癖や歪みといった滑稽を愛す
『野口整体の「方法」講座』が、おかげさまで無事に盛況の内に終えることができました。ご参加いただいた方々ありがとうございました。
とりあえず、野口整体というメソッドの滋味豊かな断面というものを、みなさんにお伝えすることができたかなと、少なからぬ手応えを感じられたような気が致します。
『山上亮』というフィルターを通して見える野口整体の景色は、おそらくかなり独特に歪んでいたり、色づいていたりするのだと思いますが、そういう独特な歪みや癖をみなさんに愉しんでもらえたのなら、私も本当に幸せに思います。
つい先日、飛騨高山に行くことがあったのですが、そこにある古い街並みや古民家には、本当に個性豊かな癖のある木々たちを上手く使って、どこにもない景色を作り出す先人たちの創意工夫があふれていました。
おそらく素直で真っ直ぐな材木たちは高値で売れますから、どんどん都へと行ってしまって、そこに残るのは癖や個性のあふれる木々たちだったのだと思うのです。
「どうするんだ、こいつら」ということで、職人さんたちもみんなでアイデアを出し合って、初めは癖を取ったり直したりもしたのでしょうが、最終的には「いいや、どうせだからこの癖を活かしてしまえ」と、いろんなところにその癖を活かした造作を作り始めたのだと思うのです。
そしてそれが今となっては、その土地ならではのかけがえのない個性となって、多くの人を惹きつけ愉しませているのですから、本当に面白いことです。
飛騨高山を歩きながら、そんなすべての癖や個性に居場所を作って光を当てる古人の仕事に、「ああ、こんな変な自分が生きていても良いんだな」と、本当に元気づけられたのです。
私は、親から直接「親の顔が見たい」と言われるほどの生来の天邪鬼でありまして、みんなが右に行こうとするときに「じゃあ自分は左に行こうかな」とか言って別行動してみたり、オーケストラを聴いていても鳴らしていないときのシンバルの人をじっと観ていたり、パフォーマーの人が舞台上でパッと捨てた何かの行く末ばかり気になってしまったり、そんな性格の人間ですので、王道というものがあっても何か身をよじってすぐ脇の道へと逸れていってしまうのです。
でもこれはあえて自己弁護するなら、王道を歩かないようにするためには、王道とは何なのか、きちんと分かっていないとできないことなのです。
よく分かっていないと、うっかり王道を歩いてしまいかねないですからね。それは天邪鬼としてあってはならないことなので、たぶんけっこう必死です(笑)。
それこそ野口晴哉の方法の一つに「ずらす」というものがありますが、野口晴哉は「褒めるときは的確に、叱るときは三分(さんぶ)ずらす」と言うのです。
それはつまり、褒めるときにはその急所を的確に押さえないと、「何だコイツ分かってねぇな」となってしまうし、叱るときにはその急所を三分くらいずらさないと、「何だコイツ痛ぇところ突いてきやがって」と、やはり反発されてしまうからなのです。
ですが、三分ずらすためには、やはり急所がどこなのか的確に分かっていないとできないことなのです。
王道からずれて歩くためには、王道をきちんと理解して、つねにそれを参照としながら自身の位置のずれを認識していないと、うっかり王道を歩いてしまったり、あるいは完全に独りぼっちになって、まったく違ったところを歩いて行ってしまうのです。
さすがにそれはちょっと寂しくって、できればもうちょっとつながっていたいのです。
すぐとなりに立派な王道があるにも関わらず、その脇の草ボーボーの道を、イヌのウンチを踏んだり、オナモミだのひっつけながら、メンドくさい歩き方をするあたりに、天邪鬼の天邪鬼たる本分があるのです。
となりの王道を歩く人から「なんでそんなところ歩いているの?」と突っ込まれて、「好きでやってんだから別に良いでしょ」と、ひねくれた子どもみたいなことを言いながら、からだ中にオナモミひっつけて歩きたいのです。たぶん…。
私自身も何故そんなことをしてしまうのか、自身の欲望そのものはよく分からないのですが、それはきっと「擬(もどき)」であったり「猿楽」であったりが、ついつい生まれてきてしまう心持ちにも通じるのかも知れません。
つまりそれは「本物」に対する畏敬ゆえに身を引きすぎてしまって「滑稽」となる、そんな独特な歪みです。そういう意味では、その滑稽もまた愛ゆえなのであり、愛のカタチの一つであるのやも知れません。
そして私はきっと、そんな本物とのズレや隙間を感じさせる「滑稽」というものを、愛してならないのです。コッケー。
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