【小説】 飛びます 飛びます(最終回)
志津香が涙をこらえながらぽつりぽつりと話し始めた。
「結婚して、夏美が生まれて、芸能界のお仕事も順調にいっていたのに、私はそれに満足できなかった。だから夏美が3歳になったときに、あなたに協力をお願いしてもっと上のポジションを目指したの。でも、せっかくあなたに協力してもらっているのに、逆に仕事は減ってしまって…。申し訳なくて、情けなくて、焦った馬鹿な私は、仕事をもらうために……してはいけない選択をしてしまったんです。」
そう言うと志津香の瞳からまた大粒の涙がこぼれ出した。
「私は仕事で忙しいと嘘を言って、家事と夏美をあなたに任せて、その裏では業界関係の人と寝て仕事を得ようとしていました。ごめん。本当にごめんなさい。今思えば、なんであんな事をしようとしたのか自分でも理解できません。」
僕は、志津香が家出から戻ったあの夜、二人で話し合ったことを突然思い出した。
志津香は確かにこう言っていた。
「いろんな 努力 もしているのにそれが実らない」
「いろんな 努力」
「いろんな 努力」
つまりあれはそういう意味だったのか。
僕は志津香の手を強く握り、彼女の目を見た。しかし、その目の奥にあるものが、絶望なのか後悔なのか悲しみなのか僕には分からなかった。
「でも、何人かとそういうことをしても思うように仕事が増えなくて、私はすっかり投げやりになっていました。あなたとケンカして家出をした頃です。そんな時、あのプロデューサーに出会いました。彼は…あの人は、業界でも力を持っていたので、自分の番組に呼んでくれたり、他の番組にプッシュもしてくれました。あの人に出会ってから仕事が順調に増えていきました。」
志津香はそこで言葉を止めた。
そして一つ深呼吸をするとまた話し始めた。
「…私は、あの人を私に繋ぎ止めておくために何度も…寝ました。ごめんなさい。本当にごめんなさい…。芸能界の自分のポジションのことだけを考えて、あなたと夏美を裏切っているという自覚さえ私にはありませんでした。私は、あなたと夏美を心から愛しているから、他の男と寝るのは仕事の一つなんだからと自分を正当化していました。」
そこで志津香は苦し気に顔を歪めた。
「…でもある時、あの人に会うのを楽しみにしている自分に気付いてしまいました。自分でも愕然としました。これはいけないと思ったけど、これも仕事だと自分に言い訳をしてあの人と会っていました。」
僕は、ホテルの暗い部屋の中で、黄金色の月明りを身にまとい妖艶に微笑む志津香の姿を思い出して、心が砕け散るような苦しみを覚えた。
絶望的な感情に支配された僕は、志津香の話をさえぎって訊いた。
「…あの男を好きになった?」
「…分からない。正直に言うと、あの時の自分の感情は今でもよく分かりません。仕事も順調にいっていたし、家庭でもとても幸せだったし…、単に浮かれていただけだったのかもしれません。
…でも、あなたに嘘をついて東京であの人と会っていた夜、あなたが突然目の前に現れて、自分の汚らわしい行為を知られてしまいました。その瞬間、あなたと夏美が私の前からいなくなるという恐怖を感じました。足元から全てが崩れ落ちていくようなとても耐えがたい感情でした。それに比べればあの人のことなんてどうでもいいと思えました。何物にも代えがたいのは、本当に愛しているのは、あなたと夏美だとあらためて分かったんです。」
志津香は伏せていた顔を上げて僕の目を見つめた。
「私、最低だよね。私はあの時、全てが終わったと思いました。でも、あなたは優しいから、あれを夢だと言ってくれました。だから、ズルい私もあれを夢だったと思うことにしました。そして、自分にそう言い聞かせて何もなかったかのように振舞ってしまいました。
あの日から、半年前から、私はあの人と身体の関係を絶ちました。もう遅いということは分かっていました。だけど、これ以上あなたと夏美を裏切り続けることだけは嫌だと思ったんです。本当です。これだけは信じてください…。
