見出し画像

2021年の目標

少し前に、noteでマガジンをはじめた。

うまく文章が書けなくなって、ライターをやめて、それからしばらくした後に、自然と「書きたい」と浮かんだものをテーマにした。

書きたいことは次々にあふれてきて、あれもこれも、とメモした下書きはどんどん増えていった。そういうのは、ただただ楽しい。

でも、実際に書くとなると、楽しいだけではすまない。頭の中ではきらきらしていたはずの記憶が、文章になると、ありきたりで、形だけとりあえず整えられた、レプリカみたいになってしまう。だけど、そういう技術的な壁にぶつかるのはいつものことで、それをどうにかこうにか少しでもマシなものにしたいとあがくのが、私の「書くこと」だと言えるかもしれない。

だけど、今回、壁はもうひとつあった。

マガジンのテーマは、「もう会えない人たち」という、私がこれまで出会ってきた人々や出来事について書くものだ。つまり今じゃなくて、過去のこと。過去の価値観を持った過去の私が経験したこと。

私が一番やりたかったのは、記憶にあるものをできるだけありのままに書くことだった。その時の空気や景色や音や匂いや気配を、できるだけ損なわないように、言葉にうつしかえること。過去の私の感情や感動も。今の私にかまわず、そのままに。

だけど、それがどうしてもうまくできなかった。「今」の私が「過去」の私にいちいち言葉を挟んできた。ふたつ目の大きな壁とは、その今の私の声だった。

イケメンに強引に抱きしめられてときめいた。たとえば、そんな経験を書いたとする(あくまでも例)。そうすると、途端に今の私が声をあげる。本人の意思に反した力の誇示にときめくなんて、マッチョイズムへの隷属じゃない?イケメンだとか容姿に言及する必要ある?そういうのはルッキズムのあらわれだと思うけど。

そんな具合に。

いや、ちがうな。こんな風にきっぱり言ってくれれば話は早いのだ。そしたら、私はその意見を掲げて、きちんと「今」の私として文章を書くことができる。逆に、過去はあくまでも過去のものとして、昔こんなことがあったんだと、今の私と切り離して書くこともできるだろう。

だけど、そうじゃないから困る。新しい今の私は、自信がなさそうで、弱々しくて、言葉になんてなってくれない。ただ、眉をひそめて静かに首をかしげるだけ。でも、それだけで、十分すぎるほどこちらを居心地悪くさせる。

そういうのはやめてほしい。せっかく書きたいことを見つけて、書くことを楽しみたいのに、しっかり楽しみきれないじゃないか。

だから、どうにかしないといけないと思う。「やめてほしい」なんて他人事みたいに言ったけれど、これは私自身のことなのだから。

じゃあ、どうするか。古くなったものをビリビリに破いて、真新しい紙に新しい価値観をきれいに描き、それを高々と掲げられたらかっこいいなと思う。潔く凛々しく、そんな風にできたらどんなにいいだろう。

だけど、私にはできそうにない。その紙は確かに古びているけれど、これまでずっと抱きしめてきたのだ。愛着があるし、何より私は弱くて、その紙を失うのがこわい。それを破り捨てることで、今まで大切にしてきたもの全てに、「廃品」というラベルを貼ることになるのが、とてもこわくて、とても悲しいのだ。

だったらどうするか。それならばと、古いものをこれからも後生大事に抱きしめていくのか。でも、いろんなことをごまかしてそうやってきて、だけどごまかしきれなくて、それで、私は気持ちよく書けなくなったんだ。だから、それは選べない。

どちらの態度もキッパリとかっこよく選べられないなら、ためらいながら、不恰好に、古いものの上に新しいものをなぞっていこうと思う。書かれた文字を無理やり書き直すみたいに。2020の末尾ゼロをいびつに塗りつぶして、どうにかこうにかイチにするみたいに。その下に昔の古い字があったことはバレバレで、読みづらいしかっこ悪いけれど、それでも変えていきたいと、そう思う。

そして、この1年が終わる頃には、そのいびつな字に愛着がわいて、味なんかも出たりして、古いのと新しいのが混じった、私なりの思考や生活や文章が生まれているといい。そういうのを目標に、今年はがんばってみようと、そう思う。

それ以外の目標はTwitterに。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。




サポートいただけると、とてもとても嬉しいです。 もっとおもしろいものが書けるよう、本を読んだり映画を見たりスタバでものを考えたりするために使わせていただきます。