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ロンドン・コーリング【二〇〇〇文字の短編小説 #5】

二〇〇九年の秋、ロンドンに着いたばかりの僕は、時差ぼけのせいか眠れずにいた。アールズコートという街のユースホステルで何度もぎこちない寝返りを打っていた。四人部屋のドミトリーで重なる寝息が耳障りだった。僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。

遠くで犬の鳴き声が聞こえた。羊の数を数え始めては別れたての彼女の笑顔を思い出し、また羊の数を数え始めては別れたての彼女の笑い声を懐かしんだ。気を紛らわせたくなった僕は、ヒースロー空港からの電車の窓越しに見た夕日を思い出してみた。異世界に迷い込んだような、正真正銘の真っ赤な太陽が沈みかけていた。

季節は秋になろうとしていた。僕はまだ何者でもない大学二年生だった。何者かになりたくて、経営学部だというのに誰よりも熱心に英語のオーラルコミュニケーションの講義に参加した。英語ができれば世界が広がるような気がしたし、モリソン先生に「Your English is really impressive !」と褒められるのは掛け値なしにうれしかった。

数え切れないほど寝返りを打っても眠れない僕は、毛布からそっと抜け出し、静かに大部屋のドアを開けた。一階の受付の横に共有スペースがあった。テレビでも見て気を紛らわせようと思った。父の形見の腕時計の針は一時十五分を指していた。一月十五日は父の命日だ。三年前の冬の朝、父はくも膜下出血で倒れ、そのままこの世を去った。

初めての海外旅行だった。特に大きな目的があったわけではない。自分の英語を試してみたいと思っていたから、宿の手配はしていなかったし、旅行の工程も考えていなかった。

ダブリン的な緑色のソファに座り、テレビをつけた。何度かチャンネルを変えると、オアシスのミュージックビデオに行き着いた。デビューアルバム「デフィニトリー・メイビー」に収められている「ロックンロールスター」だ。手を後ろに組むおなじみの立ち姿で、リアム・ギャラガーが「今夜、俺はロックンロールスターだ」と歌い上げる。「愛してくれよ」でもなく「俺たちはゴミ箱に捨てられた花さ」でもなく「あこがれられたい」でもない。まっすぐに「俺はロックンロールスターだ」と言い放つ力強さをなんとはなしに見ていた。

「眠れないのかい?」

部屋の入り口に男が立っていた。僕が振り返って肩をすくめると、その男は「ボビー」だと名乗った。スコットランドのキルマーノックという街から、職探しでロンドンにやってきたのだという。青いアノラックはよれていて、肩まで伸びた髪はラクダみたいな色をしていた。

「どこから来たんだい?」

「東京。日本からだよ」

「それはクールだ。トーキョー、一度は行ってみたいな。テレビで見たことがあるけれど、未来みたいな街だ」

テレビではリアムが「ハロー」を歌い出した。解散したてのオアシスの特集番組なのだろう。人生なんて気晴らしのゲームなんだって、誰も覚えてないみたいだ──リアムががなると、二人の間にささやかな沈黙が流れた。

それから僕たちはソファに隣同士に座り、他愛もない話をした。ボビーが大学で建築を学んでいたこと、大学卒業後はグラスゴーのデザイン事務所で働いていたこと、僕はイングランドのサッカー選手ではクリス・ワドルが好きなこと、フィッシュ&チップスを一度も食べたことがないこと。僕はときどき、ボビーのくたびれたジーンズの右ひざの穴に目をやった。なんだかグレートブリテン島のような形をしていた。

「僕が眠れないのは」とボビーが出し抜けに切り出した。

「生まれなかった妹のことを考えてしまうからなんだ。ありていに言えば、僕が殺したと思っている」

滑らかに話された「killed」という言葉に面食らった。物々しい感じがして、何も言えなかった。ボビーの顔を見ることができず、テレビから流れる「ドント・ゴー・アウェイ」に集中した。一瞬、喪服に身を包んだ人たちが見えた。

ボビーは話を続けた。

「僕が五歳のときの話だ。母さんが赤ん坊を身ごもった。病院で調べてもらうと、女の子だとわかったって。うれしかったけれど、母さんを横取りされてしまうような気にもなった。そして何度か『生まれてこなくてもいいのに』と思ったんだ」

ボビーは少し黙ってから、幸か不幸か母親が赤ん坊を流産したのだと話した。「miscarriage」という単語を言い終えると、ボビーはひざの上で祈るように両手を組んだ。なぜボビーが僕にそんな話を打ち明けるのかわからなかった。ボビー少年が思ったことと現実に起こった痛ましい話は全く関係ないじゃないかと思ったけれど、何も言わなかった。

遠くで犬の鳴き声が重なった。ボビーは部屋を出て行った。テレビからは「サム・マイト・セイ」が流れていた。暗い部屋だから、白黒の映像がよく見えない。暗闇に一人残された僕は途方もない孤独を感じていた。世界から取り残され、出口がわからない迷路でもたついているような気分になった。

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