あの人にしてみれば、私は、仕事が順調になった途端に離れていった薄情な女に見えたかもしれません。でも逆に、それが彼を変えてしまいました。突然、私に執着するようになりました。あなたと別れて自分のもとに来るようしつこく迫られるようになりました。
仕事をもう回さないとも言われたけど、その頃にはあの人がいなくても仕事は途切れないようになっていました。だから彼…あの人と会う必要はもうなかったのに、仕事の保険をかけるつもりで時々食事には行っていました。信じてもらえないと思うけど、でも本当に身体の関係だけは持ちませんでした。
渋谷であなたが電話をくれた時も、あの人からしつこく迫られていました。あまりの執念深さに怖くなってカフェから逃げ出した私をあなたは助けてくれました。あなたの姿を見ることはできなかったけど、あの声は紛れもなくあなたの声でした。本当に、ありがとう…。」
その時、志津香の目に幽かに残っていた光がフッと消え去った。
「…でもそれは…ホテルの部屋の中にあなたがいたのも現実だったということを意味しました。あの日、あなたは私の過ちをその目で見たということになる。あれを夢で済まそうとしていた私は、あなたに申し訳なくて、恐ろしくて、どうしたら良いのか分からなくなりました。」
志津香は涙を流しながら、しばらく天を仰いだ。
「もう、あなたを騙し続けることも、隠し通すこともできないと覚悟しました。散々あなたと夏美を裏切り続けてきた自分を許すことができなくなったんです。
そんな時に、あの人にハワイの仕事に呼ばれました。最初は断りました。でも、事務所への義理や芸人さんへの恩義もあったので受けざるを得なくなりました。それで、どうせならこの機会に、彼に…あの人にハッキリと自分の意志を告げて、仕事上でも完全に関係を絶とうとしました。そして、日本に帰ったら私の過ちを全てあなたに話すと決めたんです。でも、結局またあなたに迷惑をかけてしまった…。」
僕は心の整理ができないまま志津香の話を聞き続けた。
「ハワイで危ない目にあった時、あなたが来てくれた。私を助けてくれました。それが本当に嬉しかった。ひょっとしたら、心のどこかであなたが来ることを期待していたのかもしれません。私とあなたはまだ繋がっている。そう思いたかったんです。
でも、あなたが消える瞬間、私を見た目は、とても悲しそうだった…。
私は、あなたにそんな目をさせてしまった。
私は罪を償わなければならない。
…そう思いました。
…これが私の過ちの全てです。隠し事はもうありません。
本当にごめんなさい。申し訳ありませんでした…。」
志津香は話を終えると、頭を深く下げてすすり泣いた。
僕は様々な感情に翻弄されて身動き一つできなかった。
「…志津香はこれからどうしたいの?」
「…それはあなたが決めてください。どんな結論になっても、私は従います。」
「君の本当の気持が知りたいんだ。」
「…できることなら、これからもあなたと夏美のそばにいたいです。」
「僕は…僕は、今は、君を許せる自信がない。」
志津香は大粒の涙をポロポロと流しながらうんうんと頷いた。
「そうだよね…。それが当たり前だよね…。わがままを言ってごめんなさい。」
「志津香、僕に考える時間をくれないか。考えがまとまったら君に連絡する。それまで夏美のことを頼む。」
志津香はコクリと頷いた。
僕は、キャリーケースに衣服を詰めた後、寝室に行って夏美の寝顔をしばらく見続けた。その時、初めて自分が声を上げて泣いていることに気づいた。それから、俯いて座り込んでいる志津香に声をかけることなく家を出た。
その日から、僕はビジネスホテルに泊まり、役所に通った。
日中は何事もないような顔をして仕事に没頭し、ホテルに戻るとひたすら考え続けた。
志津香のしたことを許せるのか?
これから志津香を信じることができるのか?
僕はまだ志津香を愛せるのか?
夏美を幸せにするには?
家族の幸せとはなんだ?
僕の幸せとは?
最適解は?
