松雪泰子さんについて考える(59)舞台『無駄な抵抗』を改めて観て

*会場で観劇したときの感想はこちら*
 
※結末に関するネタバレを含みますので、ご注意ください。
 
衛星劇場の録画をようやく観た。
感想として、次の2点について記しておきたい。
 
①作品自体について
②松雪さんの声について

 
それでは、かなり長くなりますが、以下のとおりです。


①作品自体について

最近無駄だと思うこと

劇場で観た時以上に、この作品のテーマが身に沁みる。なぜなら、最近、仕事でも私生活でもよく思うからだ。「何もかも無駄なのではないか」と。
 
例えば、自分と考え方が合わない職場の人々(ほぼ全員)と交わす会話。何かを分かってもらおうとさまざま伝えたり諭したりするが、彼らの考え方や行動は容易には変わらない。
 
仕事も同じ。どれだけ工夫や改良を凝らしても、結局「自己満足」にしか過ぎない気がしてきている。やってもやらなくても、大して変わらない。それでも給料は入る。雇われの身か自営業かによっても異なるが。
 
家族や友人とて大差ない。心の底から分かり合えるなどということは、永遠にない気がする。
 
この考えが悪い方に発展すると気を病むことになるのだろうが、幸いにも、そうではない。逆に、色々な人や存在を許容する余裕が生まれ、快適である。
 
何かを変えようとしたり相手に分かってもらおうとしてうまくいかないとストレスが溜まるが、今はそこから解放されたように感じる。
 
「ただの無気力じゃないか」と冷笑されるかもしれないが、気力を無くしたのではなく、気力を注ぐ対象が別のものに替わったという感じ。そこに職場の人たちや家族を巻き込む必要はない。
 
仕事や人間関係に対し、もっと恬淡として生きていきたい。その方が、相手にとっても楽なのではないか。


(A)「社会≒他者」に対する抵抗

以上のように私の実体験をなぞらえるのはおこがましいかもしれないが、このような(A)社会≒他者に対する抵抗について、劇中では、駅を通過しつづける電車のことを問題視しない市井の人々が媒体となって語られている。
 
最終局面で強引に電車を止めることに成功したが、それは一時的なことであって、おそらくこの先も引き続き、駅を通り過ぎることになるだろう。「止める」ことはできても「停める」ことはできないのだ。
 
それでも大多数の人々は何も気にしない。どれだけ、カフェ店員(大窪人衛)(=ノイジー・マイノリティ)が大声を張り上げて振り向かせようとしても、興味を持たない人は、永遠に持たない。
 
カフェ店員と対極にいる何もしない大道芸人(浜田信也)は、声を上げない一般大衆(=サイレント・マジョリティ)を表しているのだろう。その彼が「勘違いするな。お前らが俺を見ているんじゃない。俺がお前らを見ているんだ。お前らは実に滑稽だ。」と吐き捨てる。
 
ノイジー・マイノリティは、得てして自分たちこそ正しい考えの持ち主と自負し、何も声を上げない人々(=サイレント・マジョリティ)を怠惰・無定見・責任放棄・他力本願と見下しがちだが、それは自己陶酔の思い込みと言える。サイレント・マジョリティの中には、何をやっても無駄と悟った上であえて何もしない人たちも混じっており、彼らからすれば、「無駄な抵抗」を続けるノイジー・マイノリティこそ滑稽に見えるのである。
 

(B)「運命≒境遇」に対する抵抗

電車はレールの上を走る。決まった道筋を、決まった時間に。それは、本作のもう一つのテーマ、(B)運命≒境遇の象徴だろう。この運命に対する抵抗は、カフェ店員よりも、主に主人公・山鳥芽衣(池谷のぶえ)を通して描かれる。
 
山鳥芽衣は、小学生時に二階堂桜(松雪泰子)から「あなたは人を殺す」と予言された。以来、予言に抗うため、生活・行動・進路選択のすべてを束縛されてきたが、劇中最後に、叔父の悪事を司法に訴える決意を示す。
 
それは、叔父の社会的抹殺に繋がるであろうし、もしかすると命そのものを奪うことになるかもしれない。そうなると桜の予言どおりになってしまうのだが、運命を受け容れ、自らの意思に基づく選択を下した芽衣の心情は、憑き物が落ちたように晴れやかだ。
 
予言どおりの結末を迎えることになろうとも、抵抗することによって得られるものがある。こうして新たな光明が差し込んでくるところで、幕となる。
 
登場人物たちは、この世の矛盾や不条理を達観し、「どうせ抵抗しても意味はない。そんなことは分かっているよ」と韜晦しながら、「でも、抵抗することが全く無駄だとは思いたくない」と闘っているよう。その祈るような小さな火が、風に吹かれながら健気に揺らめいているようで、胸が痛む。


三浦綾子著『塩狩峠』

余談になるが、最近読んだ本に、三浦綾子著『塩狩峠』がある。ちょうどこの小説の主人公こそ、運命に抵抗しようとして実際はその運命どおりの人生を歩んだ人。「無駄な抵抗」が無駄ではなかったという意味で、相通ずる部分がある。
 

公演プログラムより

最後に、『無駄な抵抗』公演プログラムに、作・演出の前川知大氏の次のようなインタビューが載っている。

もっとお客さんを信頼して、一緒に考えてもらえるような作品をつくらないといけないと痛感したというか(中略)すぐに答えが出ない状態に耐えないと、文化的にどんどんヤワになっていく危機感もありますし、演劇はやっぱり、ただ消費されていく娯楽であってはいけない。

 消化に時間のかかるものにしたい。わからないけど心に引っかかり、その人の無意識にとどまり、何かを問い続けるようなもの。感想も一言では言えない。そういう作品にお客様が集まってくれないと、文化も生活も、さらに言えば政治も痩せていく一方じゃないですか。

前川氏の狙い以上に、心に引っかかり、無意識にとどまり、問われ続けている気がする。そして、すぐにどころか今もまだ答えが出ないけれど、現時点では縷々述べたようにこの作品を消化している。
 
今後また、別の契機に別の解釈をもつようになるかもしれないが、それくらい心に引っかかる作品を観ることができ、幸せだと思う。
 

②松雪さんの声について

 
劇場での鑑賞時、松雪さんの声色が、過去の出演作品では聞いたことのないタイプのものだった気がしていた。その時のことは当時の投稿に記したとおりだが、改めて視聴すると、やはり、新しい声を使っているように思える。
 
例えると、洋画の日本語吹き替えのような声。声優によって微妙に違うため、一括りに「吹き替えのような声」と表現するのは乱暴かもしれないが、すぐにピンと来たのはあのような声。
 
話し方も含めてそのように聞こえるのだと思うが、声そのものも普段と違う。その「普段」の声すら作品に応じて高低・硬軟が使い分けられていて一定でないが、本作『無駄な抵抗』における二階堂桜の声は、そのいずれでもない気がする。全作品を漏れなく観たわけではないので断言できないが…。
 
洋画の日本語吹き替え。そういえば…と思い、『ボーン・レガシー』(2012年)をU-NEXTで再生してみた。しかし、このときは、話し方こそ「吹き替え」らしさを出しているが、声はあまり変えておらず、聞いていて松雪さんの顔が思い浮かぶ。今回の声とは全然違った。
 
ご本人の中で、まだ開けていない声の引き出しが他にもあるのかもしれない。そう思うと、今後も楽しみが尽きない。
 
…が、その前に、引き続き過去作品を手に取っていこう。けっこう観たけど、まだまだある。先は長い。

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