。空間は法に支配される。たとえば、怪談空間には、何であれ「恐ろしいことが起きうる」という「法」が働く(たとえ起きなくても)。自然科学でいう観測環境。

空間を生成し、規定するもの

物(object):空間を形づくるすべてのもの・こと。私にとって、じぶんの肉体や、その肉体が持ちうる感覚、所持する媒体、他人の肉体・媒体もまた、言語表現の対象となる「物」である。自然科学でいう観測対象。

法(rule):ある空間にありうる物について定めた決まり。その空間がいつ、どこにあり、何があり、どのようなことが、なぜありえたのかを確定させる。ある肉体にそのすべては読み取り/書き尽くし切れない。私がそのすべてを知ることもできない。にもかかわらず、逆らったり、抗ったりできない。法は、残酷であり、運命とも呼ばれる。ある肉体の生死に関わるので、状態または潜在リスクとしての「戦争」とも呼ばれる。自然科学でいう物理法則(常識ではありえないことが起きる、ということも含む)。

物性(objectivity):私が言語表現(と、それを構成する肉体、媒体、空間)を通して、空間(や、それを構成する物)の動かしがたさや生々しさ、手ごたえその他の存在感を抱いたとき、言語表現(と、その構成物)には物性があるという。姿かたちのない言語表現が、まるでそこにあるかのように感じたり、そうとしか言えないように思えるときにも、その言語表現に物性が「宿る」と言うようだ。自然科学でいえば、観測対象が持ちうる情報量。

霊(???):私にとって、何かがその空間にいそうだ、いてもおかしくない、いたにちがいない、という気にさせる兆しや予感、確信、勘ちがい、見誤りのようなもの。この論考では総じて「効果」と呼ばれる。日常的には表現の「意味」を指すだろうが、意味内容(コンテンツ)や意味行為(コミュニケーション)と区別するために、この論考では「効果」と呼んだようだ。

霊は物に宿り、肉体が媒体を介して得た知覚において立ち現れる。必ずしも人物とは限らない。霊が宿る「物」が死んでいてもいなくてもよい。物性を知覚させるなら、その由来がなんであれ「霊」たりうる。実在を持たず、観測活動の過程でのみ遡行的に確認されるので、霊は私のようなものだ。自然科学でいえば、観測対象が発する信号(反応、無反応ともに含む)。

これはドイツ語でいう「Geist(ガイスト)」に近い用法だろう。「幽霊」と「精神」が同じ語で名指されているから。和語でいう「たましい(魂、霊、人)」にも通じるけれど、折口信夫の仕事のように、事物(つまりはひとでなし)にも生死の感覚を認めるニュアンスは(少なくとも、この論考の本筋では強く)ない。

このことは、日本のホラー(とりわけ、怨霊を伴う恐怖譚)が日本のホラー(とりわけ、本居宣長以降の日本語による人文学)である条件のひとつかもしれない。さらに問うなら、江戸の市民にとって忠臣蔵/四谷怪談とは何だったのか。

喩(fifgure):名づけようのないもの。伝統的に、ひとが宗教について語るとき、名づけようのないものは、それにふさわしい、ぴったりした言葉にできないので、たとえ話を通じて、名づけようのないものが確かにあると信じられるようになることが大切だといわれる。かつて吉本隆明はこれを虚喩と呼び、(ある言語システムの意味体系や作動結果である)暗喩や直喩と区別しようとした。自然科学でいう観測値。
 この論考では最後に「霊は喩と置き換えられる」という作業仮説が示される。たしかに、観測対象が発する信号の情報量は、観測値のゆらぎとして得られるから、実務的には置き換えても不都合がなさそうだ。

終わりに:5つの感想

感想1:「肉体」が「媒体」を通じて「空間」を記述しようとするときだけでなく、「言語表現」に「私」が接するときにも、「形式」に相当する何か(例:バイアス)はあるはずだけど、まだこの論考では弁別されていないのではないか。

他にも、この論考を書くときに、情報処理のフィードバックループを観察的に追いかけようとしたことで、スパゲッティ・コード化(記述概念の不本意な結合や膠着、重複)が起きてしまい、書きあぐねるようなことがなかっただろうか。

