大石凝真素美と真訓古事記〜笠井叡:音とカラダ

【はじめに】

今年わたしは「金井南龍」氏という故人の存在を知り、それによって「白山王朝」について確信を深めるべく踏み出した際に、京都で小野田さんから「笠井叡」氏を教わり、両者が揃って言及しているのが大石凝真素美(おおいしごりますみ)という、江戸末期から明治に活動し大正に没した国学、言霊学の巨人である。この大石凝真素美翁が絶対宇宙法則とも言える「天津金木」という理を学説化し、その運用法を解き明かしたたった一人の人物であるが、当時これを理解する者はおらず、当局からの監視締め付けとともに世間からは狂人扱いという不遇の巨星と言える。

そこで戦後の金井南龍氏が「天津金木」「天津菅曾」そして「フトマニクシロ」と元伊勢28箇所(?)への言及を強調したことにつながり、わたしは何を意味するのかわからないそこに並々ならぬ関心を惹きつけられたわけだ。

さて、古事記を日本語という「音」の成り立ち、言語創世記として記したものとして読み切ったのが大石凝真素美翁の『真訓古事記』(今は入手不可)であり、さらにこの『真訓古事記』を読み切る際に降りてきた叡智を自動書記に近い形で記述したのが笠井叡氏の『金鱗の鰓を取り置く術』という著書で、これは笠井氏ご本人から奇跡的にお譲りいただくことができた。

確かに古事記は稗田阿礼という、今で言えばシャーマンによる「降ろし」を太安万侶が文字に起こしたものであるから、

稗田阿礼(太安万侶)『古事記』(奈良)→ 大石凝真素美『真訓古事記』(明治)→ 笠井叡『黄金の鰓』(NOW)

というように、おそらくたったひとつの根源的な情報源から流れてきているデータの、彼らは人間として器(受け皿)役を担っているだろう。ともかく、現代までこの叡智が伝わってきていること、それ自体が奇跡極まりないことである。

そしてこの、洋の東西、時代を問わず神智学、神秘学、音楽、舞踏、芸術、あらゆる求道的表現に精通し、また何より身体性を追求されて第一線であられる笠井叡氏という器を通した『金鱗の鰓』という指南書に描かれていることは、まさにわたしがこの人生で知りたかったことのすべてと言っても良いほどのインパクト、叡智そのものだと感じている。


【時が来た】

また、現代まで時代が下ったことに関して、今ほどこの理の肝を受け入れる(受け取れる)だろう人間の数が多い時代はないのではないかな?とわたしは考えている。今ほどこの理の重要性が、火急的な緊急さをもって理解、かつカラダを以って実践されなければいけない時もないのではないか。

わたしたち一人一人が宇宙の中心で、国のカラダを作るのは、民主主義とか社会主義とかのイデオロギーでも制度でもない。一個人のカラダが国のカラダとなり、それが新たな惑星をつくる、ということ。さらに差し迫る戦争やら何やらで、仮に国も地球も滅びても、我々のカラダ(単なる肉体ではない)が新たな宇宙を生み出す元になる。

つまり、今という時のために稗田阿礼はこの情報を降ろしたのではないかとさえ思えるし、その意味で進めるならば、古事記編纂を命じた天武天皇偉大だ!ということにもなろう。


折しも、なんだか急に、この1ヶ月くらいか「日本語」「日本人」というキーワードが堰を切ったように溢れ出してきて、日本語という言葉の重要性を伝えようとする指令があるのだろうと思われるが、ここでもまた、例の如く芯から外れたイージーな話が作られてしまうことを、語弊を承知で不遜ながら大変危惧しているということもなんとなくお伝えしておきたい。

我々の危機、前から言っている人類としての危機は迫っているし、とにかく時間がない。

そしてかく言うわたしだって何ひとつわかっていない、この『金鱗の鰓』の探索を、共に深く進みたいと言う方がどこかにいないかなと思っている。これを探索し、実践できる人が一人でも増えることが今という時の大命題なのではないかと考えているので、勉強会など開催したいが、はてどうしたものかと考えあぐねているのが現状。どなたか関心を持つ方はお知らせください。


オマケとしてついでに言うと、金井南龍が「白山王朝」と呼んでいるものを、笠井氏は「ウガヤ朝」と称しており、要するに両者は同じことを指す。そしてわたしはずっと「そこ」の探求をしていたわけだ。

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最近になって、金井南龍という昭和期に活躍された神道家の存在を知りました。 彼の言及であまりにも興味深いのが「白山王朝(=前王朝)」および白…

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