家を出てから1週間目の夜、僕は志津香に電話をした。
ワンコール目の途中で志津香が電話に出た。
あれから3年が経った。
僕は相変わらず家事と育児に追われながら、職場では新しいプロジェクトのリーダーに抜擢されて充実した生活を送っている。
夏美は小学生になり、生意気盛りだ。食事の用意も手伝ってくれるようになったが、まだまだ甘えん坊だ。
志津香はそのまま芸能界を引退した。僕らは離婚はしなかったものの、近くで別居することになった。夏美は僕と一緒に暮らしながら両方の家を自由に行き来していたけれど、半年ほど経った頃、夏美の強い希望で再び三人で暮らすようになった。
志津香は、それからしばらく家事と育児に専念していたけれど、元の芸能事務所の社長に懇願され、僕の許しを得て、昨年芸能界に電撃復帰した。復帰後、すぐに出演したドラマが大ヒットし、今ではすっかり女優としての地位を築いている。
3年の歳月を経て、僕たちはやっと家族に戻った。
先日、あのプロデューサーが失踪したとのニュースがネットで流れた。多方面からパワハラ、セクハラ、横領の告発を受けた末のことだった。
でも僕は、もうなんの感慨も湧かなかった。
ただ、そういえばあれから一度も「飛んで」いないなとぼんやり思っただけだった。
今朝早く、志津香が僕をハグして言った。
「今日はドラマの撮影が長引きそうだから帰りが遅くなるかもしれないの。ごめんね。夏美のことをお願いね。」
それから僕に軽くキスをすると颯爽と撮影所に向かっていった。
僕は、志津香が去り際に玄関に残していった香水の香りがいつもと違うことが妙に気になった。
その夜、11時を回っても志津香はまだ帰ってこなかった。連絡もなかった。夏美が子供部屋に引っ込み、僕は暇を持て余してビールを飲みながらネットで映画を観ていた。ジェフ・ゴールドブラム主演の「ザ・フライ」という古いSF映画だ。映画はまあまあ面白かったが、途中からなぜかその内容が全く頭に入ってこなくなった。
そして、唐突にあの心がザワザワとする感じが襲ってきた。
『そうか。また僕は飛ぶんだな。』
僕は、意外にも冷静に覚悟し、ビールの缶をローテーブルの上に置いて立ち上がり、そして心の中で身構えた。
すぐに目の前が真っ暗になり、懐かしくも思える浮遊感がやってきた。
次の瞬間、僕の全身に生暖かい風がビュウと吹きつけた。
僕はどこかのビルの暗い屋上に立っていた。
暗闇の向こうにはビルが立ち並ぶ美しい夜景が広がっていた。どうやら東南アジアのどこかの国のようだった。
条件反射のように志津香を探すと、数メートル先で柵に足をかけてまさに乗り越えようとしているシルエットが浮かんだ。
「おい!やめろ!」
僕の叫び声にゆっくりと振り返った顔を非常灯の明かりがぼんやりと照らし出した。
あのプロデューサーだった。
無表情で生気はなかったが、端正な顔立ちは見間違えるはずもなかった。
男はこちらを一瞬見たものの、興味なさげにすぐに前を向いて柵を乗り越えた。
柵の外で棒立ちになった男は、一瞬だけ手を合わせた後、一言も発することなく闇の中にゆらりと身を投げた。
そしてドンという嫌な鈍い音を耳にした直後、僕はまた飛んだ。
家に戻ったあとも、僕は混乱するばかりだった。
どういうことだ?
あそこに志津香はいなかった。そもそも、今、あんな外国にいるはずがない。志津香は今日も撮影所にいるはずだ。
考え続けて、ある推論にたどり着いた時、妙な感情の笑いがこみ上げてきた。
『そうか。そうだったのか。
僕は今まで志津香のところに飛んだとばかり思っていたけれど、そうじゃなかったんだ。
名前もろくに知らない、見ず知らずのあの男のところに飛ばされていただけだったんだ。』
ぐしゃぐしゃになった感情の中、志津香への根拠のない不安が大きく溢れ出てくる。
今夜は、ひどく胸騒ぎがする。
本当に今、彼女は撮影中なのか?
考えれば考えるほど、嫌な予感しかしない。
僕は、志津香のいる場所に「飛ぶ」ことを願い、ギュッと目を瞑った。
しかし、僕が志津香のところに飛ぶことはなかった。
(完)
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