見出し画像

老いての政界への出馬、有り得ますか?(小原信治)

「○月○日、区長になる女」

 2万%ない(©橋下徹)。と書いたら話が終わってしまう。読む気もしないかもしれない。有り得るかもしれない。いや、有り得る。むしろそう書き始めた方が続きを読んでみたいと思って貰えるんじゃないだろうか。

というわけでいつも通り書きながら考えることにしよう。旅や人生と同じで書いている自分自身がどこに向かっているのかわからないのが書くことの醍醐味でもあるのだし。書きながら考える。そう、人生の答えが生きながら考えていくものであるように。

 わからないといえば、隣人の顔がわからないと言われ始めたのは80年代の終わりから90年代の初め頃だっただろうか。ぼくにとっては東京で一人暮らしを始めたばかりの頃だ。ロフト付きのワンルームマンション。「東京ラブストーリー」。織田裕二さんが演じるカンチと鈴木保奈美さん演じるリカが声を張り上げて喧嘩しても「うるさいぞ!」とか「揉めてるみたいですけど大丈夫ですか?」と言ってくる隣人はドラマには出て来なかった。80年代はそうじゃなかった。たとえば「ふぞろいの林檎たち」には時任三郎演じる岩田が手塚理美さん演じる陽子を壁の薄いアパートに連れ込んだ後、隣人と出会して気まずい思いをする、みたいなシーンがちゃんと描かれていた(と思う)。引っ越しても隣人に挨拶に行かないのが常識になって30数年。リアルな社会において隣人の顔はますます見えなくなっている。一方、ネット社会の誕生で顔が見えない人と繋がる機会は爆発的に増えている。そうすると何が起きるか。人は個人ではなく属性で相手を見るようになる。男か女か。若者か高齢者か。単身者か既婚者か。子無しか子育て様か。お客様か企業側か。歩行者かドライバーか。市民か行政(行政だって中の人々は市民だ)か。右か左か。大方ぼくなんかは「マスゴミ」とひと括りで揶揄される属性なんだろう。やりとりしている相手はひとり一人違う顔と名前を持つ個人なのに顔が見えないことで主語が大きくなっていく。相手の顔が見えない苛立ちで攻撃的にもなる。そして、分断が生じる。

 そういう時代だからこそ「顔の見える対話」が必要なのではないか。互いの顔を見て、互いの立場に立って、腹を割って話そうよ。 映画「○月○日、区長になる女」はそんな「顔の見える対話」を区政に、ひいては社会に取り戻そうと挑む、岸本聡子さんの区長選挙を描いたドキュメンタリーだ。

 何が愕いたってまず、その出馬理由だ。選挙において候補者は自分が政治家として実現したいことを公約に掲げるものだとばかり思っていた。たとえば現職が増税なら、減税を公約に掲げて有権者の判断を仰ぐ。わかりやすい二項対立。それが選挙だと思っていた。しかしながら、岸本さんは違う。現職区長が推し進める道路拡張計画の中止を訴える市民団体に担ぎ上げられたにも関わらず、彼女の公約は「道路拡張計画の中止」ではなかったのだ。

「区民から反対のある政策は見直す」

 その公約は有権者にどんな風に届いたのだろう。おそらくほとんどの反対派の人々には「見直す」という言葉を「中止」という意味に捉えていたのだと思う。だから彼女は自分の支援者である反対派のトップを「政策と要求は違う」と説得する。岸本さんの「見直す」という言葉は政策を見直した結果、道路は予定通り拡張することになるかもしれないという可能性も孕んでいたのだ。これには現職を推していた区民すら戸惑ったのではないだろうか。

 どっちなんだよ、と怒り出す有権者もいたかもしれない。何しろ道路拡張計画自体には賛成でも反対でもないのだ。わかりにくいよ、とか、日和見だという批判の声もあったかもしれない。だからこそ彼女自身もハイボール片手に「これで当選できるとは思っていない」という本音を漏らしている。このシーンが良かった。候補者が悪酔いしているシーンなんて前代未聞だけど、なんだかとてもチャーミングだった。政治家というのは顔は見えていても心が見えないことが多い。だから顔の見えない相手のように攻撃されるのだけど、このハイボールのシーンだけで少なくとも岸本さんの顔がはっきりと見えたような気がした。

 そういう自分をカメラの前で曝け出すことを良しとしたのは彼女が誰よりも腹を割って話す為に必要なことを熟知していたからだと感じた。反対運動をしている市民も計画を実行する行政もそして政治家も皆同じ人であること。ひとり一人に顔と名前と人生があること。

「町作りの答えはひとつじゃない。100%の要求は通らない」

 その主張にはすべての人生を尊重しようという思いやりが感じられた。彼女自身が道路拡張計画に賛成でも反対でもないのはどちらの顔も見えていたからなのだ。道路を拡張することで木造建築の密集による延焼を防いだり消防車が入れるようにして区民を災害から守りたいという行政の人たちの思いも、道路が拡張されることで立ち退きを余儀なくされる住民たちが今の暮らしを守りたいという思いも。だからこそどちらにも加担せず、互いが顔を見合わせ、互いの立場に立って、話し合いをする。互いに譲り合って落とし所を探っていく――すなわち「対話する場」を作ることを公約に掲げていたのだろう。選挙という数の論理や、ましてや閣議決定なんて独裁でもなく、市民と行政が徹底的に話し合って合意形成していく岸本さんの主義を「ミュニシュパリズム」というのだと本作を見るまで知らなかった。

対話によって落とし所を見つけたいことありますか?

 誰しも対話によって落とし所を見つめられるならとことん話し合ってみたい相手というのが一人や二人はいるのではないだろうか。徹底的に話し合ってみたい相手。対話によって落とし所を見つけたい相手。ぼくにもいる。公の場ではとても書き難いが、あえて正直に書こう。

ここから先は

1,529字 / 1画像

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?