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不登校と、『支援』を受けることについて考えてみた話

子供達が不登校になってから、色んな人に助けてもらうことが増えた。学校の担任の先生はもちろん、同じ学年の先生方や通級の先生、保健室の先生、相談員の先生。学校に来てくれるスクールカウンセラーさんやソーシャルワーカーの方。色んな人に支えられ、見守られている。いつも本当に有り難いな、と感謝している。

だけど、1人だけ苦手な人がいる。
ソーシャルワーカーのT先生。御年75才の大ベテランで、以前は教員をしていたそう。定年後も困っている人の力になりたくて、ソーシャルワーカーとして地域の小中学校を飛び回られている。

初めてT先生と会ったのは、息子の小学校。
そこで相談員のS先生に紹介され、T先生とS先生と私の3人での面談することになった。


息子が所属する小学校には、珍しく学校とは別枠で『相談室』が有り、相談員のS先生が常駐されている。S先生は学校の先生ではなく、福祉寄りの中立の立場。親が学校の先生に相談しにくいことなども、間に入って橋渡ししてくれる有難い存在だ。
相談室は、教室に入れない子供達の居場所にもなっていて、相談室から教室へ戻っていった子供達が何人もいる。
全く学校に行かなくなった息子も、いつも穏やかで優しいS先生を唯一信頼していて、月に1回忙しい中安否確認を兼ね自宅に来て、息子の遊び相手をしてくれたり『こんなことも出来るけどどうかな?』と息子の精神状態に合わせて色々な提案をしてくれたりする。S先生には本当に助けられている。


そんなS先生から紹介されたソーシャルワーカーのT先生。いつもとは違う目線で話が出来るのかもと、とりあえず会ってみることにした。

T先生は75歳という年齢を感じさせない、若々しくて元気な方だ。冗談を交えながら教員時代に担当したお子さんのエピソードなど、たくさん話をしてくださった。
最初は私もふむふむと、T先生の話を一生懸命聞いていた。でも時間が経つにつれ、それもだんだん苦痛になってきた。
まずシンプルに、T先生の話が長い。1度話し出すとなかなか終わらない。次に、こちらが話をする隙がなく会話のキャッチボールにならない。面談時間の殆どがT先生の話で、息子の今後の話をしようと思っていた私は戸惑った。
困ってS先生の顔をそっと伺うと、S先生も少し困った顔をされているように見えた。
そのまま1時間が過ぎ、T先生が『またいつでも話しに来てね。待ってるわ。』と言って面談が終わった。

息子の為と、内職の時間をやりくりして空けた貴重な1時間。私は一体何の為にわざわざ学校に出向いたのだろうか。それとも、最初は私の緊張をほぐすための顔合わせだったのだろうか…。
疲れたのか、帰宅後ダウンして2時間ほど寝込んだ。

2回目に会ったのは娘が通う中学校。T先生は毎週1回決まった時間に来てくれている。

娘の中学校には、通級とは別に教室に入りづらい子供達の為に開放している教室がある。もちろん、普通にクラスメイト達が遊びに来ることもある。畳敷きのスペースやエアロバイクなども置いてある、自由な感じの場所だ。
娘は登校しても殆どその教室で過ごしていて、T先生もよく顔を出し色んな生徒と話をしているらしい。

娘もT先生何度か話をしたことがあったが、共通の話題が見つけられないのと、自分の話をするタイミングがとれないらしく、コミュニケーションとるのがちょっと難しいかな〜と言っていた。

その日はちょうど個人懇談の日で、娘と懇談を終えて帰ろうとしたら、たまたまT先生と会い、ちょっと話さない?と声をかけられた。帰って仕事があるので…と言ったら、10分だけと言うので娘と3人、別室で話す事に。

最初に、娘がよく書いているアニメキャラの模写イラストの話になった。『模写ばっかりじゃなく、オリジナルとか、もっと体全体とか描いてみたら?描いたらまた先生に見せてよ。』娘は描けるか分からないけどやってみます、と答えた。
あとは昔の体験談と、洗濯と料理についての世間話だった。結局40分間殆ど先生が話をして終わった。