感想2:次回作で似た主題を扱うときは、「音」の基本要素をざっくり切り分けてはどうか。

ごく大まかに言っても、A.認知主体が言語表現から感じうる「音」(音素)と、B.空間内の事物から鳴り、表現者の肉体が感覚しうる「音」(音響)を便宜的に分けられる。

「A.」は発音や韻律を扱う音韻論が得意としていて、機械学習による音声認識システムの概念モデルが応用できそうだ。

けれどもこの論考の(ホラー的な)関心は、現に書かれたものとは裏腹に、(とりわけ仮想空間における、無音または沈黙を含む)「B.」だったのではないか。

感想3:この論考ではおおむね、ルール(法)を極めて動かしがたく、主体を脅かすものとしているけれど、ルールにも種類があって、より下位の水準にある法であれば、ひとが単独または少人数でも関与できるのではないか。

たとえば、次に挙げるうち、3.~5.は、「具体的な歴史や事象を検討・制作対象」を「もとにしたフィクション」として可変ではないか。

  1. 観測可能な宇宙において普遍であるもの(時間など)

  2. ある惑星(例:地球)において支配的であるもの(重力、熱など)

  3. ある集団において制定、改正、廃止できるもの(条約、法令、規約など)

  4. 複数の当事者が、ある場面で、ある条件でのみ成立を認めるもの(契約、約束、合意など)

  5. ある個人が、自身のあるべき姿を定めるもの(戒律、信仰、心情など)

感想4:裏を返せば、「恐怖体験」のナラティブは、ルール(一般)の動かしがたさが主体を脅かすというより、ルール(特定水準)をより上位/下位の水準と取り違えたり(誤認)、不変のものとして取り扱ったり(盲信)、形式として操作したり(執着)することに由来するのではないか。

こう考えたとき、少年漫画が長らく得意としてきた「能力」をめぐる物語は、権力勾配の静的観察に留まらず、記号化された「死」をめぐる心的外傷の治癒、超克または征服を担ってきたのではないか。たとえば――

  • 潜在能力の具現化(スタンド、オーバーソウル、悪魔の実、チャクラ、霊圧…)

  • 特殊能力の過重使用(霊丸の連射、100%中の100%…)

  • 異種能力の衝突、反発、暴走

感想5:死を、病いや老い、苦しみ、痛み、疲れなどと区別してはどうか。言い換えると、「故障」をしくじり(miss)、失敗(failure)、不慮挙動(bug)、動作不良(error)、機能停止(breackdown)に分けて議論することだと言えるかもしれない。

というのも、この論考では、死は、次の5つを含むゆらぎのある語として使われているけれど、

  • い)私と言語表現の関係が途絶えること

  • ろ)何かが、私または言語表現の観測限界にあること

  • は)肉体が消滅する、または機能を喪失すること

  • に)肉体、媒体、空間の相互作用が失われること

  • ほ)その他、情報伝達が上手く行かないこと

まず、いみじくもこの論考がその結末で示したように、

  • (い)私は「表現すること」で遡行的には生じる非実在の定点であるから、私と言語表現の関係が途絶えることは、「表現しないこと」でしか示されない(前期ヴィトゲンシュタインの帰結)。

というわけで、この枠組みを用いるからには、すでに「私」は((ろ)〜(ほ)の意味での)「死」を超越していると言えて、逆にそれ以上はもう言えることがなく、「その先で死を表現するということ」は、単にできないのではないか。

次に、言語表現(あるいは知覚主体の認知範囲)の「外」の思考をするときは、

  • (ろ)観測可能な宇宙と、その外にある全宇宙の関係は、観測結果にもとづく推定でなければ表現できず、そうしなければ理論的な意義を持たない。

と言えるから、観測活動の範囲拡張をする――つまりは、リスクを負って活動の規模や期間を広げる――ほかないのではないか。自然言語処理アルゴリズムにとって、未知語の検出と意味推定が永遠の課題であるのと同じように。

そう考えると、(私ではなく)「肉体」が「死を死として個人的に所持する」ために有意義なのは(は)〜(ほ)であり、これらは言ってみれば、「死後」ではなく、「致死」について考えること(だったの)ではないか。

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