「競争」の見え方

前回の自分のこれまでをストーリーとして辿る記事の中で「競争」というワードを繰り返し出したので今回はその話を。

社会に出ていない22歳の学生視点で世界がどう見えているのか、という文なので視野の多角さや深さは足りていないだろうがご容赦いただきたい。

小さな世界

多くの人は、比較をし、されて、相対的な評価の中で生きている。「自分」を捉える時には他者や世間が存在することで個性が見えたり、目標設定出来たりするのでこれ自体が悪いわけではない。

また、優劣の関係が付随するものがある。わかりやすく数値で測られる、学校や塾のテストや足の速さ。そしてサッカーのスタメン争いやセレクションのように数値化は難しいが枠が決まっているもの。

では、比較や評価は誰との競い合いなのだろうか。これが年齢や環境によって変化する点だ。

幼い頃は多くの場合、周囲の人間は住んでいる場所によって規定されるのではないか。しかし、中学、あるいは高校で受験等を経ると勉強にしろスポーツや芸術にしろ、ある特定の評価軸での能力が似通った同質性の高い人間の集団が形成される。大学に入ると地域の縛りもなくなりバックグラウンドも多様化し、評価軸も多様になる。

コミュニティの形成方法は年代によって違えど、自分の周囲の人間が比較対象になるのは一般的に正しいと言えるのではないだろうか。各自の小さな世界の中で「〇〇が得意」「〇〇について詳しい」「〇〇キャラ」というポジションに収まっていく。

大きな階層

現実として小さな世界の外でより大きな枠の競争階層が存在する。例えばスポーツであれば、自分の部活の中のポジション争いとその先のプロ入り争い、海外挑戦のチャンスを掴むかどうかということは種類が異なるが同時並行して行われている競争だ。

勉強に関しては一旦大学受験で多くの人にとってはゴールを迎えるのではないかと考えている。だが、それは一定程度は就活、出世競争、年収に繋がっていく。

もちろん単純化しすぎだし、私のような人間であるほどこの構造には違和感を覚えるだろう。しかし、資本主義が市民に課す競争はこういうことなのではないか。

数値や権威ある大人から受ける評価よって幼い頃から枠を争い、優劣をつけられ、「努力」することで階層の上層に上昇し、それが資本や肩書きになって自分の所有物になる。

各人は小さな世界に生きているのだが、それが縦横に繋がり、重層的なピラミッドを形成している。

うらやましい人

大きい枠組みに目を向けなければ、またはそれが実体を持った存在(つまり周囲の人間)として認識できなければ、小さな世界で完結出来る。
この類の人を私はとてもうらやましく感じる。

通っていた高校の中ではトップクラスの進学先だ、同期の中でホワイト企業に勤めている、年収が高い、とか。しかし、その階層のさらに上層の人を目指すなんて野望は持たない。一歩ずつ着実にステップを踏める人だ。

もう一つは小さな世界が階層のトップに位置している、つまり競争に勝ち続けることで世間のトップにもいる人。これはうらやましいというか本人の努力の賜物なのだが。

努力や取り組みによって掴み取るものが自己実現のベクトルと概ね一致すると疑問を持たずに、もしくは押し殺して競争に勝つための努力を惜しまず出来る。

競争に勝てないあるいは負けたとしても再上昇の機会を待ちつつ今すべきことに取り組めたり、資本を蓄えたりと自分のポジションを保つことはする。

資本主義社会の要請で適応される評価、数値による見られ方と自己の見方にズレが少ない人は小さな世界の競争に立ち向かうことができ、それが社会の持続、発展に貢献することになるのだから理想的な生き方であることは間違いない。

僕自身

私や、私のような人(私の話に共感してくれるような人、わざわざこのnoteをここまで読んでいるような人)は大きな枠組みに疑問を抱いている場合がほとんどだろう。

私の場合は、前回のnoteでも記した通り、無意識のうちに小さな世界で勝利しており、それが勉強という点では日本の大きな枠組みの中で最上層だった。

しかし、階層に気付いたり、競争に負けることで小さな世界での立ち位置と大きな枠組みでの立ち位置に大きなギャップが生じたこと。そして、その枠組み(の上層)の要請に沿わないようなものに興味を持ち、学び、時間を割いてきた。

ギャップに苦しみ、上昇しているならまだしもトップから下降してまた戻ろうとすることはしんどすぎるのが本音だ。また、資本を蓄えることが私にとっての幸せに直結するとは思えない。

であれば、小さな世界にいる人たちと比較し、評価することはやめ、自分がこれまでいた大きな枠組みのことも気にせず、そこから完全に離脱することが自分の生き方、幸せにとっては必要になる。

もちろん、資本主義が続くという現実は受け入れなくてはならないし、ビジネスでは持続可能な形を模索する必要もある。しかし、それは「他者」であり「世間」の事情なのだから、今はあまり気にせずゆっくりと自分の道を探って生きたい。



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