帰宅後、疲れたのかまた1時間ほど寝込んだ。
その日の内職仕事は出来ず終いだった。

その後も娘を車で迎えに行くと、時々T先生が笑顔で手を振っている。時には『またいつでも話をしに来てや、いつでも待ってるで。』と言われる度、自分の顔が強張るのがわかった。

そして先日。
娘の進路指導懇談会の日、中学校で懇談前にT先生と遭遇した。娘はいつも用意が時間ギリギリになるタイプなので、中学校に着いた時にはもう懇談会1分前。焦る私を気にもせず、T先生が帰りに話そうと声をかけてくる。
『帰って急ぎの仕事があるので…』と断ると、娘の方に『じゃあ娘さんだけでもどう?』と声をかけるT先生。娘もはっきり返事が出来ず、『はあ…。』と曖昧な答え。私は焦りのあまり『本当に懇談の時間に遅れますので、すいません、失礼します!』と叫び、娘と2人階段を駆け上がった。


無事懇談会が終わり、娘に『T先生と会うの?お母さんは仕事あるし帰るけど?』と聞くと、『私も懇談で疲れたから帰りたいな〜。』と娘。先生に断ってくる、と言うので車で待っていた。

しばらくして、娘とT先生が現れた。
『また時間を作って、話ましょう。連絡するから。』『私もええ歳やから、しんどくて今日もユンケル飲んで各学校を飛び回ってるのよ。お母さんも無理しないようにね。』
もうとにかく早く帰りたくて、『ありがとうございます。じゃあ、失礼します。』と言って、車に娘を乗せ逃げるように中学校を後にした。

帰宅後、また1時間ほど寝込んだ。
仕事をする元気がわかない。
なんで毎回こんなに疲れるんだろう。

夕方、S先生から電話があった。T先生から連絡を受け、会う日の調整をしたいという。
仕事が早いな。
今日の事、前回、前々回の事を思い出す。

…あー、もう無理かも。

思わずS先生に、
『正直に言って、私はT先生とお話ししたくないんです。特にアドバイスをいただけるわけでもないし、いつもお話も長くてしんどくて…。T先生が息子を心配して下さっているのは充分わかるんですが…。』
と伝えていた。

S先生はちょっと驚いた様子で苦笑しながら、
『あ〜、そうなんですね。いや、いいんですよお母さん。正直に言ってもらうほうが、こちらも有り難いです。じゃあ先生には、今回はお母さんのほうでちょっと厳しいですと伝えておきますね。また何かあったらいつでも教えて下さいね。』
と言って話は終わった。

思わず勢いで、断ってしまった。
果たしてこれで、良かったんだろうか。

でも、ただでさえ疲れている所に人に気を使うことによってエネルギーを使い果たしたくない。
私自身に余裕がないと、子供達に余裕をもって対応できない。

T先生はベテランだから、もしかしたらこんなことくらい全然気にされないかも知れない。
けれど私は性格上、適当にスルーしたりすることが難しい。直接会う相手なら、この人は一体私に何を伝えたいのだろうと、全集中で聞いてしまう。だから毎回人に会うと疲れてしまう。

特にT先生ははっきり何か意見を述べたりしないので、毎回何か探られているような気持ちになる。それは私の中での捉え方の問題でもあると思うけれど、どうしても話しながら相手の反応を探るタイプの人は、お腹の中が見えなくて落ち着かない。
こっちは腹を割って話してるんだから、そっちも腹を割ってくれよと勝手に期待してしまう事が、多分良くないのだろう。

T先生は、優しい人なのだろうと思う。
多分普通の人は、75歳でユンケル飲みながら人のために飛び回ったりしない。

息子の事を気にかけてくれているのもわかる。子供が2年も学校に来られないのは異常事態で、そのお母さんも無理して頑張っていると思われているのかも知れない。

あるいは、お母さんが外に心を開かず頑なになっているから、せめて気楽に世間話でもして笑ってくれればいいと思っているのかも知れない。現に、T先生は、私が冗談飛ばすことでお母さん達が元気になってくれるのがうれしい、という話もしていた。


助けようとしてくれている人の手を取ろうとしない、私の心が狭いのか。
人からのせっかくの好意を、手を払い除けて、私はただ無駄にしているのか。
正直、私はいつも迷っている。

