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いびき、ごくり、咳払い

降り止むのを忘れてしまっているのではないかと思うほど、雨が降っている。わたしはたぶん薄情なので、すぐに雨でない天気がどのようなものだったか思い出せなくなる。

雨の音を聞きながら、ぶどうパンを一枚トーストする。
一度パン屋さんが間違えて、一斤を6枚にスライスするところを5枚にスライスしてしまった。それを買って帰って食べたときに「しまった」と思った。5枚にスライスされたぶどうパンは、贅沢にとてもおいしいのである。

こんなに世の中においしいものがあってよいのだろうかと思いながら、誰にもやらないで一人でゆっくり食べる。
うすくバターを塗って、こんがりとトーストした端からひとくちずつ食べる。どのひとくちも等しくたいそう美味しい。ぶどうパンは、今日もおいしいのだった。


映画を見に行くことにする。
以前「春画先生」という映画を見たときに、脇役で出ていた柄本佑さんがすごくよくて、以来注目することに決めている。今日見ようと思った「花腐し」は、彼が出ているのでこれは見ようと思っていたのだった。
映画を見るのは、配信サービスで同じ内容の映画を見るのとはまるで違う。
映画を見ると決めて、電車を決めて、家の鍵をかちりと閉めて坂道を下るところから映画なのだ。

雨は重量を持って降っている。ぼだり、ぼだりと傘に音を立てて落ちてくる。
毛を逆立てて濡れたすずめが、道の端から三羽飛び立って、近くの電線に止まった。向こうの電線の上をリスが走る。濡れそぼっていて、晴れの日より尻尾が貧相に見える。世界中がややうんざりしているように見える。
傘をしっかり差しているのに、細かな雨の粒がわたしのウールのコートも、手袋もいつの間にか濡らす。

雨は雪になるかもしれないと聞いていたけれど、空の途中でやはりそれは雨になることを決めたようだった。重い音を立てながら、世界中が濡れている。

映画館は普段より混んでいた。
今日見るのにふさわしく、雨がずっと降っていて、出てくる人はずっとお酒を飲んで煙草を吸っていた。
性交のシーンが多く、あかるくともるその場面をたくさんの顔がじっと見ている様がときおりおかしくなった。

わたしの左隣のおばあさんはなかなかに極まった場面で、いびきをかき始めた。男女の喘ぎ声と高まるお婆さんのいびきが不思議な韻律を生んでいる。
右隣の男の人が、時折ごくりと唾を飲み込む音がする。その後、少し抑えた音で咳払いをする。

いびきとごくりと、咳払い、そして男女の喘ぎ声。
二列前の真ん中あたりのおじいさんが途中で、席を立ってトイレに行く。
このタイミングを選んだのか、耐えきれない尿意に今立ったのかわからないけれど、映画はかなり極まっている。

人々はみな顔の表を照らされて、スクリーンを見ている。
スクリーンの中にはずっと雨が降っている。
男も女も酒を飲み、煙草を吸う。
そしてまた雨に濡れる。

映画が終わった。
おばあさんはちゃんと目を覚まして、毛糸の帽子を被り直して席を立った。
ごくりの男の人はわたしより前にいつの間にかいなくなっていた。
トイレのおじいさんはわからない。

映画館の階段を下りると、映画の中のように雨がまだ降っている。
わたしはコートのボタンを上までちゃんと留めて、手袋を左、右とはめて、傘を差して駅へ向かった。

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