先日、息子の修学旅行の時に色々配慮してくれたお向かいのご主人と夫が、たまたま会って話をした。

ご主人はうちの子供達を小さい頃から知っていて、2人ともとても不登校になるようなタイプに見えなかったので最初はとても驚いたそう。
ご主人は息子がずっと学校に行っていないのを知っていたので、修学旅行がいいきっかけになればと思ったんやけど…と残念がられていた。
それを聞いて、心苦しく思った。

色々な支援を提示され、その支援をうまく活かすことが出来ない度、自分は人として親として未熟なんだろうかという思いがわく。でも、息子の気持ちを最優先しているかぎり、その期待には答えることが出来ない。

親として『馬を水辺に連れていくことはできるが、馬に水を飲ませることはできない』からだ。アドバイスや、色んな方法があることはちゃんと息子に伝える。時には厳しい事も話す。その上で、最終決定権は息子に委ねている。
そんな甘いことを言っているから、いつまで経っても学校に復帰出来ないんだ、子供なんだから引っ張ってでも連れて行くべきだと考える人もいるだろう。

でも我が家はこのスタンスを守り、息子を無理やり引きずり出したりしないと夫と決めたのだ。

今回のT先生の件も、色々考えた。
例えば鏡の法則で、先生を自分の鏡とするならば、話が長い、人の話を聞かないなどは私も持っている部分。お互い様だと思う。
また、苦手な人とも大人としてきちんと付き合う、という態度を子供に見せた方がいい場合もある。
やっぱり会ったほうが良かったのか。

モヤモヤする。
この気持ちはなんなのか。自分の心の奥底に聞いてみた。それは、たった一言。

『頼んでない。』

これが、私の本心だった。


声をかけてもらえるのは有難いことだ。気にかけていますよ、というサインを出すことで家庭の孤立を防ぐことが出来る。
また世間話を通して交流することで、癒やされるお母さん方もたくさんいるだろう。T先生も色んなお母さん方がお菓子を持ってよく遊びに来てくれると言っていた。

でも、私には今それは必要がないのだ。
むしろ気を使うことで、逆に疲れてマイナスになってしまっている。エネルギーが枯渇してしまう。

今まで私はずっと、人と話すのが苦手だった。でも子供達が不登校になってからはそんな事も言っていられなくなった。色んな人と話をした。
だから子供達への支援を受ける際、今までの反省を踏まえて、可能な限り心を開いて正直に現状を伝え、具体的に何に困っているかを伝えるように心がけている。
下手くそでも出来るだけ、真っ直ぐにボールを投げる。そうすると、相手からちゃんと受け取りやすいボールが返ってくる。だから支援を受ける側も、助けてほしいならばちゃんと相手に情報を伝えなければならないと思う。

それでも、今回の対処がベストだったのかはわからない。けれど私なりの精一杯の答えだった。


☆☆☆☆☆☆☆


災害や震災で被災者が着るものに困った際、全国各地から大量の古着が送られてきて、逆に処理に困ったという話を聞いたことがある。

着るものを無料で貰えて有難いと思った人もいるだろう。でも中には、今私は人から施されたボロボロの古着しか着られないような立場になったのか、と落ち込んだ人もいるかも知れない。
本当は、新品の服の方がきっと嬉しい。もっと正直に言えば、現金の方が嬉しいかも知れない。でもきっと助けてもらう側は、助けてもらっているのだからと、きっとこれは私の我儘で贅沢なのだと遠慮して、本音を言い出しにくいのではないだろうか。

古着を送るのも人の善意。お金を送るだけが支援ではないだろう。でも、受取る相手が心から本当に喜べなければ、例えば一方的に送りつけられた古着は、本当の意味で支援と呼べるのだろうか。
また、助けてもらう側は、最低限以上の希望を伝えてはいけないのだろうか。
被災した女性達が、口紅などの化粧品を送ってもらって嬉しかったという記事も読んだ。化粧品は、生活に必ずしも必要なものではない。けれど、お化粧をすることで女性達が元気になったのなら、それは最適な支援なのだと思う。


支援をする側も、支援を受ける側も。
コミュニケーションなくして心が通じ合うことは難しい。どちらの気持ちも温かくなるような支援が、本当の支援なのではないだろうか。

私は今支援をしてもらってばかりの立場だけれど、将来もし支援する側になった時は、相手の気持ちに寄り添うことを何より大切にできる人になりたいと思っている。

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